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マルセル・シュオッブ「悪鬼に憑かれた女」


 木立の合間にいくつもテーブルが据えられていて、刺繍をあしらったテーブルクロスの上に枯葉がはらはらと舞い落ちていた。そのうちの何枚かは細長いコップに注がれたシャンペン酒に浮かんでいた。蝋燭がただ一本だけ点されていて、その周囲に虫の羽音がきこえた。招待された客たちはめいめい離れた場所に陣取っていた。彼らの話し声がときたまこの木立の茂みにまできこえてくる。おれは奇妙な女に夢見心地にさせられたあげく、得体の知れない不安にかられるまま、夢にみたこの場所へさまよいこんだのだが、急にはっとして立ちすくんだ。そこにあの女がいるではないか、ちょうど氷入れと銀の鉢とを並べたあいだに腰を下ろして。女は体を揺すって含み笑いをもらしていた。枝にぶら下がったオレンジ色の大きな提灯が女の顔を照らし出した。と、金色の編み靴をはいた女の踝がさっと宙におどる。女の着物が腰のあたりに靡き、胸元に波を打たせる。そのさまはまるで沼に立つ青白いさざなみのようだ。服の生地は旅行用のマントのような微妙な色合いだった。つぎに女の手がぬっと出た。留め金のようにしっかり組み合わされた手だ。それから女の頸の筋肉がいきなり痙攣したかと思うと、髪の毛がひとかたまりにになってとぐろを巻いた。かっと見開かれた目は一点を凝視している。そして女の口が、赤く、大きく開かれた。三たびその発作に見舞われた女は、それでもなにか話したがっているようにみえた。しかし、それはかなわぬ相談だった。というのも、まるでだれかに首でも絞められているみたいに、唇がふるえて歯の根があわないのだ。三度目の発作のとき、女は頭を揺すぶって、しゃがれたうなり声をあげ、手を振って氷のかけらをお手玉のように弄んでいたかと思うと、シャンペン酒の入った脚つきのグラスを歯で噛み砕いた。それからやおらスカートをからげると、金色の糸を奇妙に巻きつけた脚を蝋燭のほうへ延ばしてそれをひっくり返し、提灯を引きちぎって粉々にしてしまった。オレンジ色の光が消えてあたりは真っ暗になった。が、そのときおれは、女が快楽のうめき声をもらすのをたしかに聞いたのである。

 おれはあの女の名前を知らない。どこから来たのかも知らない。美人かどうかさえ知らないのだ。おれが知っているのは、あの女が悪魔に取り憑かれて苛まれているということだけだ。ダニエル・デフォーの書いたものによれば、モル・フランダースはロンドンの陋巷で三十年のあいだ情婦として暮らしたあと、住む家も暮らす金もなくしてしまった。あるとき、ふと通りかかった商店のなかを見ると、店番の女が通りに背を向けて蝋燭で棚を照らしている。モル・フランダースはそのとき椅子の上に白い包みが置いてあるのを発見した。すると悪魔が彼女の肩のうしろにやってきて、耳元にこうささやいた、「あの包みを取れ、ぐずぐずするな、さっさと取っちまえ」と。モルはその包みを取ってそっと逃げ出した。それからテムズ河にかかる橋の拱門の下でさめざめと泣いた。いっぽう悪魔はといえば、金色の糸を巻きつけた脚をけって小躍りすると、ガラスの器をがりがりと歯で噛み砕き、冷やした発泡酒を並べた食後のテーブルの上にみだらな格好で寝そべった。女は泣きたい気持でいっぱいなのだが、嘆きの声は喉のところでつかえてしまい、口をついて出るのはとめどない哄笑ばかりなのである。

 おれはあの女をたしかにもう一度見た。それはとある港町でのことで、そこには侘しく舗装された埃っぽい街道が一筋、長々と海へと続いていた。彼方を見はるかすと、マストの尖端や、風になびく三色旗や、ぴんと張られた動索がスレート屋根の線に区切られているのが見て取れた。おれは人生の半ばにあって、木立の合間での食事を一度ならず楽しんだ末、全財産をことごとく失っていたのである。髭は半ば白くなり、背嚢を背負ったおれは、船乗りになって食っていくつもりで、西の海へと通じる街道をひたすら歩いていた。街道沿いの家のなかには、赤や青のペンキを塗ったものがあった。切妻の下の、柊の枝がときたまそよいでいるあたりに、黒人女の顔や熱帯の鳥が描かれている家もあった。窓の鎧戸はすべて鎖されていた。半ば開いた戸口からは調子を合わせた足踏みの音や、踊り子たちの息遣いが、きしるようなヴァイオリンの音や、ひんやりした闇のなかで人々が交わすコップのぶつかりあう音などに混ざって洩れ聞こえてくる。ふと見ると、ある小さい店の窓に銅の皿が光っていた。扉を排してその店に入ってみると、三人の水夫が座っていて、そばに奇妙な女の髪結がいた。女は短いスカートをはいていて、腕ばかりか脚にまで黒い条目の刺青をほどこしていた。女は黙ったまま水夫たちの顔に石鹸を塗ると、型どおりの手さばきで髭を剃っていった。髭剃りがすんでしまうと、三人の水夫はゴム引きの黄色いマントを引っかけて女の頬に軽くキッスしたが、女のほうではお返しのキッスはしなかった。三人は出て行った。無言の女は手に剃刀をもったままこっちへ近づいてきた。そのとき女に発作がおこった。頭をぐらぐらと揺すったかと思うと、まるで機械の鉄製の弁がすべるように、三たび女の口が開いた。三度目に女の発したうなり声は、女の身体から出るものとはとても思えず、それはまるでだれかもう一人の人間が女のかわりにしゃべっているかのようだった。扉が閉まり、カーテンの引かれたこの薄暗がりのなかで、女はおれの髭ばかりか髪の毛や眉毛にもたっぷりと石鹸を塗りたくった。おれはひんやりした鉄が皮膚の上をすべるのを感じていた。こうしておれは唯々諾々と女のなすがままになっていたが、それというのも、そこに未知の何者かがいて、そいつが命令をくだしていることがはっきりわかったからだ。まるで植民地の苦力(クーリー)みたいな坊主頭のすっぺりした顔になったおれは、ほうほうのていでこの店から逃げ出したが、そのとき女がげらげら笑いながら剃刀の刃で自分の腕を切り裂いて、その血を啜って酔ったようになっているのを見た。

 そしていまおれは漠然とした恐怖を感じている。もう一度どこかであの女に出会うことは必至だからだ。祭りのときの着飾ったなりでか、喪に服した黒い服でか、いったいあの女はどんな姿で最後におれの前にあらわれるのだろうか? おれは女を捜してあちこち経めぐった。東方の海岸も、けばけばしいジャンク船のなかも、砂でできた小屋も、岩を方形に刳りぬいた棲家も、およそ異邦で遊び女が化鳥の舞うように棲んでいそうな場所はことごとく訪ね歩いた。火やガラスを食う女、腕や頬に象牙の串を刺している女、額に作った創口に死せるトルコ玉を嵌めこんだ女などにも会ったが、だれ一人としておれに近づいてくる者はなかった。どんな魔宴のただなかでおれはあの女ともう一度出会うのだろうか。そしてあの女に取り憑いた悪魔は、どんな最終的懲罰をおれにくだすのだろうか?
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