「ひまわり」、そして我が家の藤袴(フジバカマ)成長記録①

2022-07-17 00:20:32 | 花や風景など
伊賀⇔奈良県御杖村や津市美杉村などを行き来するとき必ず通る場所。
どのコースが一番近い?って聞かれると、やっぱりこのコース=国道368号線(途中422号線?)しかないかな…

話は少々遡って、
今から40数年前、学生時代に先輩たちに連れられ初めて都会(大阪梅田だったと思う)で、映画を見ました。
「黄色い大輪の花が一面に咲き誇る」シーンが目に焼き付いていました。
「広い大地」どこまで行っても花・花・花…
それが『ウクライナの大地』だったとは最近まで知らなかったのです。
映画の名前ははっきり覚えているのに…

地球上で、あってはならない嫌なことがおこっています。
(あえてずっと触れずにきましたが)
あの広大な土地にこれでもか!っと咲き誇る「ひまわり(向日葵)」を見て、
いつかはあの中を歩いてみたい、、、と単純に憧れていたものです。

昨日、面積こそ違いますが、見事に同じ方向を向いて「この向日葵を見て!」と咲く花の姿を見て、
あの映画のシーンを思い出し、夏になるとなんとなく黄色い花の傍に行きたくなる気持ちの原点は、
この映画だったかもしれないと、ふと思い出した次第。



調べると三重県内でもあちらこちらで「ひまわり畑」はあるようですが、
思い付きで行くには遠かったりしてなかなか行けていませんでした。
なんとなくモヤモヤしていたところにパッと目に飛び込んできた風景、
 (再掲)
あれはゼッタイ「ひまわりだ!」とすぐ気が付き、狭い道でUターンして、
細い道を下り、細い橋を渡り、車を止め、
草刈りをしている方の横をすり抜け、走って行きました。
いろんな思いを込めて、誰かに届けたかった…
 
「ひまわり」が地の果てまで続いていた記憶が蘇りました。


長い前段になりましたが、ここは昨年の秋に初めて訪れ、
生まれて初めて『アサギマダラ』を見ることができ、とても感動した場所でした。
 
あの人この人、いろんな人に1000km以上も旅するチョウチョでね、
「フジバカマ」の花が好きでね…と伝え、ぜひ行ってみてっておススメしてました。
「へぇ珍しいねぇ、行ってみようかな」と実際に行った人には必ず、
「行って良かったわ、あんな光景は初めて見た!」と喜んでもらえました。
こんな反応は滅多にないので、ちょっと嬉しくもあり、
ワタシのささやかな冒険も喜んでもらえることがあるんだなぁと、ニヤニヤしていたものです(笑)。

そして、昨秋ハハんちの庭で偶然「フジバカマ」を見つけた時の
なんで、ココにこの花があるの?と聞いても、さてなんでやろ??と。
「秋の七草のフジバカマ」という花が大好きな『アサギマダラ』っていうチョウチョがいてね、、、
一から説明をして、最終的に「この株、頂戴ね」となりました。
 ハハんちのフジバカマ

我が家の「フジバカマ」の説明をするのにこんなに書くとは思わなかったのですが
「フジバカマの原種」は一部では絶滅危惧種とかいわれたりしており、
もしハハんちの花が「原種」であったら…と思うとワクワクしてきます。
(原種かどうかの判断は素人のワタシには無理だと思いますが…)
いそいそと苗をもらってきたワタシ、家人にお世話を頼みつつ、
寒い冬を無事に越えたなぁ、と内心家人に感謝していました。
 
最近、ちょっと嬉しいモノをみつけたので、その報告です。
たった「一株のフジバカマ」だったのに、ここまで増えました!
そして、じゃ~ん!
  「フジバカマの花芽」

無事に咲いてほしい、祈る思い。
厚かましくも『アサギマダラ』が来ればいいのに…なんちゃって思ってます(笑い話ですよ)。

ではまた
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御杖村「岡田の谷の半夏生」、アサギマダラの郷(太郎生)で夏は「ひまわり」。

2022-07-15 15:39:57 | 花や風景など
お天気との相談で悩んでいたのですが「今日がチャンス!」と、決行しました(笑)。
直射日光のない曇り空なので森林の中を歩くには丁度いいかも…と思った次第。
昨年初めて行って感動しました、隠れ里のような森林の中にこんな光の世界があるんだと。

では、駐車場は「半夏生園」の近くに設けられており、少し近くなって嬉しかったです。
  

獣害対策用の扉はちゃんと閉めて!
  
杉が綺麗に揃っている歩道を進みます。

目の前に広がる光の世界へどうぞ
一輪の「半夏生」はこんなんですが


  
「シオカラトンボ」かな、見えますか?



再び静止画像で
   

  
そこはかとなく甘い香りがするのは「半夏生」と「ネムノキ」の成せる業か…

帰り道、艶やかな「紫陽花」
白い世界から戻ってこの花と山を見るとなんとなく涼し気に感じます。
  

帰路を🚙で急いでいたのですが、太郎生辺りで川の向こうに目をやると、
黄色い花が見えました。
ここでココに寄らなけらばワタシはきっと後悔すると思いました。
だって、ココは昨年の秋、何度も訪ねたところだったから、、、
「『アサギマダラの郷』のひまわり」☟


  
なんでみんなワタシの方を見てるのか?って、独り善がりの誤解しちゃいますよねぇ。

 
「向日葵」って、ちゃんと咲いたら(花として成長したら)「東向き」に咲き揃うんですって、
なので「丁度今が見頃 見てみて 」というアピールかもしれませんねぇ。

同じく、その先「上長瀬」辺り、
ここは古い「吊り橋/昭和橋」のあったところ
今は、新橋工事中!


濃厚で充実した3時間の🚙旅でした。

ではまた
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大野木の「中世城館」で歴史を感じる…②木津氏館、直居氏館

2022-07-13 23:28:08 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
6/4に現地研修に行ってから随分日も経ち、このままでは危ういままの記憶になりそう…
なので、自らを叱咤激励しつつ、気力を奮い立たせて、
(そんなオーバーな表現をしなくても…と思われそうですが、
 それくらい今の蒸し暑さに気力がついていけないのです

現地訪問し、「土塁」等の撮影もさせていただきました。
が、実際にはご子孫の方がお住まいなので、前もってきちんとお話をし、
立ち会っていただいての見学となっています。

いかんせん想像力が豊かでないので、自分なりの整理のために、各種参考文献を探し、
余湖くんのお城のページ」を見つけたので、当日の説明資料とともに
掲載させて頂きつつ、復習しようかと思った次第です。
 参考:『竹島氏館・木津館・直居館

「大野木の中世城館①」で訪れた『竹島氏館と『木津氏館』の真ん中から両館を望みます。
 『竹島氏館』

中間地点から『木津氏館』
  

畦道を進み…「土塀」、「堀跡と石垣」。
  

分かりづらいですが、ここは「薬研堀(ヤゲンボリ)」だったのではないかとのこと。
 

木津氏館
 ≪大野木地区の木津川西岸段丘に築かれている。
 東出地区の水田の中に屋敷林で囲まれた旧家が木津氏館。
 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館
 敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めている。
 また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀※であったとか。 
 木津氏館は、築城年代は定かでないが木津氏によって築かれた。
 木津氏は、伝承に拠れば山城国木津より移住したとされている。≫
薬研(ヤゲン)とは…
 Wikipediaより
 ≪堀の形状の一つで、薬研(=漢方で薬を細かくし煎じて飲むために、
 鉄製の細長い舟形で中が断面V字形)のごとく断面がV字形になっているもの≫

館をお暇するときに見上げた「」、近くからでは全体が撮れないほどデカい。
屋敷から出るときに「石橋」があり、その傍に立っており、
大野木の歴史を見ていた「大木」かもしれない、と思う。
  両手を広げてる風に見える…
」って、
 ≪「」の右側は「(キョ)」という漢字です。「手を挙げる」の「挙」の旧字で、
 「両手を揃えて頭上に持ち上げる」という意味があります。
 「きへん」+「擧」で、両手をいっぱいに広く突き上げたような形に枝が伸びる木をあらわし、
 欅の木の姿を見事に表現した漢字となっています。≫とのこと、なるほどね…
 「木津氏館」西側。

参考文献→「藤堂藩伊賀者と新発見木津家文書」要旨

次に、同じく木津川西岸の自然段丘に築かれている、
直居氏館
 ≪大野木清水地区の中心部にある直居氏宅を取り囲むように土塁※①堀の一部※②が残っている。
 土塁の西端は隣家と接しているが、高さ約3m程のある分厚い土塁※③がある。
 直居氏館は、築城年代は定かでないが直居氏によって築かれた。
 直居氏は、天正9年の伊賀天正の乱では他の豪族と共に比自山城に籠城した。≫

  ※①土塁(屋敷周り)

 ※②「堀跡」?

  
※③「土塁」
土塁の上から西側を見ると「比自山」は、すぐそこ!
 
「天正伊賀の乱」激戦の地、、、

ではまた

2022/9/1 追記
下記ブログをリンクいたします。
伊賀へいらっしゃい/伊賀市大野木地区
NHK大河「鎌倉殿・・・」に、いよいよ「伊賀の方(のえ)」登場です。(2022/9/4~)
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「岩根の摩崖仏」(伊賀市大内字岩根)。伊賀の花崗岩はスゴイよ…

2022-07-12 23:46:44 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
かなり大きな摩崖仏であることは噂で聞き及んでいました。
実際には個人的と、勉強会で伺ったので二度お目にかかることができました。
初めての時はもちろんドキドキでしたが、さほど遠い道ではなく、
現・成和西小学校(旧・花之木小学校)の近くを通る『旧月ケ瀬街道』沿いにありました。

では、順路として小学校の駐車場を抜ける感じで…
案内板は親切に掲示されていました。
 
平日に行くと、児童が傍らで何やらお勉強をしている様子でしたが、
不審者に思われることもなく行けました(笑)。

  
1回目は「タケノコ ノコノコ」の季節(5/6)に訪問、
なのでこんな感じ…
その竹林を進むと「説明版」と大きな岩が見えます。
  
鬱蒼としたところではなく、大岩の辺りが意外と開けているので、
陽光が差し込み明るいのです、せっかくの「摩崖仏」さまですがうまく撮れません
そのことを学習したので6/4に勉強会で訪問した時は、光を入れないように挑戦。
こんな感じで、、、
 

左端には「五輪塔」も彫られています、が
  
まぶしくてよくわからない…

では、少し詳しくご紹介。
岩根の磨崖仏(いわねのまがいぶつ)】三重県有形文化財(彫刻)
指定・登録日 1979(S54)年3月23日
所在地 伊賀市大内字岩根
所有者 菅原大辺神社(過去ログより紹介)
年 代 鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)(後期)

≪『岩根の磨崖仏』は花之木小学校(現・成和西小学校)の校門前の小道を西方向に歩くと旧街道があり、
花崗岩の巨石(幅約9m・高さ約3m、奥行約6m)の正面を、
巾2.1m、高さ1.52m、深さ15.2cmに龕(ガン)状に彫りくぼめ、
(正面に向かって)左から地蔵、阿弥陀、釈迦の立像を高肉彫し、
その間に半肉彫の蓮花を生けた花瓶を供養花として配す。
地蔵の下方左右には高さ21.2cmの合掌する侍者坐像2躯ずつを彫る。
龕(ガン)部に向かって左端に「徳治元年(1306)」の銘がある。
三尊が刻まれる龕(ガン=仏像・仏具を納めるために設けたくぼみ)の左には、
格狭間(コウザマ=壇の羽目や台・露盤などの側面に彫り込んだ 刳形(クリカタ) の装飾)を
台座とした五輪塔が刻まれている。
巨岩の上部には溝があり、正面の数カ所には方形の枘穴(ホゾアナ)が見られる。
元は庇(ヒサシ)状の建造物が着いていたと考えられる。
三尊とも量感、迫力に富む。鎌倉時代後期の紀年銘があることからも、
本像は当地域の基準資料として貴重である。≫

※ご参考まで「伊賀市の文化財」冊子より


また、『伊賀の花崗岩』のことも教えていただきました…
 ≪大ざっぱにいうとマグマが噴火しないで地中深くゆっくり固まったもので
 伊賀地区の地下はこの花崗岩で出来ているといっても良いくらい。
 岩倉峡、荒木石は花崗岩で、上野台地も花崗岩で出来ています。
 地下が岩盤なので雨水が地下深くまで浸透出来ず地中浅くに地下水帯があり
 上野公園、上野市街地でも井戸水がすぐに湧きます。
 この花崗岩の成分、雲母、長石、石英の内、雲母、長石が土に溶け込むと粘土に成ります。
 古琵琶湖がこの作用をし、伊賀焼き、信楽焼の土が出来ました
 石英は固くて溶けずに白砂になります。≫

美味しいお米、旨い酒、果物・野菜もおいしい、
みんな伊賀の花崗岩のなせる業
おそるべし!花崗岩。

ではまた
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「ネジバナにハチ」、なるほど。ハハんちの「コムラサキの花」

2022-07-10 15:18:24 | 花や風景など
「花」のほうが、虫さんに気を使って「その形」になってるんですか?という話。
動けぬ花が、花粉を運んでもらう術(スベ)らしい。

ワタシの「ネジバナ」が見事に咲いた!
1年前、水辺公園辺りの土手で群生していたもので、草刈される直前に根っこごと数本採取。
ワタシ採る人、育ての親は家人(笑)。
1年後、見事に咲いた、巡るめく季節にちゃんと咲くんですねぇ…
雑草の花図鑑/ネジバナ」には、≪花はハチの行動に合わせて横向きに咲く≫と。
はい、その証拠写真です…
 
そこまで体を曲げるか?!

 
ほんと「美味しそうに吸蜜中!」でしょ(笑)。

久々のハハんちの庭で、
小さくてかわいいピンクの花が咲いてました。
ジャングルのような庭なのでほかの木々が邪魔して写真には撮れず

なので、ご近所にある同じ木、
 こんな木ですが、
この木には「紫の実」が付くようになって初めて気が付きます(個人的感想ですが)。

ところが今回、丁度目の高さのところに「花」を見つけたわけです。
すかさずハハが「それは『ムラサキシキブ』ね、可愛い紫の実が付くよ」と。
 一枝いただきお持ち帰り、
3・4日はこの状態でしたが、たまたま昨日見ると
 
次の房の所に「花開く」。
写真に撮るのも苦労なほど小さい、雄しべもまだ短い…5mmあるかないかの「花」です。
卓上では、この小さな花が結実して「紫の実」にはならないかもしれません。
家の中では受粉のお手伝いができないので、
もし「紫の実」ができたらまた載せます(笑)。

ここまで書いて、投稿する前にちょっと調べてみると、
なんとこれは「コムラサキ(小紫)」ですと、
「ムラサキシキブ」とどう違うのか?
コムラサキは、≪葉の脇から伸びた花軸に、淡い紅紫の小花が10~2 0輪が集まって咲く≫
ムラサキシキブは、≪樹高は高くなり、枝はまとめにくい、薄紫の小花が集まって咲く、花には香りがある≫
どっちがどっちだかだんだんわからなくなってきましたが、
決定打は「香りがない」ことと、≪ムラサキシキブの果軸は葉柄と同じ場所から生じるが、
コムラサキは少しずれた位置から生じる。≫
これをアップの写真から見るに、、、やっぱり「コムラサキ!」に決定

ではまた

追記(2022/7/11)
 (牧野日本植物図鑑/学生版より)
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『穴虫の郷』(亀山市辺法寺町)で心落ち着く「蓮花」…(合掌)

2022-07-08 18:24:44 | 花や風景など
今年で3年目、ここを外しては真夏が来ないと思っていました。
(2022年は早々に梅雨明け宣言ありましたけどね)
亀山の辺法寺町にある「地区処理場」のそば、地域の方々のお世話による「蓮畑」。
「蓮池」のようになっているので、近くで見ようと思うと「長靴」必携かもです。
ご近所の「カメラマン」のおじさんにも「持ってるなら履いた方がええで」と。
心置きなく遊歩道を歩くなら汚れてもいい靴でどうぞ…

では、
  
「穴虫の郷」入り口で、お出迎えの「ひまわり」

  
「辺法寺町処理施設」横に広い「蓮池」、まだ蕾も多いです。

 
「花托」を覗いてみると、「虫さんの秘め事」(覗いてゴメン)。

  
蕾から順に、成長過程っぽく…
山裾にある「蓮畑」、景色と共に
  

水面に映る風景
  薄っすらと蓮の影…

満開のネムノキと蓮畑、入り口の「蓮」にもやっぱり虫さん進入…
 

できれば午前中がベストです、午後になると閉じてしまいますので…
ではもう一度「ひまわり」と鮮やか「カンナ」
  

知人に蓮の写真を送ったら「蓮はこの世のものではない雰囲気があるなぁ」と、、、

正午に帰宅して、まさかのニュース。

穴虫の郷、過去ログ」。
では、
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伊賀長田の「紅花」(市役所にて)、切り戻しで元気な花たち2種。

2022-07-07 11:38:04 | 花や風景など
所用で行った4階で
 
見事な焼物(多分、伊賀焼)に「紅花」、伺えば「長田産」とのこと。
最近、ちょっとお目にかかることが少なくなって寂しいなぁと思ってましたが、
産地直送の「紅花」にお目にかかれてうれしかった
都会に住む友人に「へぇ~伊賀で『紅花』?」って言われたので、
「芭蕉」と「紅花」の縁などお話してました、、、
※『芭蕉生誕360年記念事業のこと

さて、花も所も変わって
玄関先で真夏を彩る「サフィニア」(@120/1株)ですが、ぼちぼち「切り戻し」とか。
切られた花は、卓上でもうひと花咲かせます…
  情熱の色です

こちらは三度切り戻した「ニーレンベルギア」ですが、再三の満開、
 
「切り戻し」には勇気がいるらしい、
そこを思いきるかどうかで、この華々しさが蘇る、らしい。

ワタシの世話ではないので口では何とでも言える、けどね、、、
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滋賀多羅尾の「仕置場」。三重西山高旗道の「阿弥陀摩崖仏」へ、家康も芭蕉も通った道を行く…

2022-07-05 23:41:27 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
高旗山から下山後、向かう先は…
通り過ぎる人の方が多いと思いますが。
 
「徳川家康伊賀越の道」の道標「仕置場」の説明板(ちょっとブレました、やっぱり )。
ここは、淡々と進むことにいたします。
   
二基の石供養塔が建てられており、
右側には「南無阿弥陀仏」、
左側には「南無妙法蓮華経」と刻まれています。
 

多羅尾代官所仕置場(処刑場)」(滋賀県甲賀市)
 ≪徳川家康が天下を統一し、征夷大将軍となり(1603年)、江戸に幕府を置き、
 その直轄地に代官を置いた折、家康の旗本であった多羅尾光太の子光好が、
 信楽代官所の初代代官に命ぜられて以来、明治維新まで、世襲代官として
 代々多羅尾氏が代官を務めてきました。その代官所の処刑場がこの地です。
 処刑された日は、12月20日で、牢屋から出された罪人は、裸馬に乗せられ
 この地で処刑されました。≫ とのこと。

やっぱり、一人では来られない雰囲気、あるあるでした。

伊賀盆地絶景展望台」(滋賀県甲賀市)
この日二つ目の「絶景展望」です、ここの階段が伊賀の上野の銀座通り!みたいな
幾度となく訪れている場所ですが初めての体験です。
 
急階段、多分数拾段ほど、夏は「スズメバチに注意」の貼り紙あり!
 2021/11/29のパノラマ

最後の訪問地、 
昭和48年にこの林道が開通するまではこの道を使って、山や田畑に通っていたらしい「高旗山道」。
その道中を見守る摩崖仏。「阿弥陀如来」が彫られているかもしれないと…
御斎峠から伊賀方面へ、県道138号を300mほど下ったカーブで車を停めます。
丁度この辺りです。
 
案内人さんがいてくれてこその『高旗山道』。
ガードレールの切れ目から「まさかの坂」の下り道を下ります。
遠い昔、家康も芭蕉さんもココを通ったんと違う?という道ですがほぼ「獣道」。
標識もないけれど地域の人たちは時折管理をしてくださっていると見受けられます。
  「湧き水」が出ていたあとらしい
急坂を下ること数分。(杖を持っていて良かった…)
 
大きな岩に彫られている「(高旗山道)阿弥陀摩崖仏」さま。
聞くところによると「室町時代前期の作」とのこと。
丁度夕方だったので神々しく見えましたが、写真に撮るには難しい
再度挑戦するには苦しい道中、
ここでお会いできたことは幸運としか言いようがない。
有難かったです、ここも絶対に一人では来れないと思いました。

案内の方、仲間のみなさん、感謝と共に合掌。

では
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「高旗山」の白い旗、江戸時代には「旗振り山」といわれ…

2022-07-04 23:50:08 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
新しい「旗」が揚げられています、見に行きましょう!
高旗山登山は6/12決行、その2日前ちょっと残念なことが…
と下見をしてくれた人から連絡。
「登山道はとてもきれいに整備されていていました。一カ所、沢のようなところがあり、
少しじめついていました。登ったり下ったり、階段があったりですが、山頂からの眺望は素晴らしいです。
ただ一つ予想外のことがありました。それは、6/5に新調したばかりの旗が強風に煽られ、ボロボロに。
市民センターに問い合わせたところ、今回旗に使った生地の材質を変えたことが原因のようです。残念!」とのこと。
でもね、せっかくのチャンスを逃すわけにもいきません、頑張りましょう!


ボロボロとはいえ、ちゃんと「旗印」は立っていましたよ、
昔のように次の山に届くかどうかは別にして
景色もサイコー、ここで知ったこと「昔の人の知恵と工夫は素晴らしい!」

では、おさらい。
旗振り山各地への通信所要時間
『大坂堂島の米相場は、江戸中期から大正前期にかけて、
見通しの良い山から山へ旗振り信号によって伝達されました。
その山を旗振り山という。 明治の初め、高旗山中継所からの手旗信号を、
上野西町にあった米穀取引所の櫓の上から遠眼鏡で見て相場の変動に対処していたとのことです。
この米穀取引所は、今は西町の集議所の隣あたりのようです。
各方面への通信所要時間は、堂島から和歌山へは3分で伝わったそうです。
(十三峠経由、天保山なら6分)、
京都まで4分大津まで5分神戸まで7分 (3~5分とも)
桑名まで 10分 岡山まで15分広島まで40分足らず
大坂から江戸までは8時間、但し箱根越えは飛脚を用いたとのことです。
昭和56年に面白い実験をしています。大阪岡山ルートの旗振り再現実験です。
この実験では大阪岡山間、およそ2時間前後かかっています。
中継地点が倍増、スモッグの影響がある点などを考慮しなければなりませんが。
明治の旗振りでは15分かかりましたが、昭和の旗振りは2時間前後かかったのだということです。
もう一つ同時進行でやった実験があります。
電報を同時に打っています。 20分で届いたそうですが、明治の旗振りのほうが5分早い!
旗の色は、伊賀・伊勢地方では赤と白を主に使っていた、ということです。
サイズは、 一畳から一畳半くらいだったとのこと。 黒色もあり、色やサイズは地方により天候によりさまざまだった。
昼間は旗を振っていましたが、夜は火振、 松明でした。

伊賀の場合、国見山(奈良市)→高旗山→塔の峯(土橋)→旗山(柘植)と伝達されていたようです。』

「山の白旗」恐るべし!
高旗山に登って東から西へ連なる山々を見ていると、満更の話ではなく、
木津川の水運も然り、「秘蔵の国・伊賀」の情報と物流は「山と川」が頼りだったのでは…

下りは、別ルート(大方の人が登ったルート)、
 ここを下る

 熊笹が異常に高くて大きい

 
この地点に降りてきました(笑)。

本日、ここまで
いよいよ「仕置き場」「西山の阿弥陀摩崖仏」へ
ではまた
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「目指せ高旗山」の白旗、その道すがらいろんな伝説に会う…

2022-07-03 23:52:53 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
6/12に頂上の様子だけお伝えして、何やら(勝手に)気ぜわしい時を過ごし…
「御斎峠」から「高旗山」(タカハタヤマ)界隈でいろいろ見て回ったことを思い出し…
資料を基に、記録しておかないと忘れてしまいそう、という不安を拭うための報告です。
集合場所の高倉神社へ行く前に、服部川が木津川に合流する辺りで

「目指せ高旗山!」と景色を撮りました、さてどれが「高旗山」やろ??
   ・・・・・・・・・・
「高倉神社」に集合して、「御斎峠越え」の道に入ります。

誓子の句碑から百メートル位手前に「御斎峠の碑
 
『高旗林道開通記念 竣工 昭和四十八年三月三日 施工者 上野市長 奥瀬平七郎』

御斎峠
 ≪御斎峠の名前の由来は、「三国地志」によると、
 鎌倉・南北朝時代の禅僧、※夢窓疎石(夢窓国師)(むそうそせきorむそうこくし)が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのことだそうです。≫

夢窓国師むそう そせき)臨済禅の高僧、建治元年(1275年)、伊勢国(三重県)で誕生。宇多天皇9世孫と伝えられ、また、母方は平氏である。禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。」
別の由来として
 ≪峠名の由来は、京都東福寺の開祖、聖一国師弁円が三田の安国寺(現在廃寺)へ来る際に西山の長老が国境へ出迎え食膳を供えたという伝説に由来しているとの説があるが、安国寺は弁円の孫弟子息庵知止を京より招き開祖とした寺で、貞和二年(1346)の創建。弁円は1280年に没しているので、聖一国師と安国寺の伝説は史実に矛盾している。≫とある。


三重県側、県境手前数10mのところに
山口誓子の句碑
 
「切り通し 多羅尾寒風 押し通る 誓子」があります。

 ≪誓子は京都の人ですが芭蕉を崇拝しその誕生地である伊賀をたびたび訪れ句ものこしています。「伊賀の雪みて 花妻見に来たり」 「伊賀上野 蘇枋の花を 以て古ぶ」や三重県立上野高校の校歌も作詞されています。
また上野天神宮の芭蕉初句集「貝おほい」奉納の碑に「山口誓子謹書」とあります。≫

(句碑を過ぎ)
弘法の井戸】(滋賀県甲賀市)
    
 ≪水の不自由な土地に弘法大師 (空海) が泉を生じさせたという伝説が、全国にありますが、滋賀県信楽町と三重県伊賀市の県境に近い多羅尾のタラオカントリーの入り口にも、そのひとつがあります。
伊賀市から御斉峠をのぼった道ばたにあります。言い伝えでは
弘法大師が峠のあたりに真言密教の聖地(後の高野山)を求め村を歩いておられたとき、とてものどがかわいたのですが日でりで水がありませんでした。
そこで弘法大師は、御斉峠にさしかかる道ばたに、大きな岩をひっくりかえして穴をほると穴からこんこんと水がわき出てきました。
弘法大師は、だれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作り、それ以後水が枯れることはなく村人から「弘法さんの井戸」と呼ばれて、峠を通る人たちののどをうるおし続けていたそうです。≫
    ・・・・・・・・・
(弘法の井戸からタラオカントリー方面へ曲がります、
「高旗山」への登山道は2か所、二手に分かれて上ります。(今回ワタシはこちらから)
信楽温泉のテニスコート側から、「400mの道のりを20分」ということですが
 

  

高旗山」頂上から
   
頂上の「白旗」、説明は次回…(下りは15分、です)
 
(タラオカントリー入り口辺りの登山口から、頂上手前の激坂!)
ご褒美の景色、登る価値あり
  

つづく
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