紫陽花つながり② 城下町南の端、愛宕山の「愛宕神社」、そして「溝川地蔵」のこと。

2022-06-24 10:28:14 | 神社仏閣など
今から300年ほど前の「享保年間(1716~1735)の城下町」の絵図が手元にあり、ジッと眺めていました…
この絵図では城下町台地の南端ぎりぎりのところに「愛宕山」があり、
その周辺の様子がハッキリと描かれています。
台地の縁には小さな「川」(溝川)が流れていたようです。


江戸時代の地図にはもちろん書かれていませんが、
愛宕町在住の知人に聞くと、この上野の台地の南側辺りは元々田畑もしくは湿地だったとか…
その湿地帯には「蓮」がいっぱい咲いており、その「蓮池」のほとりに草庵が建てられ、
それが現在の「蓮池寺(レンチジ)」であるとか。(門前の写真あり)
そして、現在の「東日南町」には昭和8年に『溝川地蔵』が建てられたとか。
 「溝川地蔵の由来」(「南部地区の歴史と文化」冊子より)
2020/6/30に伺った時の様子です、
   
いつ通っても「灯り」が点り、町の安全を見守ってくれているようです。
 
会式の時に使われる「折り畳み式の台」でしょうか、
「大小23体のお地蔵様」とか、にぎやかで華やか、楽しいです。
 

時代を経て、ずいぶん様子は変わりました。
こういう昔の地図を見ることも面白いなと、感じるようになった今日この頃(笑)。
その時代の「そこ」にはいないけれど、いろんなことを想像することは楽しい、
見る人それぞれの「物語」があってもいいのかなと…
伊賀のことを再発見するための勉強会へ行かせてもらってるおかげです(笑)。

そうそう、愛宕さんでした
愛宕さんの手水舎紫陽花バージョン
 
この手水鉢には、「宝暦13年(=1763年)・・・施主 赤坂町 裏町」と彫られています。
その「裏町」とは、「現・伊予町」辺りのことだそうですが、
なんかタイムスリップしたような気分です。
「天神さんの手水鉢」もそうだったのですが、儀式のようだった「手を清める」という場所に
歴史の証人を感じるようになってきたのか??

そういえば、春には「菜の花バージョン」でした、


四季折々、こういう場所を訪れるのが楽しみなのです。
神様仏様というより「花」を愛でに行ってるようなもので、なんだかゴメン。

話があちこち移りますが、愛宕さんの「北の鳥居」(中之立町から入るところ)の手前には
「不動明王様」がいらっしゃるお堂があります。
仏様そのものは隠れておられますが、奉賛会や町の方々がいつもお参りされ、
綺麗な花が供えられています。実物は残念ながらお目にかかれないけれど、
前田呉耕』さんの「不動明王像の絵」が掲示されています。
  

ところで、「愛宕神社本殿」を見学させてもらった時に、
  「三重県指定文化財」です。

本殿に向かって右側に「灯籠」があります、ちょっと不思議なご縁の灯籠らしい…


ではまた
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清水谷(ショウズダニ) その2 「大師堂」と「地蔵堂」、そして「(伝説) 弘法の井」とは…

2021-09-18 11:28:43 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
「清水谷」という場所がどんなところか、実際に行ってみてわかりました。
googleの地図を拡大して上から見てみると『清水谷弘法』と出てきます。

が、これだけでは何も詳しいことはわからないので、
福居町にお住いの方何人かに聞いてみました。

・毎月「大師堂」と「地蔵堂」の清掃作業とお参りをしていて、
・町外の方も含め信心深い女性たちが協力しているとのこと
・10日、20日、30日と当番を決めている
・しかし、高齢化してきて坂の上り下りが辛くなってきている等々、
お話を伺いました。
出来る限りのこと、自分にできる範囲のことを細々と続けていく姿勢を
若い世代にもみてもらいたい、けどみなさん忙しそうでねぇ…と、
寂しそうにお話をしてくれたのは、そんな世話人の方のお一人で知己の方でした。

「今年は、お地蔵さんの『赤い前垂れ』をぜ~んぶ作り直したとこで、
その新しい『前垂れ』を見てもらえるのは嬉しい」とお話しながら、
「お堂の扉」を開けてくれました。
 (再掲)

清水谷地藏】は完全開扉とはいきませんが、
扉の隙間からお地蔵さまたちにお目にかかりました…
  
お地蔵様は、造られた当時のプロ?の作品ではないかもしれませんが、
みんなやさしい顔をしていて、ここに「集って楽しく」って感じですね。
「地蔵見守り隊」が強力です。
お堂の外には、だれが置いたのかわからない「お地蔵様一体」が
門番をしておられます(笑)。

さて、もうひとつは、【清水谷弘法大師のお堂
  (再掲)
お堂の中の両側の壁には「絵画」がたくさん飾られています、
 

   
写真を撮らせていただきましたが、これでごく一部。
書かれてから数十年以上は経ちますが、色彩が綺麗に残り、
大切に保存されていた様子が伺えますし、
呉耕の作品全容を見る機会はなかなか少ないらしいので、
清水谷の宝物」を見せていただいた気分です。

因みに、この絵を描いた方は、
≪伊賀上野で活躍した日本画家、前田呉耕(ゴコウ)(1886~1951年)。
前田呉耕は鈴鹿郡坂下村(現・亀山市関町)出身。
京都で絵を学び、江戸時代の円山応挙らの系譜に連なる日本画家。
大正に入り伊賀市内に移り住み、亡くなるまでの約40年間、伊賀上野で絵筆をふるった。
江戸時代の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)藤堂高虎像」(国の重要文化財)を
写したとみられる作品なども知られる。≫とのことです。
(参考:歴史街道HP・「生誕130年展」)


さて、上野西部地区住民自治協議会の中で
当地区の歴史的な場所などの『探訪シリーズ』なる印刷物(A4判で)が発行されています。

清水谷の「弘法の井」』と『小鍜治(刀工)伝説
文責者の方にもお話を伺い、その伝説のご紹介を~~

≪(前略)その昔、空海の導きによって湧き出したとされる井戸があります。
(略・昔の文献によると)
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ」とあります。≫
   「清水谷の弘法の井」

また別の文献『ええもん探し隊見聞録より』(2004年頃の読売新聞掲載版)では、
≪城下町・上野の本町筋や二之町筋は水脈があり
昔から酒や醤油の醸造業が盛んであった。
その先には古くから弘法大師を祀るお堂があり、
境内に霊験あらたかな湧き水の井戸がある。≫との記述もあり、
≪御詠歌の三番に、刀鍛冶「宗短」の名が出てくる。
「さえわたる剣はふしぎ 宗短の ここに名をえし しょうず寺かな」≫ と。

案内してくれた方の話では今でも、「湧き水は出ています」とのことで
 
この「弘法の井戸水」は今のところ枯れることはない、そうです。
ワタシもこの霊験あらたかな「井戸水」を使い、手を洗わせていただきました、
さすが「井戸水」、冷たくて気持ち良かったですよ。

では、もう少し「清水谷の伝説」はつづきます。
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