バイオ研究 徒然草

林檎の郷から世界へ
バイオ研究および温泉情報 最前線

2010春の徒然

2010-05-29 08:34:26 | Weblog
新学期も始まり、忙しい時期が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
先日TVで、ブログがなくなった人のいい思い出になっている。というNewsをやっていましたが、このブログで私を偲ぶ人もいるだろうか。などと考えてしまいました。しかし、間違いなく生きた証しであるのは間違いないのですよね。

ところで、なんとRoxy MusicがFuji Rock Festivalに来る!ということで私は早速チケットを購入しました。

あれは20年も前のことだったでしょうか。Roxy Musicがくるとのことで観にいったら、メインのメンバーで来たのはブライアンフェリーだけで、アンディーマッケイもフィルマンザネラもいない(たしか、Roxy Musciのコンサートということだったのに~)。そして、奏でられる音楽には、Roxy Musicの香りはどこにもない。とても悲しい気持ちになって帰ってきたのを覚えております。

3人がそろったRoxyを生で観れることはないと思っていたので、感慨しかりです。夏のFuji Rockで盛り上がりましょう!

P.S.
浜ちゃんのブログにJohn Mayerがいい!というので聞いているのですが、いいですね~。You TubeでClaptonとCross Roadを競演しているのでみてみて下さい。
こんなに、Guitarの色々な表情をだせる人はなかなかいないような。。。
アルバムHeavier thingsはNorah Jonesとクラプトンを足して2で割らない感じなのです。
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アウフヘーベン(高次元での統一)

2010-05-15 16:16:03 | Weblog
最近、呼んだ今東光和尚の仏教入門から、「一隅を照らす」に続き、中道の精神を学びました。

中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない自由な立場による実践(仏道修行)をいいます(ウィキペディア参照)。たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道であります。

釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを、中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となったのです(ウィキペディア参照)。

というわけで私なりに解釈した中道の精神その一というのは、苦い修業は勿論するのだけれども、楽しむ時は楽しむのだということです。こういう現実的な修業をしていけば目覚めた人になれる。

ところで、今東光という天台宗の偉いお坊さんがいて、直木賞をもらい参議院議員もした人ですが、政治は中道じゃなきゃいかん、ということを言った。でも、私の中道はたんに右翼と左翼の真ん中を行くっていう意味ではなくて、対立する意見でとことん話し合って、お互いを高め合うことによってさらなる高みに達することを、中道というのだ、と言った。

つまり中道の精神で持って皆が議論しあって高いところを目指していく。これが中道の精神その2です。

他にも中道の精神には色々あるみたいです。深い言葉ですね。
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温湯温泉でピットイン

2010-05-15 10:06:55 | Weblog
4月某日、どうしても疲れがとれず、温泉にピットインしてきました。夕方遅くからいって、晩ご飯を食べて泊まってくるだけの小旅行をピットインと称しているわけですが、猫が狭いところを好むかのように、たまに誰とも会わないようなところに行きたくなるのですよね~。

今回訪れたのは弘前から車で30分ほどのところにある温湯温泉。
泉温が温いので温湯(ぬるゆ)というのではなく、よく温まるので「温湯(ぬるゆ)」と言うのです。

ついてまず、町の共同浴場である「鶴の湯」のひとふろあびました。ナトリウム-塩化物泉で非常にあたたまります。


「鶴の湯」の周囲には「温泉客舎」が立ち並んでいます。これは明治後期から大正にかけての木造建築とのこと。
各温泉客舎は内湯を持たず、客は外湯に入りに行く、という昔ながらの湯治場のスタイルを守っているのです。




私は「鶴の湯」の近くにあるとある民宿に泊まりました。ここには、内湯もありました。

温湯温泉は、温泉街全体がまるで明治、大正の雰囲気をとどめているような異空間でした。

時をかけるおじさんとしていくのは良いのですが、彼女を連れて遊ぶにいくのはクエスチョンマークの温泉でした。
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「一隅を照らす」再考

2010-05-05 11:14:32 | Weblog
今東光和尚の「仏教入門」を読んでいたら、「一隅を照らす」運動のことが書いておりました。私がこの言葉に出会ったのは、今年の冬に安比温泉に泊まった時のこと。東光の弟子である瀬戸内寂聴がよく来たという温泉の一室でした。寂聴による「一隅を照らす」の書がかけてあり、まさに温泉宿の一隅を照らしていたのでした。書が何かを訴えていて、何とも言えぬ風格があり、非常に心を打たれたのです(以前のブログ「一隅を照らす」を参照)。その時は、あまり深く考えずいい言葉だなあ、と思っていました。ところがこの言葉にはすごい歴史があったことがわかりました。

この言葉は、平安時代に比叡山延暦寺を開き日本天台宗の宗祖である最澄が著した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の冒頭部分に記載された文章に由来しているそうです。

『山家学生式』

国宝とは何物ぞ
宝とは道心(どうしん)なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す
故に古人(こじん)の言わく
*径寸十枚(けいすんじゅうまい)
是(こ)れ国宝に非(あら)ず
一隅(いちぐ う)を照らす
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと

*「径寸」とは金銀財宝のこと。

 つまり、「一隅を照らす」が、意味するところは、「お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など自分が置かれたその場所で精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ何物にも替え難い貴い国の宝である。」ということです。

東光和尚は、当時の世相を心配し、この運動を始めたとのこと。今でも続いている「一隅を照らす」運動の初代会長だったのです。やはり、本物の言葉には力がありますね。


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