地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

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光り輝く国 スリランカ

2009年03月31日 10時07分12秒 | スリランカ

こんにちは、中村です。
先日、2009年の1本目のツアーで、6年ぶりにスリランカを訪れました。
この6年の間に添乗員として多くの国々を訪れましたが、国によっては、その大きな変貌ぶりに正直戸惑わされることもありました。
経済発展とグローバル化により、便利で快適になり良かったなと思う反面、町の様子や人々の素朴な生活が失われてしまったかのように感じられる部分もあり、時代の流れとその事実を受け止めつつも、少し寂しく感じてしまうこともあったからです。

しかし、今回再訪したスリランカの印象は依然と全くといっていいほど変わらず、そのことに逆に驚かされました。
もちろん、これは私個人が感じたことであり、現地ガイドの話を聞くと、物価も高くなり、スリランカの人々の生活もいろいろな面で、年々変わってきているようです。
この6年の間、スリランカ北部での内戦の問題や約5万人もの人々が犠牲となったスマトラ沖地震など、ときたま報じられるスリランカのニュースには決して明るいものではありませんでした。
しかし今、さまざまな問題が少しずつ解決に向け、良い方へ進んでいます。
この国の緑豊かな自然と歴史遺産、そして人々の信仰心の深さや笑顔に触れ、改めてスリランカの魅力を皆様にお伝えできればと思います。


スリランカは、インド洋に浮かぶ島国です。北海道を少し小さくしたほどの面積で、その形は、インド亜大陸が涙をこぼしたかのようだと表現されます。
15世紀以降、南部の海岸地域はポルトガルやオランダによる植民地支配を受け、1815年からはスリランカ全土がイギリスの植民地となり、イギリス人は道路や鉄道を建設し、スリランカの近代化を進めました。
イギリス植民地時代には、この島は「セイロン」と呼ばれ、その名を冠した紅茶が有名です。

しかし、この国にはヨーロッパ人がやってくる遥か昔の紀元前6世紀からの歴史があり、紀元前3世紀にはインドから仏教が伝えられました。
紀元前1世紀にはローマ帝国から使節が派遣された記録が残っており、5世紀以降は「海のシルクロード」の中継地として、大きな役割を果たしました。
この「海のシルクロード」を支配していたアラブ商人たちから「セレンディブ(Serendib)」(やすらぎの島)と呼ばれ、これがセイロンの語源といわれています。

1972年に英連邦自治領「セイロン」から「スリランカ」として、完全独立を果たしました。
国名の「スリランカ」とは、この国の人口の約70%を占める民族・シンハラ人の言葉で、「光り輝く島」を意味し、その名の通り、スリランカは2500年もの長い歴史の中で育まれた文化と豊かな自然が残されています。
13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロはその美しさに感激して、「ここは世界で一番美しい土地だ」と言葉を残したと言われています。
南西部には、ヤシの木が立ち並ぶ黄金色の砂浜が続き、内陸には1000mを超える山々と見渡す限りどこまでも続くジャングルが広がっています。
このジャングルには象をはじめとするたくさんの野生動物が生息しています。
スリランカの古都と言われる世界遺産の町・キャンディの郊外には、ジャングルでお母さんと離れてしまった子象や傷を負った象を保護しているゾウの孤児園(写真)があります。
このことからもわかるようにスリランカの人々は自然と動物を大切に保護しています。
また、この国を訪れると、人々の信仰心の深さにも驚かされます。
お釈迦様の教えが2000年以上にわたって人々の心に生き続けていることが、旅の中でも良く伝わってくるのです。


ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、日本とスリランカにまつわるあるエピソードをご紹介いたしたいと思います。
終戦後の1951年、サンフランシスコ対日講和会議でのことです。
対日賠償請求権を巡り、「日本を南北に分割して統治すべき」とか「日本を独立させるのは時期尚早」などソ連をはじめ諸外国から厳しい意見が出る中、当時の大蔵大臣(後の初代スリランカ大統領)で、英連邦内自治領「セイロン」の代表として出席した故ジャヤワルダナ大統領が、釈迦の言葉を引用し次のような演説をしました。

「戦争は終わり、もう過去のことです。私たちは仏教徒です。
 やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すのでは、いつまでたっても戦争は終わりません。
 憎しみで返せば、憎しみが日本側に生まれ、新たな憎しみの戦いが始まり、再び戦争が起こるでしょう。
 戦争を憎しみとして返すのではなく、慈愛で返せば、戦争がなくなり、平和が生まれます。
 戦争は過去の歴史なのです。もう憎しみを忘れて慈愛で返していきましょう。」

彼は、セイロンの対日賠償責任の放棄を明らかにするとともに、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行ったのです。
第二次大戦中に日本は、コロンボとトリンコマリーを空襲して被害を与えました。
そして、永世中立国スイスまでもが日本に賠償を求める中、大戦中日本軍から少なからず攻撃を受けた国の発言としては異例のことでした(日本無罪論のインドや、ユーゴスラビア、ビルマは初めから会議に参加していませんでした)。
このスピーチが、当時日本に厳しい制裁措置を加えようとしていた諸外国代表の心を打ち、ソ連による反対を押しきり、日本の国際復帰への道につながったと言われています。
その後、1952年に日本は世界で最初にセイロン(スリランカ)と正式な外交関係を樹立しました。

6年前に初めてこの国を訪れた際、このことを知り、とても心が温まり親近感を覚えました。
世界史の授業では習わないことですが、教育の中でこういった史実をもっと子ども達に伝えていってほしいと思います。
そして皆様が、少しでもスリランカに興味を持っていただけたら嬉しく思います。
(中村 亜希子)

明日から「ロフォーテン諸島・オーロラの旅」の添乗に行ってきます。
帰国後、またご報告いたします。



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