「第二次天正伊賀の乱」激戦地、阿山・伊賀編その2「田矢(屋)伊代守城跡」へ

2022-04-06 01:06:51 | 伊賀忍者回廊巡り
教えていただいた資料によると、
川(河)合村・耳須弥次郎具明(ミミヤスジロウ)が蒲生勢らを手引き
1581年9月、天正の役(=天正伊賀の乱)、玉滝口から「蒲生勢」(=織田軍)ら7000人が攻撃。

「雨乞山」にいた土豪・滝野十郎、山内左衛門は蒲生軍に追い詰められ孤立。
女・子どもを「比自山」(長田)に逃し、捨て身で敵方が陣をひく(雨乞山の東向い)「稲掛山」に突出。
しかし、抗戦虚しく山内左衛門討ち死。

その「雨乞山」から南へ一里のところにある城でも…
蒲生勢らに攻められ、伊賀勢は悉く追いつめられる。

伊賀勢は、春日山城(川東)にも籠るが、中村丹波守重春、家喜下総宗頼討ち死。
川合では、「三蓋山(ミカサ)城」に逃げる蒲生勢と激突するも、川(河)合城主・田屋掃部介(カモンノスケ)討ち取られる。

ここがその戦場のひとつ、「天正の役」抗戦の城跡見学 その2。
「田矢(屋)伊代守城跡」(阿山地区川合)
🚙は駐車場はココ ↓ へ。(「矢」と「屋」、ヤヤコシクテスミマセン)
   
来迎山 引接寺」(川合)
読み方が難しいですね、教えていただかないと読めません
これは確かに難しい! ということで「インジョウジ」(修正シマシタ)と教えていただきました。(ホッ)
 ≪大江区の菩提寺で、阿山ハイツの住宅地への急な坂を更に登っていくと見えてきます。
  境内西側の山は、天正九年(1581)天正伊賀の乱で織田信長の軍勢と戦い敗れた田矢氏の城跡があり、
  歴史を想像させる場所に建つお寺ですが、本堂は昭和末頃土砂崩れの被害に遭い、平成元年に再建された≫とか。
写真は、帰り道のものです、「城跡」へ行くにはここを逆に歩きます…

このお寺を通る道を山側へ上ると、
 
山の中へ入る道(獣道っぽい)があります、
この舗装された道路が出来るまでは、きっと繋がっていたはず…

「雨乞山」へ上るよりは近いし、高低差は少ないと教えられ「竹藪」の中を分け入ります。
   
数分頑張れば、竹藪の中の「城跡」へ。

鬱蒼と茂る竹藪の中ですが、奥に「土塁」が見えます。
  

東側に「虎口」、「石垣」も残る。
  

「天正の役」当時、この竹藪はなかったと思いますが、
歴史の証人として残っている「城跡」です。
  
戻り道、みんなで下りれば怖くない!

「引接寺(インジョウジ)」に戻り、その先もう少し別の道を上ります、
  
咲き、「霊山」を望む。

  
この山に「城」があり、伊賀勢は織田軍と戦っていた、、、
この山道のその先に「お寺」があり、「神社」もあった、
そして巨大石に彫られた「摩崖仏」とご対面…

「伊賀の中世城館」より「田矢城跡」


では続きます。

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