・ 【横浜:伊勢佐木町は変わってしまいました】
私鉄の京浜急行の日の出町、黄金町は黒澤映画の「天国と地獄」の舞台となった所です、見上げる
丘の上の高級住宅は「天国」で駅付近の貧民街は「地獄」のような対比が潜んでいましたが、実際の
天国とは元町、山手の高級住宅街だと思います(横浜には色んな丘があるのです)
隠微で怪しげで昔は麻薬犯罪が多かった横浜の影の町でした、友達がクリーニング店をやってまして
そこほこに麻薬が置かれていたよと言ってました、この街を裏側として表舞台が華やかりし頃の伊勢佐木町でした
(親不孝通りや清正公通りを従えて、若葉町界隈の歓楽街の雄として「伊勢佐木町」がピンクや青のネオンに
囲まれて、文字通りに光り輝いていました)
この猥雑の街のどぶ川のそばにカトリック教会に付属して「聖母幼稚園」がありまして、ここで貧しくも清貧な
結婚式を「シイタケ」は挙げました、ここから流しのタクシーを捕まえて中華街で食事会(披露宴)を開きました
(聖歌隊もついて讃美歌も歌ってくれましたので5万円位かなと思いました、幹事役がお礼をいくら払えば!
と小声で囁いたので片手を出したら5千円にしたそうです・・・後日判明したのです)
当時の金銭感覚ではありません、ただ貧しかったのです、もちろん神父様は何も言いませんでした
若かった思い出の場所でもあります
・ 【昔は長いアーケード街でした】
昔は小さいデパートだったけれど「野沢屋」「松阪屋」さんのお店もありました
雨でも濡れないアーケード街が通りを貫いておりました、今はそれが無くなってしまいました
元町風になりましたと言えば聞こえが良いですが、雑多なお店が並んでいるだけの何処にでもあるような
商店街になってしまいました、昔は「イセザキチョウ」とは言わずに「ザキ」に行くかと気取って言ってました
(この街のはずれに公団住宅があって友達I君は特許をとる発明家で壮大な夢を話してくれました
40年も昔の話で、当然ですか建物はあっても本人の表札は掲げられていませんでした)
オープンな商店街なりましたけれど、中国語や韓国語が飛び交っています
・ 【全国の駅前商店街はシャッター通りです】
ビジネスの中心街が「関内」駅を中心としていまして横浜市役所などがあります、伊勢佐木町とは
京浜東北線の線路はさんで反対側になります、現在横浜のビジネス中心街は横浜駅方面の三菱重工の埋立地、
みなとみらい地区が中心になりました
(東京:千代田区にあります「丸の内」のオフィス街が「みなとみらい地区」に相当します、伝統のある
影の町が「神田」とすれば規模は小さいですが「関内」が神田に当たります)
昔を懐かしく思う人々がたむろします
・ 【オープンな店舗集団です】
今日は映画を見るためにやってきました、名画座のような小さな映画館です、「横浜ジャック&ベテイ」といいます
昔もこの辺は小さな映画館が集中していました、現在はシネコンに押されて映画館はすたれて
この映画館だけが存在していました、日本に輸入される映画や日本映画の数は年間1000本と言われて
いましてそのうちシネコンで上映されるの300本位、残りは上映される所が少ないのに目をつけて
上映してくれます
(この映画館も一度はつぶれましたが現在は中高年者が支えて再開しております)
横浜に憧れをもってやってくる新入生に歓待ストームが浴びせられました
(タバコや飲酒もして大人へ変身するのです)
・ 【伊勢佐木町からお三宮商店街を抜けて飲み歩きました】
先輩達が同室の後輩を歓迎する意味もあってアルバイトして費用を工面してくれました、僕の場合は
先輩が帰ってぶっ倒れるような辛い沖での港湾労働がありました、最初に訪れるのが「伊勢佐木町」の飲み屋街です
今はありませんが「根岸屋」という文化人も馴染みだった酒場もありました、若葉町の「ヌード酒場」でさらに盛り上がり、
お三宮商店街の安い居酒屋までくると気分は最高潮です
(足がもつれる中、坂を上がって寮に到着するとバケツを持った先輩たちの強烈な放水が待ち構えておりました
各部屋を回らされて酔った挙句に氏素性、出身、将来の夢などを語らされるのでした)
この阿鼻叫喚が部屋毎に毎夜繰り返されました、あまりの騒動にはるか彼方の丘の住民から苦情が来ました
私鉄の京浜急行の日の出町、黄金町は黒澤映画の「天国と地獄」の舞台となった所です、見上げる
丘の上の高級住宅は「天国」で駅付近の貧民街は「地獄」のような対比が潜んでいましたが、実際の
天国とは元町、山手の高級住宅街だと思います(横浜には色んな丘があるのです)
隠微で怪しげで昔は麻薬犯罪が多かった横浜の影の町でした、友達がクリーニング店をやってまして
そこほこに麻薬が置かれていたよと言ってました、この街を裏側として表舞台が華やかりし頃の伊勢佐木町でした
(親不孝通りや清正公通りを従えて、若葉町界隈の歓楽街の雄として「伊勢佐木町」がピンクや青のネオンに
囲まれて、文字通りに光り輝いていました)
この猥雑の街のどぶ川のそばにカトリック教会に付属して「聖母幼稚園」がありまして、ここで貧しくも清貧な
結婚式を「シイタケ」は挙げました、ここから流しのタクシーを捕まえて中華街で食事会(披露宴)を開きました
(聖歌隊もついて讃美歌も歌ってくれましたので5万円位かなと思いました、幹事役がお礼をいくら払えば!
と小声で囁いたので片手を出したら5千円にしたそうです・・・後日判明したのです)
当時の金銭感覚ではありません、ただ貧しかったのです、もちろん神父様は何も言いませんでした
若かった思い出の場所でもあります
・ 【昔は長いアーケード街でした】
昔は小さいデパートだったけれど「野沢屋」「松阪屋」さんのお店もありました
雨でも濡れないアーケード街が通りを貫いておりました、今はそれが無くなってしまいました
元町風になりましたと言えば聞こえが良いですが、雑多なお店が並んでいるだけの何処にでもあるような
商店街になってしまいました、昔は「イセザキチョウ」とは言わずに「ザキ」に行くかと気取って言ってました
(この街のはずれに公団住宅があって友達I君は特許をとる発明家で壮大な夢を話してくれました
40年も昔の話で、当然ですか建物はあっても本人の表札は掲げられていませんでした)
オープンな商店街なりましたけれど、中国語や韓国語が飛び交っています
・ 【全国の駅前商店街はシャッター通りです】
ビジネスの中心街が「関内」駅を中心としていまして横浜市役所などがあります、伊勢佐木町とは
京浜東北線の線路はさんで反対側になります、現在横浜のビジネス中心街は横浜駅方面の三菱重工の埋立地、
みなとみらい地区が中心になりました
(東京:千代田区にあります「丸の内」のオフィス街が「みなとみらい地区」に相当します、伝統のある
影の町が「神田」とすれば規模は小さいですが「関内」が神田に当たります)
昔を懐かしく思う人々がたむろします
・ 【オープンな店舗集団です】
今日は映画を見るためにやってきました、名画座のような小さな映画館です、「横浜ジャック&ベテイ」といいます
昔もこの辺は小さな映画館が集中していました、現在はシネコンに押されて映画館はすたれて
この映画館だけが存在していました、日本に輸入される映画や日本映画の数は年間1000本と言われて
いましてそのうちシネコンで上映されるの300本位、残りは上映される所が少ないのに目をつけて
上映してくれます
(この映画館も一度はつぶれましたが現在は中高年者が支えて再開しております)
横浜に憧れをもってやってくる新入生に歓待ストームが浴びせられました
(タバコや飲酒もして大人へ変身するのです)
・ 【伊勢佐木町からお三宮商店街を抜けて飲み歩きました】
先輩達が同室の後輩を歓迎する意味もあってアルバイトして費用を工面してくれました、僕の場合は
先輩が帰ってぶっ倒れるような辛い沖での港湾労働がありました、最初に訪れるのが「伊勢佐木町」の飲み屋街です
今はありませんが「根岸屋」という文化人も馴染みだった酒場もありました、若葉町の「ヌード酒場」でさらに盛り上がり、
お三宮商店街の安い居酒屋までくると気分は最高潮です
(足がもつれる中、坂を上がって寮に到着するとバケツを持った先輩たちの強烈な放水が待ち構えておりました
各部屋を回らされて酔った挙句に氏素性、出身、将来の夢などを語らされるのでした)
この阿鼻叫喚が部屋毎に毎夜繰り返されました、あまりの騒動にはるか彼方の丘の住民から苦情が来ました
吐けば布団で包みましたし、池に飛び込むのもいました、2階からおしっこが飛んできました
あの頃は中核も革マルも呉越同舟でしたが、その内に喧嘩しだして襲撃をうけて、
僕は寮から逃げ出しましたよ、しばらく指名手配の顔写真がばらまかれました