Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2014年5月・第4週 告白する信仰No4 「喜びを届ける告白」

2014-05-25 18:38:44 | Weblog
【口語訳】マル5:33
その女は自分の身に起ったことを知って恐れおののきながら進み出て、
みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
はじめに)
長血の女の告白する信仰を通して主が彼女に新しい人生を作って行かれるのを見てきました。第一の告白は、主とのコイニアをもたらす、悔い改めの告白でした。第二の告白は暗黒を破る希望の光りを生み出す「希望の告白」でした。第三は人と神との関係コイノニアの修復を果たす「和解の告白」でした。第四の告白は人々を最も幸せにする道に導く告白であり、その告白をする人自身に限りない喜びをもたらす告白でもあります。

1.難しい方法を取らなかった
①きっと彼女は
隣の女性達、家族や親戚を訪ねては自分の身に起こった事を告白し続けたに違いないのです。やがてその物語は弟子達の中でコモンセンスとして定着し、後日マルコによって羊の皮の巻物に記録されるに至ったのでしょう。彼女が生涯、証し続けられた理由は何処にあるのでしょうか。難しい方法でイエスを伝えなかったからです。クリスチャンが福音を伝えるのが「難しい」と感じるとすれば、わざわざ難しくなる方法を選ぶからです。
つまり、礼拝で馴染みのある説教方式を、そのまま適用する事の問題です。個人的に伝えるとき、同じ方式で語ると相手にはユーメッセージになって届いてしまいます。ユーメッセージの反応は、拒絶、反発、反撃など否定的ですから関係が壊れるという問題が生じます。その後は、霊的な問題も口に出来ない難しい関係になり「伝道は難しいなあ」と落ち込むのです。
②福音を伝えても
反発を避けることが出来、しかも関係が壊れない方法は無いのでしょうか。「愛(私)メッセージ」を使えばいいのです。彼女の証しが、継続的に可能であった事を考えると、きっとそれは「愛メッセージ」の形を取っていたに違い有りません。「わたしは、御衣の房に触れば癒されるとただ言い続けていたの。すると、どうですか、本当にイエスがこられたのよ。そして、顔を覆いながら人をかき分けて前に出て、イエスの衣の房にタッチしたのよ、そしたら何かが流れてきて体が熱くなり、このように変えられてしまったのよ」。彼女は「貴方も求めなさい」とは勧めなかったので証を聞いた人々と関係が険悪になることはありませんでした。
では、福音の宣教はなさなくても良いのでしょうか。いいえ、その役割は協力関係にあるメッセンジャーに委ねれば良いのです。メッセンジャーは公の人ですから、福音を提示して決断を迫っても、相手は心を開きやすいし、断ったとしても、証し人との関係は元のままです。
彼女が生涯、イエスを証し続けることができた第二の理由があります。それは、使徒たちの姿に見出せます。

2.「貴方が知らない食べ物?」
使徒行伝
13:52 弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。

①福音を証する時、
様々な、迫害をも越えさせる程の、不思議な喜びが彼らに与えられたのです。故に益々証し続けました。主を証すると至福の喜びがわき上がるのです。それを一旦味わったなら、もう止められなくなるのです。そこにあるのは聖霊の喜びですから結果の如何に関わらず、聖霊御自身が喜びの泉となってわき上がって来られ、天来の喜びで満たされるのです。旧約聖書も「主を喜ぶ事はあなた方の力です」と喜びは生きる力だと証しています。主は「私にはあなた方の知らない食物がある」と言われました。その食べ物こそ、福音を証する喜びです。
ヨハネ15:11 わたしがこれらのことを話したのは、
わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、
あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

主イエスが長血の女を触れ癒された最終目的はヨハネ15:11を経験させることだったのです。長血というマイナスを癒してゼロにすることだけでも尊い事です。でも、それ以上、つまり喜びを積み重ねていく、プラス&プラスの人生に入れられたのです。何と偉大な計画でしょうか。

②貴方が神の子とされた
デスティネーションも同じでしょう。この御計画に気付くなら、福音を証する事こそ、神のデザインされた人生設計図の中軸であることを理解でき、クリスチャン生活の諸要素の歯車がすべて噛み合い、神の愛の原則で回転し始めるでしょう。この祝福の相続人となりませんか。

ロマ書8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、
ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

2014年5月・第3週 告白する信仰No3 「和解の告白」

2014-05-18 20:31:46 | Weblog
マルコ5:33
その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、
みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。

1.触れたのは誰か
①イエスは
立ち止まり、「誰かが私に触った、その人は誰ですか」と周囲を見回し始められたのですが、彼女には、すぐに応答出来ない事情がありました。(レビ15:6-7)現代の鳥インフルエンザ患者の様に長血がある人は、汚れた存在とされ、その人に触れた人も汚れた存在となり隔離されなくてはならなかったからです。彼女が友人知人からどれほど疎まれてきたか想像できます。彼女が通ると人々は何処かに身を隠しました。彼女は人間不信に陥り、人の心に横たわるエゴイズムを限りなく憎んだのです。
②ところが、彼女自身、
イエスに癒されたいと熱望した時、他者が自分に触れるなら大変な苦しみに陥る事を承知の上で潜り込んだのです。極めてエゴイスティックな行動です。彼女はその自分の身勝手さを十分自覚していました。ですから、名乗り出るとしても、まず自分の罪を謝罪することから始めなくてはなりませんでした。それは極めて困難なテーマでした。でも主の促しが必要でした。遂に主に降伏し従う決意をして立ち上がり話し始めました。
「皆さん、ごめんなさい、私の身勝手さをどうぞ許してください」。
と告白したあと、自分の身に起きた奇跡の一部始終を語りました。群衆は驚くと共に、彼女が既に癒され清い人に変えられた事を目の当たりにして彼女が清くされた事を認めました。勿論、中には心を開かない人もいたかもしれません。でも、それは、その人と神様との関係の問題で彼女の責任ではありませんでした。
大切なことは、この悔い改めの告白を通して人々との和解の橋が掛けられたことです。それは長血の女が後の人生を生きる上にとても大切な事でした。彼女はこの告白のゆえに、礼拝堂で持たれる礼拝に咎められることなく出席できるようになりました。

2.勇気ある告白
①平田きぬ先生
がまだ献身者であったとき、一人の若い女性が聖書学校に入ってきました。ところが、年上の自分に対してチャンと挨拶しない人でした。目上の人に当たり前と思える、敬意を払うことがないその人に、次第に腹立たしい気持ちになり早天祈祷会に出て祈っていても、彼女を思いの中で責め続けていました。ところが、気がつくと、自分が祈れなくなっていました。大きな黒雲の壁が自分と神様との間に立ち上がり、遮り、どうしようも出来なくなりました。平田先生は苦しくなり「主よ、助けて下さい」と祈ると主が語られました「確かに、あの人は不作法です。でも貴方は遙かに年上でしょう。貴方も若いときは気がつかないで不作法をしていたのではないですか、ならば、まず貴方から和解の告白をしなさい」「え、私の方からですか」非常に抵抗がありました。でも、ある朝、別室に呼んで、向き合って座り自分から告白しわびました。ところが返事がありません。でもしばらくすると、ぽたぽたと何かが畳の上に落ちて来ました。「私が悪かったのです、許して下さい」と砕かれた彼女が其処にいました。抱き合って、和解が生まれました。
②長血の女
が和解の告白をした時、主は安心して行きなさいと言われました。
「安心していきなさい」というのはKJVで「平和の中を行きなさい」と表現されています。つまり、神と人とに責められることが無い、和解した関係の中を歩みなさいという意味です。長血の女性が自己中心という罪と身勝手な行動の両方を告白して悔い改めた時、人との関係が回復しただけでなく、主とのコイノニアが確立されました。
③毎日の生活の中で
人間関係の問題は付きまといます。人生の悩みの60%はその中で生じると言われています。感情的になってしまい言い過ぎ、後で心が責められること、うかうかと偽りを言ってしまって後で良心が痛むという事は無いでしょうか。心に責められるべきものを和解の告白を通して取り除くべきです。
この告白に導かれる聖霊の声が聞こえるとき、サムエルのように「しもべは聞きます、主よ語りたまえ」と潔く応答できますか。下記の御言葉が貴方の魂と重なるよう祈りましょう。

【口語訳】一ヨハネ
3:21 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことが
なければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。
3:22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。
それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、
行っているからである。



2014年5月・第2週 告白する信仰No2 「希望への告白」

2014-05-11 14:49:34 | Weblog
5:28マルコ(詳訳聖書)5:28
せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、
言い続けていたからである。

1.キリストにある希望
①12年間の長患い
の果て治療費も使い果たしどん底の状態にあり、希望とは縁のない世界でした。でも、キリストにあるならば、「治していただけるだろう」と語ったその告白が彼女をして希望を引き寄せ始め、主イエスが、彼女の街に来らることになったのです。鉄が磁石化すると周囲の鉄片を引きよせるのと同じ原理です。【詳訳聖書】の箴言にこうあります。
「生と死は共に、舌のパワーの中にある。それを慕い求める者はその実を食べる。」
舌は常にあなたの僕です。あなたが希望を語るように命じるなら、無条件に従ってくれ、その舌が貴方の人生を引っ張っていくのです。
②この法則は
スポーツの世界ではメンタルトレーニングの一環として応用されています。でもそれは自己暗示の域を出ることは出来ません。なぜなら、自分の力で自分を励ますのですのですから、自分の現実に目が向くと「そんな事言える資格はあるの」という問いが帰ってきて良心が苦しみブレーキが掛かり継続不可となります。「告白する信仰」は、自分の思いではなく、真理である聖書の言葉、神の約束を告白するのです。その裏打ちは、死からよみがえられたキリストです。それ故、たとえ自分がうまくいかなかったとしても、信仰の告白は継続出来るのです。むしろ、自分に弱さを覚える時ほど、大胆に告白できるのです。
③例えば、
自分が惨めに思える時があるでしょう。その時「私はだめだなあ」と思わず言ってしまうかも知れません。でも、昔の日本兵のように「もとい!」と言って消去し言い直します。
「キリストにあるならば、私の弱い時こそ私は強い、キリストの力は弱いところに現われるからです。主の恵みは私に十分です」と言い替える事が出来ます。「まずいことになってしまったなあ、運が悪いなあ」と思わず口に出すかも知れません。でも、「キリストにあって、神は万事を益として下さる。呪われるべきものは何一つ無い、全ての事を感謝します。私を強くしてくださるキリストにより何事でもできます。アーメン、ハレルヤ」。
何と肯定的、創造的、建設的、希望的告白でしょうか。

2.告白への追い風
①神は私達
の弱さをよくご存じです。信仰の告白が継続出来るように、特別の助けを加えて下さいました。それが、この記事が示している約束です。

5:30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、
群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。

主は力が出て行ったと言われましたが、それは(使1:8)にある力と同じ言葉です。つまり、彼女が受け取ったのは、単なる人間イエスの暖かさ、励まし以上の何かでした。それは、神御自身の命、聖霊であったのです。この聖霊が彼女に触れられたので、彼女は癒され、力強い告白の人に変えられたのです。最初の教会が生まれる時にも、同じ命が弟子達に届きます。その時、弟子達は、御霊が語らされるままに新しい言葉を語ったのです。まさに、新しい告白の始まりでした。
②聖霊がうちに来てくださるとき、
人はキリストにある希望の言葉を最高の力強さで語ることができるのです。なぜなら、聖霊はイエスが死からよみがえられて生きておられる事を証し、弱り果てそうになる私達の心に追い風となって励まして下さるからです。
私は、ゼロから彦根で開拓しました。数え切れない程の、失望と落胆に出会いました。でも、開拓開始の前にいただいていた、「恐れるな、語り続けよ。この町には私の民が大勢いる」を、その度に告白しなおし、新しい勇気をいただいて前進し続けることができました。気がつくと文字通り大勢のクリスチャンが誕生していました。
③ダビデ
が、いよいよゴリアテと向き合ったとき、石投げ器にセットし革紐の端を握って何度も回しました。遠心力が加わったとき、小さな石がゴリアテの額を打ち破りました。あなたが、口で何度も告白されるとき、御言葉は、聖霊の遠心力で力が蓄積され、大きな問題を粉砕していく強烈な原動力となるからです。
貴方も、祈りと瞑想の谷に下っていき、貴方の手に握ることができる、力ある御言葉を5つ見つけませんか。それを、暗唱という腰の革袋に蓄えましょう。何時でも必要なとき、取り出して用いられるように準備しましょう。貴方は告白する信仰の計り知れない、深みを経験し、御名を誉め讃えるでしょう。


2014年5月・第1週 告白する信仰No1「コイノニアを得させる告白」

2014-05-05 12:23:32 | Weblog
マルコ(詳訳聖書)5:28
それは、せめてみ衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、
言い続けていたからである。

はじめに)
毎日出てくる言葉が、否定的、退行的な言葉から感謝と賛美の言葉に入れ替わるなら、心は随分、前向き肯定的に動き始めるでしょう。長血の女性の経験の中にこの法則を見出します。マルコ伝5:28の「思っていた」は詳訳聖書では「言い続けていた」とあるからです。告白が変化し始めた時、彼女の人生の景色は明らかに変貌しはじめました。この原則は極めてエキサイティングな経験です。御霊の助けがあるクリスチャンにはごく適用可能な法則なのです。彼女を通して教えられる4つの告白とそれがもたらす4つの新しい人生を一つずつ学んでいきましょう。

1.変えられた焦点
①12年間、
頼ってお金をつぎ込んだ医者達に失望してきた彼女の心には、否定的な思いのヘドロが深く堆積しました。少し突くとメタンガスのような否定的、攻撃的な言葉が噴き上げたのです。否定的な会話が積み上げられるほど人は不幸の泥沼にますます沈んでいくのです。彼女の受けた最大のダメージはその否定的スパイラルに巻き込まれてしまったことです。そのさなかイエスの噂を耳にしたのです。彼女の心の目は暗闇から光へとUターンしました。すると告白が全く新しくなったのです。
②人が新しい歩み
を始める時、だれでも通らなくてはならない告白が、1ヨハネ1:9に見出せます。それは、ホモロゲオーで「罪を告白する」と記されています。単に罪の懺悔ではなく、神が罪と言われている事に同意する告白であり、同時にキリストの身代わりの死を通して、すべて許され義とされた事実を受け取る告白です。その時、神の義の衣が貴方に着せられ、神との交わりコイノニアが始まるのです。(1ヨハネ1:7)

2.コイノニアの三要素
①コイノニアとは
協賛・・「この音楽会は、NHKの協賛で行われています」と言えたなら、とても心強いことです。天下のNHKが一緒に責任を共有してくれるのですから。神様とのコイノニアに入れて頂くというのは、神が共に貴方の人生を協賛してくださるということです。ですから、あなたの心に良い願いが起こされたなら、遠慮せずに行動に移すことです。うまくいかない時、責任が取れるだろうかと、始める前から、恐れるのは止めましょう。道をそれたなら主が止めて下さるし、修正が必要なら教えてくださいます。長血の女がイエスに触れたなら良くなると言うことを思っているだけでなく、言葉にし始めた時、イエスの一行を町に引き寄せ始めたのです。
②コイノニアとは
交換・・彼女の心が主に向き始めると、重荷が軽くなり始めました。それは、主との交わりで「交換」が始まったからです。創世記に出てくるヤコブは家出して叔父の所に向かう途中、野宿します。夜中目を覚ますと、彼の前に天からの梯子が下り、天使達が上り下りしていたのです。主の使いはヤコブの苦しみを天に運び、代わりに希望を積んでヤコブの処に戻って来たのです。礼拝の中で賛美していると気がついたら心の重荷が軽くされているという事はありませんか。普段の生活の中でも苦しみに押しつぶされそうに感じた時、異言で祈るなら交換コイノニアがなされると教えています。(ロマ8:26)
③コイノニアとは
交流・・聖書に願いと祈りをするように勧められています。願いは人から神への一方通行ですが、祈りとは、双方向交流です。ロトが見えるところでは繁栄している低地を選んで下っていった姿を見送るアブラムは寂しく、ともすればやるせない思いで一杯になりそうでした。その時、神は語り始められました。孤独と無気力を癒して余りある慰めと希望が届けられたのです。主の語りかけを受け取ることは最も尊い経験なのです。クリスチャンの人格変革の鍵はこの交流に起因します。交流なくして変革なしです。双方向信仰が必要なのです。

3.告白の継続
①クリスチャン生活
を継続するなかで祈りや言葉の黙想がマンネリ化る時があります。知らない内にコイノニアが希薄に感じられる事はないでしょか。その理由を聖書はこう教えます。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

今一度、1ヨハネ1:9の告白を通して、コイノニアをリセットさせていただきましょう。生涯を通して、この告白の恵みを受け取り続けましょう。