・ 【綿都美神社に向けて出発です】
「祭神:高淤加美命
綿都見命
闇淤加美命
例祭:4月1日
由緒:寛政8年(1796年)、犬甘兵庫が国家老の時、藩主小笠原忠苗の命により、
新田開墾の工事が始まる。津田手永の各村より割当出役人夫を出し、まず潮留堤防
の建設工事から始まり、8年目の享和3年(1803年)に完成。そして、曽根三村を始め、
東西朽網村等から農民を移し、田畠を割当、耕作を始め一村を為し曽根新田村と称る。
文化14年(1817年)7月、大風雨洪水の災害で堤防が7ヶ所決壊、同年10月より修復が
始まり、翌文政元年十一月に竣工する。しかし、これらの天災事変は、海を埋めて
陸を作る等海神の激怒に触れた為で、災いを再度招く恐れがあるので新田鎮守の為、
神社を勧請しようとの話がでる。この話は、庄屋津田平左衛門より家老大羽内蔵助を
経て、藩主へ御伺いしたところ、快諾を得、上曽根村宗像神社大宮司従五位
下深田綾部助に御沙汰がでる。文政元年11月、建築が始まり、文政2年2月竣工
同3月29日夜遷宮する。
境内には、新田開墾の記念碑と国家老犬甘兵庫の顕彰碑があります」
ここから神社に向かって各町内の「山車」が終結していくのです!
(町内といってもとても広いのです)
「マツナカ醤油」さんへのご挨拶も終わりました
・ 【前と後ろには甲冑人形が4体配されていました】
お寺さんの金剛力士像と同じで守り神なのでしょうか?
(「テレツクテンテン、ピーヒャラ、ドンドン」と「山車」の中からお囃子が聞こえてきます)
・ 【田んぼを進んでいきますと向こう側からもやってきます】
「ドンドン、ピーヒャラ」とだんだん近づくに連れて音が大きくなってきます、田んぼの向こう側からも
あぜ道を通って「山車」がやって来るのが見えてきます!
・ 【「小田原城攻めの合戦」とありますから】
豊臣秀吉と北条軍の戦いでしょうね!あれは合戦というより一夜にして出来上がった大軍の豊臣軍に
昔は関東の北条といえば武田信玄も約定を結んで不戦の決意でした、小田原評定を繰り返すだけで
なすすべも無く豊臣軍に北条方は攻め落とされたのではと思いますが、小田原城合戦があったのですね
(現在電車から見えるお城はコンクリート製で小さな動物園があります)
小田原駅前には北条早雲像があって、箱根にはお姫さんが水を汲んだという「姫の水」もあります
・ 【神社に入る前に最高の飾りつけで登場します】
神社に入ると町内の子供達より空手の演技とか太鼓合戦を行って審査員から表彰されておりました
・ 【一旦休憩して「山車」を改めます】
飾りつけを増やしたり、高くしたりとお化粧直しをします、老人ホーム前では椅子も出されてご老人が拍手喝采です
子供達はここでジュースなど貰って、しばし休憩となります
・ 【神社には先に入った「山車」が勢ぞろいです】
姉は日本舞踊のお師匠さんでもあって舞を披露してくれますが、今回は子供達の太鼓の指導に借り出されていまして
中曽根東町内の「優勝」で表彰されて、さぞかし嬉しかったと思います
・ 【なんとも艶やかな飾りに囲まれました】
義兄夫婦は大分県出身で小倉生まれではないのです、仕事の関係で小倉に移ってきて町内をまとめています
「しいたけ」は横浜には縁もゆかりもないと思って町内活動には全く関心がありません
(お隣さんお向かいさんとも全く交渉がありません、都会は人が多いけれど「孤独の群集」となって埋没しています)
これではいけないと思っても旦那同士にお付き合いは生まれませんし、毎週末は伊豆行ですから仕方ありません
老人同士になるまでお付き合いは保留にしましょう、それまでは互いの人生楽しみましょうね!
飲み仲間だけど伊豆には若干の仲間がいます、濃い人間関係とは飲む事しか考えないのでママから馬鹿にされています
・ 【神社ではイベントも行われてました】
我が町内の子供達の連太鼓が優勝して、兄さんも町内会長として鼻が高いです!
・ 【帰りも「山車」を引いて「ヨイト」で早駆けです】
「山車」は飾りつけを剥がされてひっそり倉庫に帰っていきました、子供達にはジュースやお菓子が配られサヨナラです
大人はこれから町内会館へ行っての「直来」が待ってます、僕は前日の運転で疲れていたので帰りましたが
兄さんから呼び出しの電話が掛かってきて飛び入りながらも突入、根が酒好きですから断れないのです!
(これから深夜に掛けて鳥取砂丘に向けて出発があるのに忘れてしまいました!)
「祭神:高淤加美命
綿都見命
闇淤加美命
例祭:4月1日
由緒:寛政8年(1796年)、犬甘兵庫が国家老の時、藩主小笠原忠苗の命により、
新田開墾の工事が始まる。津田手永の各村より割当出役人夫を出し、まず潮留堤防
の建設工事から始まり、8年目の享和3年(1803年)に完成。そして、曽根三村を始め、
東西朽網村等から農民を移し、田畠を割当、耕作を始め一村を為し曽根新田村と称る。
文化14年(1817年)7月、大風雨洪水の災害で堤防が7ヶ所決壊、同年10月より修復が
始まり、翌文政元年十一月に竣工する。しかし、これらの天災事変は、海を埋めて
陸を作る等海神の激怒に触れた為で、災いを再度招く恐れがあるので新田鎮守の為、
神社を勧請しようとの話がでる。この話は、庄屋津田平左衛門より家老大羽内蔵助を
経て、藩主へ御伺いしたところ、快諾を得、上曽根村宗像神社大宮司従五位
下深田綾部助に御沙汰がでる。文政元年11月、建築が始まり、文政2年2月竣工
同3月29日夜遷宮する。
境内には、新田開墾の記念碑と国家老犬甘兵庫の顕彰碑があります」
ここから神社に向かって各町内の「山車」が終結していくのです!
(町内といってもとても広いのです)
「マツナカ醤油」さんへのご挨拶も終わりました
・ 【前と後ろには甲冑人形が4体配されていました】
お寺さんの金剛力士像と同じで守り神なのでしょうか?
(「テレツクテンテン、ピーヒャラ、ドンドン」と「山車」の中からお囃子が聞こえてきます)
・ 【田んぼを進んでいきますと向こう側からもやってきます】
「ドンドン、ピーヒャラ」とだんだん近づくに連れて音が大きくなってきます、田んぼの向こう側からも
あぜ道を通って「山車」がやって来るのが見えてきます!
・ 【「小田原城攻めの合戦」とありますから】
豊臣秀吉と北条軍の戦いでしょうね!あれは合戦というより一夜にして出来上がった大軍の豊臣軍に
昔は関東の北条といえば武田信玄も約定を結んで不戦の決意でした、小田原評定を繰り返すだけで
なすすべも無く豊臣軍に北条方は攻め落とされたのではと思いますが、小田原城合戦があったのですね
(現在電車から見えるお城はコンクリート製で小さな動物園があります)
小田原駅前には北条早雲像があって、箱根にはお姫さんが水を汲んだという「姫の水」もあります
・ 【神社に入る前に最高の飾りつけで登場します】
神社に入ると町内の子供達より空手の演技とか太鼓合戦を行って審査員から表彰されておりました
・ 【一旦休憩して「山車」を改めます】
飾りつけを増やしたり、高くしたりとお化粧直しをします、老人ホーム前では椅子も出されてご老人が拍手喝采です
子供達はここでジュースなど貰って、しばし休憩となります
・ 【神社には先に入った「山車」が勢ぞろいです】
姉は日本舞踊のお師匠さんでもあって舞を披露してくれますが、今回は子供達の太鼓の指導に借り出されていまして
中曽根東町内の「優勝」で表彰されて、さぞかし嬉しかったと思います
・ 【なんとも艶やかな飾りに囲まれました】
義兄夫婦は大分県出身で小倉生まれではないのです、仕事の関係で小倉に移ってきて町内をまとめています
「しいたけ」は横浜には縁もゆかりもないと思って町内活動には全く関心がありません
(お隣さんお向かいさんとも全く交渉がありません、都会は人が多いけれど「孤独の群集」となって埋没しています)
これではいけないと思っても旦那同士にお付き合いは生まれませんし、毎週末は伊豆行ですから仕方ありません
老人同士になるまでお付き合いは保留にしましょう、それまでは互いの人生楽しみましょうね!
飲み仲間だけど伊豆には若干の仲間がいます、濃い人間関係とは飲む事しか考えないのでママから馬鹿にされています
・ 【神社ではイベントも行われてました】
我が町内の子供達の連太鼓が優勝して、兄さんも町内会長として鼻が高いです!
・ 【帰りも「山車」を引いて「ヨイト」で早駆けです】
「山車」は飾りつけを剥がされてひっそり倉庫に帰っていきました、子供達にはジュースやお菓子が配られサヨナラです
大人はこれから町内会館へ行っての「直来」が待ってます、僕は前日の運転で疲れていたので帰りましたが
兄さんから呼び出しの電話が掛かってきて飛び入りながらも突入、根が酒好きですから断れないのです!
(これから深夜に掛けて鳥取砂丘に向けて出発があるのに忘れてしまいました!)
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