Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

「主であることを知る」 201111①週 エゼキエル25:17

2011-11-05 17:53:50 | Weblog
●わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。エゼキエル書25:17

1.主を知るようになる
①主を親しく知ることができるのは、信仰者にとり大きな喜びです。しかし、エゼキエル25章で述べられている例は、モアブやアンモンの人々の不義の故です。十字架で私たちの罪を担ってくださった愛なる方を裁きを通して知るということは悲しい事です。 むしろ、霊的感性によって主を知りたいものです。
そのためにカイロス信仰の感性がとても大切です。神が私たちの日常の出来事の中に、介入されるチャンスが常にあるという霊的感性です。神の備えや助けを受けていても「ああ、あれは偶然だ。自分は運がいいなあ」こんな感覚では、生活に神を感じることは困難でしょう。でも少し、カイロス感覚を研ぎ澄まして、昨日から今日への生活を振り返るだけでも、身近に輝くカイロスの宝石を見つけることが出来ます。

2.ミステイクのカイロス
①8月の最後の日曜日、月曜からの最終講義に備えて東京の練馬に新幹線で出かけました。家を出るのが3時過ぎになったので、大急ぎで京都駅に向かいました。地下鉄の八条口の階段を駆け上がりチケット売り場に到着し、「東京まで往復をください」とお願いしカード払いでチケットを入手。自由席は1-3号車のため3号車のところまでスーツケースを引きながら急ぎました。間もなく「のぞみ」が到着し無事に自由席に座れ、ほっと一息つき20分ほど経過した時、車掌さんが、チケット検査に回ってこられました。そのため、ポケットから切符を出したとたん、驚きました。私の手にあったのは11号車の指定席つきの切符でした。だったら汗をかいて、3号車まで歩く必要はなかった。これは窓口での発券間違いの所産だから、指定席料金をもどしてもらうべきだ、けれど今更うまくいくだろうか、そんな思いが頭をかけめぐるうちに車掌さんが目の前に見えたので「だめもとだ」と事情を話し、「どうすればいいでしょうか」とチケットを渡しました。15分ほど後、戻って来て下さり意外にも「京都の窓口に確認をしましたところ、こちらの間違いであることがわかりましたので返金します」と1100円の返金、「日本のJRは世界に誇れる」とつぶやきは賛辞にかわりました。予期しない入金がこんなにも気持を変えるのかと我ながら驚きました。

②東京に着き環状線に乗り換え池袋で下車、さらに西武池袋線で江古田駅に到着、歩いて約10分、ようやく目ざす宿泊予定のウイクリーマンション江古田という長い名前のホテルに到着したのは、午後の9時過ぎでした。午後6時に事務員が引き揚げ、それ以後は暗証番号を自分でプッシュして玄関ドアーを解錠し中に入らなくてはなりません。ドアーが開きロビーに入れたので緊急電話のダイヤルをまわし、当直の職員を呼んで個人的にチェックインをお願いする旨を告げると職員が出てきてくれて受付が開始されました。ところが「事務所が閉じていますので現金払いで一週間分をおねがいします」とのこと、頭が真っ白になりました。カード払いを予定していたので、現金の用意が無かったからです。あわてて服やズボンのポケットから現金をかき集めて揃えましたが1000円だけ不足なのです。「ええ、今夜はホームレス?なんという運の悪さ?」と呆然。

③その瞬間、新幹線の中で懐に来て下さった野口英世博士の面影が浮かびました。帰りの切符をしまった袋が御停泊場である事を思い出し、指を入れると確かにご在宅。博士にお出まし頂いて帳尻を合わせ無事チェックインと相成りました。
部屋について一息入れると、さすがに空腹を覚え、隣のコンビニでおにぎりを求めましたが値段は120円、例の残り100円と小銭入れの20円で遅い目の夕食にありつきました。おにぎりを食べながらつらつら考えたのですが、過去に京都駅の切符売場で職員が間違って指定席切符を発行した記憶はありません。「神様は、私の財布の中身とホテルの支払額を承知しておられ、不足分を満たすため、あえて職員の勘違いを許された」としたら、主以外のだれにそんな事が出来るでしょうか。

④信仰がないなら、「偶然が重なる事もある、今日はついている」とニヤッとして終わりでしょう。しかし、カイロス信仰の視点からは、これは、神の御手であり、神が共におられる事のしるし以外なにものでもないでしょう。裁きでもなく、特別の奇跡でもなく、普段の生活中のカイロス(チャンス)から、主を知ることが出来るのはなんと幸いでしょうか。なぜなら主を知ることは、私たちの喜びであり力だからです。