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イレル=エルランジェ「曼華鏡の旅」第三章

2010-01-02 | 小説
第三章


われわれの血管のなかを白血球や赤血球が循環しているのとまったく同じように、大都会の動脈はひっきりなしに、──おそらくは非常に神秘的な目的、この地上的な面では明かされないような神秘的な目的のために──、その「白血球」と「赤血球」とを運びつづける。すなわち
ひしめきあう
通行人
貪欲で、倫理的で、体液過剰の──気のふれた、ふわふわした、ふっと消える──同じような顔をしていながらおのおの個性をもつ──反目しあう人々からなる世界の縮図──大自然や、貧困や、錯誤や、欠陥や、障碍や、過剰や、不足に抗して立ち上がり、戦いをいどむ人々。無限の極微生物が際限もなしに。徒党を組み、距離をおき、散りぢりになり、生まれ変わり。そして──望むと否とにかかわらず──もがいた先にあるのはただ「死」のみ。
「赤血球」は、これみよがしに、増殖する。みごとな赤色(せきしょく)! みごとな現実主義の炸裂!
すべては「赤血球派」に属する、──あるいは属すべきである──「地上」のすべては──その表層も深層も──彼らのために準備されている。
商店では、お客が、店主が、売り子が、レジ係りが、期待に顔を赤くし、有用なものの繁栄のために誓いを取り交わす。彼らが互いにお愛想をいうのは、互 い に 認 め あ っ て いるからだ。お 上 品 な 人 々、彼らはその実用的法規集を指骨の尖で知り抜いている。
(どうぞ当店のカタログをお取り寄せください。シーズンの特選品をすべて取り揃えております。値段はおなじみの数字で書いてあります)
それでは彼らの「体制」は、茹でられた希望の根っこか? それとも濾過された諦念の水か? いやいや、そんなものは断じて彼らの持分ではない! 彼らは豊富な、固形の糧なのだ。その「力」は強大で、野蛮で、美しく──そしてやや愚劣なのではないか?
いっそう思慮分別に富み、いっそう陰にこもっているのが、白 血 球 のほうである
あるときは慎重に、あるときは熱狂的に
彼らは(自発的と否とに関わらず)瞑想にふけり
反省し
深化する。
彼らはあちこちへ援助のため奔走する。これこれの救援活動を行う。ごりっぱなことだ。彼らのなかには第一級の人士がいるが、またこんな人々もいる
みずからの毳立った揉め事を、染みのついた綿のように諸君の首に巻きつけて窒息させる者。採光窓を穿ち壁を塗りかえたばかりの死体公示所(モルグ)を棲みかとする者。みずからの原理を滑車のようにぎしぎしと軋ませる者。みずからの優越という巻揚機の下に、ともすると諸君を吊り下げようとする者。このありがたくない姿勢に置かれた諸君に向って長々とお説教を垂れる者。──ほかにも彼らの苦心の作たる有刺鉄線付きの防柵に偽装された、数限りない魅惑的なことどもが!──
そういっても、「赤血球派」は羽目をはずす。彼らの誇張されたエゴイズムは肥大し、途方もない大きさに膨れあがる。それはまるで体調不良の元凶たる大食漢の胃袋のようなものだ。一夜にして家族組織や社会組織が危殆に瀕する。そこではあらゆるものが上を下への騒ぎになる。混乱からは困惑が、そして気鬱が。非難や苦情の嵐。呪詛の声。荒廃。そうなったら人々は互いに目の玉をつかみあうだろう! 結果。悪しきものが最悪のものへ。
──《おれたちはもうお仕舞いだ、なんという破局だ! だからいわないことじゃない》
(といいながら、事態はすべて旧に復する)
──《最 後 に は 万事うまく行くといっておいたはずだがな! 何か変ったことでもあったのか? 昨日のことだって? そんな昔の話はどうでもいい。きょう日の人間はどうも野蛮でいかん……》
(それから)
通行人の群が
循環する
小路を、街路を、大通りを
美しく飾られたショーウィンドーを!
この優雅な「通り」で
諸君の目に飛び込んでくるのは
右を見ても左を見ても、だだこれのみ

(シュプレーム(至高)街ふうの詩篇)


<喫茶店にて>

宝石商たち
(ダイヤの指輪、真珠のネックレス、サファイア、白金)

靴屋
(彼の下準備はすべて、われわれをどこへ運ぶのか知っているつもりの、あんなにも多くの足、多くの歩みのために費やされる。だからこそあれほど多くの「型」が「流行」を追うのだ)

薬屋
(ついでにいえば、これは英国婦人である)

香水商

花売りたち

服飾商

またそのほかの

芸術家たち
生粋のパリ娘たち

それからうっとりするような

旅行用高級皮革製品の数々

ほかにもありとあらゆるもの

(ああ、これらの札に ああ、いったいどうして

「ラ・ペ(平和)通り」

とあるのか

なんという強引さ

じつのところは

プレジール(快楽)通り
デジール(欲望)通り

なのに


走り抜けなくてはならぬ
早すぎるくらいに
(われわれはようやっと見始めたばかりだ)
今夜はすべてを見尽くすことはできなだろう
(これらガラスの隔壁が、一息に、その厚くて透明な釉薬をかける、十万もの「驚異」の上に)
電気(の急流)
みごとな眺め
それから
われわれは走り抜ける
(公用の、また私用の)
輸送機関の耳を聾するばかりの交響楽のうちを
背景は黒ずんだ青色、銀の霧、金の凍結
くすんだ半透明の高い壁のあいだを
そそり立つ、穴のあいた壁
窓にはそれぞれ
百燭の電燈が百個つらなり。

走り抜けなくてはならぬ
「街路」の寒気は
室内の暖気
との
対比があって
はじめて心地よいものになる
街路の寒気は何の価値もない
もし諸君が
「店舗」へ
「商店」へ
入ることができないのなら
もし諸君が
「金」を
持っていないのなら
(われわれにこの梃子を与えよ、さすればこの世界を持ち上げてみせん)
なにかしら強力な金の挟みをもっていないのなら
(それと意図することなく)
あれを、これを、陳列ガラスのうちに
摘み上げるのでなければ

(こんなふうに私は「寒気」を、「街路」を、「商店」を、「通行人」を、見た)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

チャンスをもたない者。貧乏人。みながみな襤褸の仕着せを纏っているわけではない。しかしその心は死んでいて、その顔は精神的な「癲癇」に荒らされている人々が──そこへやってくる。薄々ながら気づいているからだ、彼らには──有極電池と同じく──新しい要素が必要だということに。
彼らは「燈火地帯」のあたりをうろつく。
──《われわれは星の発する祝福的な流体をふたたび見出すことができるだろうか? 至福の力を、金の鉱脈を?…… 
その目的があるからこそ、喜捨を求める人々、わけのわからぬ破局の生存者の群にわれとわが身を投ずるのだ。
ジョエル・ジョーズ、発明家。彼は伯爵夫人ヴェラの通り抜けた街路をことさらに通り抜ける。こうしていれば彼女に会うことができるだろうか。遠くから。あるいは徐々に遠ざかりながら。
彼女が自家用車から降りる。じつに所を得た奢侈。完璧なリズム。卓越した優雅さ。
彼女にあの冷ややかな光輝を与えているのは、もしかしてコカインかなにかの賜物であろうか? あのしなやかな姿を、あのほっそりとした風情を、あのいかにも現実離れした趣を与えているのは? いや、それはいっそ彼女の居丈高な自我崇拝のせいなのではあるまいか?
伯爵夫人ヴェラよ、あなたは自分に用のない人間には一片の微笑をも出し惜しみする。あなたは気に入らないものはさっさと捨て去る主義だ。いっぽう自分のためになるものなら、後生大事にしまっておくんだろう。ユピテルのような女よ! それがあなたの最上級の秘密だ。下層の人間には目もくれない。成功の見込みがなければばっさりと切り捨てる。《そんな人間が 存 在 す る なんて知りたくもないわ》と。
わが親愛なる、勝ち誇った女よ……
なにがしかの影像が彼の視界から消えると、
あるいはそんなものは初めからまったくなかったのかもしれないが、
ジョエル・ジョーズは長い時間を徘徊に費やす
彼は家に閉じこもりきりの孤独がひどく怖いのだ
家での孤独が、沈黙が、追憶が
四壁が押し寄せ、天井が圧迫する
みしみしと音がするのは何だろうか?
孤独、沈黙、追憶、いずれ劣らず陰険なもの
どうあってもこの病的な息苦しさから逃れねばならぬ。この催涙性の渦動から。この窒息性ガスの黒々とした列柱から。
だれひとりとして知る者はない、──心が安らいでいるときに、あるいは自己のことしか眼中にない「幸福の女神」の逃げ足の速いまなざしが、ごくあっさりと、「事物の習慣的形式」、つまり事物のありきたりな「形式」を登記するときに、──ある部屋に(ああ、私の部屋よ、私が精神的に目ざめるとき、おまえはいったいどんな相貌をとるのだろうか?)落ちかかる 親 し げ な(?)影が──突如として──身の毛のよだつような、底意地のわるいものに変貌するかもしれないことを、だれひとりとして知る者はいない……
子供たちと──それに狂人と呼ばれている監禁された人々、諸君は彼らが逃げ出すからという理由で、あるいは こ ち ら の 世界の人々よりは少しばかり遠くへ行きすぎるという理由で彼らを閉じ込めておくのだが──子供と狂人とは「輪廻転生」の種々相に立ち合い、それらに恐れおののく。──彼らは蒲団を引っかぶって身を硬くする。そして手で目をおおう。ときにははや鋭い悲鳴を抑えきれなくなることもある……そんなとき、もし彼ら(つまり子供のことだが)をなだめようとするならば、どんよりした目つきのおとなの人が彼らのそばへやってくる……
あのコップに入った砂糖水をもって。ときにはあのオレンジの花を添えて。あるいはあの頑丈で柔和で確実な手をもって。そのおとなの人は、もう大丈夫だという。そして夜具を直してやる。発熱した額の上に身をかがめる。安らかに眠らせてやろうというわけだ……
どんよりした「まなざし」をもつおとなの「人格」には何が見えるだろうか? 何も。それは彼らにとっては幸いなことだ。そのことを喜ぶがいい。彼らは自己を買いかぶらぬ。
だがこのおれ、ジョエル・ジョーズは知っている……
……朝まだき……亡霊に、奴隷のような絨毯に、不意打ちをくらわし……真夜中、冷酷な精神を、あの錠前を知り……べつのときには……カ ー テ ン を前にして……逃げ出し、──危険きわまる……
ああ、ときとして……自己の周囲に……自己の間近に……「一切のもの」が……
……見るがいい、たわんで……しなびて、耳もきこえず口もきけないものの群が……身は二つに折れ……萎縮し……反射され増殖されて……鏡のうちに……ぴかぴかの床板に……窓ガラスの一角に……
怖ろしいことだ……苦悶の姿をしたものどもよ、きみたちの抱擁はおぞましい……かと思えば、きみたちはおれのまわりにわらわらと落ちかかる……ぐにゃぐにゃ、べとべとしたものどもが……
こんな「恐怖」は ま っ ぴ ら だ……しまいには気が狂ってると思われちまう……人間というのは意地のわるいものだ……それに……人がおれに何をしてくれるというのか? 不吉な数々の「影響」をふるい落とすことだ……「不幸」はおれを迷信的にする……迷信的に?……分 っ て い る さ!……見 え て い る と も! いたるところ、いたるところにこれら怖ろしいものの形が……おれを取り巻き……取り囲み……締めつける……さてはおれを捕まえるつもりだな……くそっ……起きなければ──すぐにも──おれの第四指を、こ ん な ふ う に……いまここで──この瞬間に──あの魔法の言葉を発しなくては、こ ん な 流儀で……もし──急いで、急いで──こ ん な ふ う に、あ の しるしを描きながら……あの針の尖を、ペン先をかわさなければ……
……怖ろしい……おれに顔を見せるな、あっちへ行け……
行かないのか?……お れ が 逃げ出したほうが確実なのか……こんな化け物どもが相手では逃げるに若かずだ……それにあの耳ざわりな声が……おれの耳に……絶間なく響いてくる
──《スクリーンに! スクリーンに! 何物かの影が!……》
なぜかくも執拗に?……いいかげん黙ってくれ……あれを思い出すと怖気づいてしまう……よく分っているんだ……たちどころに……それとも……もしかして……おれは……たったひとりで……しゃべって……いたのか?……声高に……ひどく声高に……あの「恐怖」のただなかで?……
……では三十六計の奥の手を出すことにするか……

彼は外へ出る
まずは冷たい外気が鎮痛ガーゼのように作用する。
それから、身体の動きが脳にたまった滓をはげしく振動させる。

彼は行く
ときに──四十秒ほど──「カフェ」で──息も継がず──目もくれずに──飲み物を一気にあけ──店を出る……

どんな痙攣が? どんな恐るべき溜息が?……
──《この野郎、気をつけろ!──うすのろが車に轢かれそこなったぜ!──あいつ、なんて青い顔をしてるんだ……鳩が豆鉄砲くらったような面じゃないか?……いったいどうしたっていうんだい?……》
(両腕をあげて。わなわなと震わせ。はじめは口ごもった言葉が。ついで押し出されるように炸裂し。あまりに激烈な。思考の言葉が。吐き出された血塊のように。耳ざわりな声の悲鳴のような言葉が)
《スクリーンに! スクリーンに! 何物かの影が!……》

(《ボンヌ・ヌーヴェル(福音)大通りじゅうの人々がキ印のまわりに群がっていた!
まるで最後の審判のラッパの音が鳴り響いたかと思われるような騒ぎだったよ!》
──しばらくして出た雑報記事の、熱心な目撃者の談話──)

何かが起ったのか?……
ジョエル・ジョーズは気づいただろうか
人々の見ているのが自分だということに?……
彼は気をとりなおす
不信の念と
困惑とに満ちて
彼は姿を消す
そそくさと
怯えたように
キ印とは彼のことだ