Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

第⑤週 1コリント16章 「愛に至る道」  201107

2011-07-30 16:55:11 | Weblog
●目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。
いっさいのことを、愛をもって行いなさい。(1コリント16:13―:14)

1.愛をもって
①一切の事を愛をもって行うことは、クリスチャンの周囲とどう関わるかの原則を示しています。これを否定する律法はありません。しかし、その御言葉の前節にパウロは内面を充実させる必要を勧めています。これは、順序として理にかなう勧めです。自分の心をしっかり守ってこそ、他者への健全な関わりが構築されていくからです。そのために、ここで3要素が述べられています。覚醒、信仰、強靱です。

2.3ファクター
①「目をさましていなさい。」
人はアダムの影響で目が下を向きがちです。人の悪、自分の弱さ、外部からの苦しみなどを凝視しがちです。荒野のイスラエルはそれ故に、不平不満に支配され不信仰になり約束の地を継げなくなりました。人生に予想外のマイナス的出来事が生じることは避けられません。それだけを見つめていると呟きになり、否定的なこころになり、他者を愛するどころか自分さえ愛せない心情にさせられてしまいます。そのように仕向ける悪霊の働きがあります。それに早く気づいて、拒否するだけでなく、むしろどんな時にも届いている神の恵みに目が開かれるよう助けて頂くことがとても大切なのです。ロバの目でも開かれた主は(民22:27)御子を下さるほどに愛されたあなたの目を開き、見るべきものを見させてくださらないはずがないでしょう。
②「信仰に立ちなさい。」
6月の初め、年配の先生方と3日間の互助研鑽の時をもたせていただきました。M師と食事の席でしばらく交わりましたが、同師が「私は幸運な者です、先生や奥様もそうですね」と告白されるのを聞き「そう思っています」と妻も答えました。しかし、その後のテーブルを長方形にしての互助研鑽時、現在その方が経験されていることは、「幸運です」と思えない事も含まれているのを知りました。でもこの先生は、その中にあっても「神は自分を愛してくださっているのだから、決して悪いようになさるはずがない」という信仰に立っておられるのだとわかりました。ですから「私は幸運です」はその信仰告白だと感じました。順風満帆時に「神は愛である」と告白して立つのは信仰がなくても出来ます。逆風困難の状況下に置かれた時、「神は愛なり」と告白して立つためには信仰の力が必要でありそれが義の実、愛の実を結ぶのでしょう。
③「男らしく強くある」
この意味は、問題を責任転嫁しないで、自分の問題として、また課題として受け止める心の強さを示しています。モーセはイスラエルの人々の不信仰を自分の責任として神の前に祈り憐れみをもって神がお許し下さることを祈っています。モーセの男らしさの極みをかいま見ることができる箇所です。変えることができない事を受け止める心の安らかさと、変えることができる事を変えていく勇気とをもつことが男らしく強くあることです。この強さが他者への優しさの裏打ちとなります。これらの3要素を今一度味わいましょう、そして、すべての事に愛を働かせましょう。

(8月は夏休みをいただき9月から再開させていただきますのでお祈りください。)

第④週 1コリント15章  「救われる福音」  201107

2011-07-23 13:05:35 | Weblog
●15:2・・・・この福音によって救われるのである。

1.福音
①私達を救う福音とは何でしょうか。15章初めに述べられているイエス・キリストの死と葬りと復活ですがその適用を述べているのが、Ⅱテモテ 2: 8 [口語]の使徒パウロのテモテへの勧めです。
●「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、
いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」
「クリスチャンとは復活されたイエス様を思いながら生きる人」の事だと、使徒はテモテに諭しています。
②そのためには、その主がどの様な方かを具体的に理解していなくてはなりません。ラリー・リーはその著「一時間も祈って居ることが出来ないのですか?」のなかで、主の名を8つ上げてそれを毎朝思い巡らすことを勧めています。主を思いめぐらす時に具体的でとても有益なので引用したいと思います。

2.主の御名
①「主は私の正義」(エホバ・ツィッカニュ)・・クリスチャンになってからも的はずれな言動を犯して悔やまれることがあるでしょう。でもれに気づいたらすぐに、この名を唱えて、悔い改めの祈りをとうして、再び神の前に100%の大胆さを持って立つことができます。
②「聖めてくださる主」(ヤウエ・マカデッシュ)・・神の御霊は信じる者の中に住みクリスチャンが清い生活を送り霊的にも道徳的にも聖くあることが出来るよう力を与えてくださいます。(1コリント6:11、1テサ4:3-4、5:23)
③「主は私達の平和」(エホバ・シャローム)・・・罪によって壊れていた神との関係をご自分の血によって回復してくださいました。もはや呪われるべきものは何一つ無いのです。だから再び自分を呪いに定める言葉をはいてはなりません。
④「そこに居られる主」(ヤウエ・シャマ)・・先日、大切な扇子がいつものリュックの中から消えていたのでショックでした。昨年夏、「センスある牧師になろう」と奮発し、作者名入りの京扇子を購入し、今年も夏期に入って愛用したいと思っていた矢先でしたので、数時間悩み落ち込みました。しかし、そこに「おられる主の御名」を思いだし、祈って信じますと告白しつつ、立ち回り先に電話していきました。見つかりません。ついに足で探すことになりましたが、遂にあるレストラントで見つけ本当に感謝しました。ささいな事もすぐに祈りに取り込むことが、御名を崇める奥義(扇)であると教えられた次第です。
⑤「主は癒される」(ヤウエ・ロフェ)・・この詳細は必要ないでしょう。
⑥「主の備えが見られるであろう」(ヤウエ・エレ)・・主はお魚のお腹の中に税金をはらう貨幣を用意されました。5つのパンで5千人の空腹を満たすパンを供えられました。主は必要な時に必要な助けを与える人と出会わせて下さいます。それを期待していいというのです。違った方法での解決法を備えても下さいます。このことを数えるなら枚挙に暇がないでしょう。
⑦「主は私の旗」(ヤウエ・ニスィー)出17:15・・・旗と言う字は柱、軍旗とも訳せます。ユダヤ人のなかでは、奇跡をも意味しました。旗は神の戦い、権威、一切のものをキリストの足下に従わせ私達を圧倒的な勝利者としてくださる信仰の根拠です。(1コリント15:57)
⑧「主は羊飼い」(ヤウエ・ロイ)・・主はその民の羊飼いです。その羊を導き、養い、守り世話をされます。それ故に死でさえも恐れないとダビデは告白しています。

3.まとめと祈り
①8つの御名をもたれる方が共に生きておられることを瞑想し力づけられましょう。

第③週  ヨシュア記17章  「ボケとツッコミ」  201107

2011-07-17 20:19:00 | Weblog
1.ボケの視点
①ここはまるで漫才のボケとツッコミのような笑える対話が記されています。(こういう部分では大いに笑いましょう。笑いは人間に与えられた神の賜ですから)
ヨセフの子孫であるエフライムは領地の分配が成されていくのを見て、指導者ヨシュアにクレームをつけます。「今の土地は神が祝福されて人数が増えた私達には狭すぎてふさわしくありません。もっと広い場所をあてがってくれませんか」それに対し、ヨシュアのツッコミはふるっています。「祝福されて人数が多すぎるのですか? 結構なことですね。その力を結集すれば未開の土地の開拓は楽勝ですね」人数が増えたという相手の言い訳を逆手にとり、それなら、自分で解決できますねと返答します。それに対し「いいや、そこには戦車を所有する民が住んでいて容易に追い出すことは困難なのです」と言い訳を理由に再度要求のボールを投げかえしてきます。ヨシュアは暗に「あなた方には信仰と言うものがないのですか。信仰を働かさないなら問題は問題のままでしょう、それは、敵の戦車の問題でなく、信仰を働かそうとしない怠惰が生んだ臆病心が問題なのではないですか」と見事に本質を見抜き問題を彼らに「のし」をつけて返品しています。
②教会で問題になるのは、問題を持った人がその問題を他者の問題にしてしまうことから生じます。それを終息させるには、単なる同情ではなく、その問題の所在を見抜き、問題をその属する存在に返して上げる神愛的親切心です。それが人を自立させて上げる本当の親切であって単なる人間的な同情的関わりは、糖分摂取過多の故に健康を害している人に相手が求めるという理由だけで飴を上げている人と似ています。親切な優しさというパフォーマンスを着た自己満足の行為では何の解決にもなりません。イエス様はそのベールを絶えずはがし、真理に導こうとされました(マタ16:23)。クリスチャンもそれに倣うべきです。キリストの愛と似て非なる愛が横行する教会は最早キリストの体としての機能を失った死んだ体となり、塩味を失った塩の様に踏みつけられるだけだと主は看破されました。

2.ツッコミの視点
①「あそこは、山林で切り開く必要があり難しい」別の場所は「戦車を持つ民がいて困難が予想される」言い訳と絆創膏はどこにでも張ることが出来るとよく戒められました。人生の価値ある領域は棚ぼた式にはやってこないと言うことでしょう。神の子とされたのは、信仰のない人と比べて特別に有利な場所に置くためでなく、どんな場所でも神の栄光を現すためなのだと早く悟るべきです。その場所が有利であるかどうかは自分で選べないことが多いでしょう。でもそこを神の前に価値ある場所とするかどうかは、クリスチャンの手に委ねられています。
②今委ねられている領域を数え感謝し、そこから信仰によって広げられる土地を精一杯耕して希望の種を撒こうではありませんか。神はきっとその信仰を喜んで祝福してくださると、現代のヨシュアであるイエス様も勧められているのです。

●どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。ロマ書15:13

(8月は夏休みをいただき、9月から再開させていただきます。お祈りください。)


②週  ヨシュア記15-16章  「泉をも下さい」 201107

2011-07-09 10:01:07 | Weblog
●彼女は答えて言った、「わたしに贈り物をください。あなたはネゲブの地に、わたしをやられるのですから、泉をもください」。カレブは彼女に上の泉と下の泉とを与えた。15:19

1.リクエスト内容
①私に泉をも下さいと申し出た娘に対し、カレブは「上の泉と下の泉とを与えた」と記されています。このことにつき、F.Bマイヤーは「その泉が上と下とであったことも意味深長です。主の日に丘を登って教会堂の礼拝に汲む静かな泉と、やがて下って仕事の喧噪の中に発見する下の泉と。賞賛の上の泉と謙遜の下の泉と。健康で汲む泉と病苦の中で聞く泉と。成功の泉と失意の泉と。賛美の泉と悔恨の泉と。この上の泉と下の泉と」とのべています。(今日の力)
②主はどの人にも二種類の泉を用意されていることを示唆している箇所です。御言葉に基づく礼拝という泉から水をくみ出しているなら、下の泉つまり、生活の諸要素の中で、神が届けてくださる、聖霊の御声という下の泉もわき上がってくるのではないでしょうか。その意味でこの2つの泉は相関関係にあると思われます。この2つがあって、クリスチャン生活は霊的でありかつ実際的な力をもつと言えます。 各論的に適応するならば、ディボーションが上の泉であり、その適用は下の泉と言えます。すばらしい御言葉の感動が心を潤すだけに止めないで、少しでも適用する労を惜しまないならば、下の泉からまたひと味違う、水がわき上がり人々を潤す事が出来るでしょう。共通して言えることは、上の泉から汲み上げるだけで終わらないで、下の泉からも汲み上げる事が大切だと思います。悪魔の最大の策略はクリスチャンが自己満足で生涯を終えるようにすることです。この悪魔の策略をブレイクスルーすることが実を結ぶクリスチャン生活の鍵です。

2.リクエストの理由
①カレブがアクサ夫妻に託した領地ネゲブの地は、ユダの南部地方で乾燥した不毛の
地でした。アクサは「お父様、同じ嫁がせるなら、北の緑豊かな土地にしてください」と言いたかったかもしれません。私達も、困難より、安逸を好みます。 ですから、困難を選択させられると不平不満を抱きがちです。「あの人のように楽で繁栄があることが望ましい」と他人の庭の花は赤く見えるものです。でも、アクサは祈って自分の心を整理したのでしょう。「例え荒野であっても、泉があればそこは祝福の地である」と信仰的な受け止め方が出来たのだと思います。これが、信仰から来る肯定的人生観です。単なるヒューマニズム的積極思考とは似て否なるものです。なぜなら、その根拠は単なる希望でなく確かな実存だからです。
その水はキリストの体なる教会で呑むことができます。 聖書からキリストが語られ、その命である聖霊の泉に常に導いてくれる教会は、上の泉と下の泉がある教会だからです。
②開拓当初、私達は、彦根から京都の北部にある母教会に電車で通っていました。子供が生まれても木曜集会に行っていました。車もない時代夜9時頃集会を終え、京都の北部から雪の中を帰彦した有様は今も鮮明です。それをなさしめたのは、そこにあった命の泉のゆえでした。どこにあってもその泉に繋がっているなら大丈夫という勇気を示してくれたアクサは隠れたヒーローでした。

●「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。ヨハネ7:37
私達も勇気を持って主に祈りましょう、「私に上の泉と下の泉をください」と。


第①週  ヨシュア記12-14章  「勝ち取る恵み」 201107

2011-07-02 21:19:47 | Weblog
1.勝ち取る恵み(13章)
●13:1 さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、
「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。

①神の恵みをうけとる方法には、二方があることを知ります。一つはただ感謝して受け取る恵みです。しかしさらに進んで勝ち取る恵みも備えられていることも真実です。約束の地で戦い続け、31王を追放し神が約束された領域を獲得しイスラエル諸族に分け与えたヨシュアは相当な年齢に達していたはずです。もう十分になすべき事を成し遂げた後でした。そのヨシュアに「取るべき地はなお多く残っている」と新たな仕事を命じられたのは、一見過酷な事の様に感じられます。それは、人間の弱さを十分ご存じである神でこそ示し得る高い愛と言えます。

②年齢を経た者にやってくる誘惑は、生き方が後ろ向きになることです。また現状維持に安住して主を新たに信頼して進もうとしなくなることですがそれは、現状維持で止まらず後退への一歩になりかねません。その状況に置かれた人には共通して襲ってくる誘惑です。ダビデがそうでした。彼の王国が安定し自ら出陣しなくても部下が十分役割を果たしてくれる立場に達していたとき、人生最大の危機が訪れたのでした。

③平田きぬ先生がまだ50代で現役というとき、「私は老人の霊に取り憑かれかけた」と説教中話されたことを思い起こします。「ああむつかしい」「もう年だから」と言い訳を作り始めたらそれは、事実ではなく「老人の霊」のなせる誘惑でクリスチャンは主の名によって追い出さなくてはならないと語られ、一同爆笑したことでした。若年寄という言葉もあるように、神の御霊に満たされていないと、青年でも妙に人生を悟った様な考え方に凝り固まって、神様から来る夢に向かって成しようとしなくなることが少なくはありません。でも使徒行伝2:17で聖書は『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。・・若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。』と言っています。「後ろ向き現状しがみつき症候群」にかかっているなら年齢の問題でなく霊勢の問題なのです。そこには活き活きとした活力は喪失し、よどんだ水のように倦怠感が支配し神のご計画とはほど遠いものです。神はすべての年齢で生涯通じて聖霊の香りを放ちそれを楽しみながら歩み続ける事を得させたいのです。ヨシュアへの一見過酷な命令も人の陥りやすい弱さと傾向への洞察から出た愛の鞭といえるお言葉です。きっとヨシュアはその神の慈愛を受け止めたと信じます。

④三坂正治師は現在70才です、同氏は数年前に脊椎の神経にでき物が見つかり、手術をへて死の淵から生還してこられました。その過程で細い神経の一部を削り取られたため、長時間の思考に耐えられない弱さを負われています。そのハンディをみて奥さんやお嬢さんは「もう止めていたら」と言われたそうですが、若いミニスター達とともにドクターコースをはじめられました。 新しい夢の故です。 その姿は老年のヨシヤと重なり、大変勇気づけられるのです。主はさらに取るべき地を備え、そこにだけある聖霊の喜びを備えておられることでしょう。 これは、獲得する恵みです。私達は、「受け取るべき恵み」と「獲得すべき恵み」をきちんと整理し、止まるべき所には止まり、進むべき領域には獲得する恵みとして、生涯前進できる者でありたいのです。なぜなら、主の復活を通してそのために聖霊の注ぎが備えられているからです。

● 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る。使徒2:17

★Bread of Life 6月第3週「2種類の愛」 コメント
「距離を置く愛」は人との関係を遠ざけるのではなく、主にあって塩味を持って人との関係を築き上げる祝福であることを教えていただきました。そして「距離を除く愛」のような交わりを通して共に福音に与かるよう祈っていきます。H