・ 【太鼓門:巨大な赤松でできている門です】
僕は過去にも見てますからママだけ見学してもらい、今まで見たことのなかった大きな門に取り付きましょう
大変立派な門は10年前に復元されたそうですが、木目も新しく壮大な門です、でもお城には悲しい
歴史が潜んでいます
ネットより
「正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかる。これが、玄蕃
(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えた
ところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので
玄蕃石と名前がついたという。その上に、石垣をまたいで建つ一の門(櫓門)は、総間口約10m
桁行9間、梁間5間の堂々としたもので、屋根は本瓦葺きとなっている。」
こんな事許されるのでしょうか?封建制が色濃く残っているお城の歴史に思わず後ずさりしました
太鼓門は二の門(高麗門)と一の門(櫓門)で構成されています
・ 【門の説明に「枡形」という言葉を使うのですね】
写真の文字は小さすぎて読めません、多分こんな内容だと思います
「櫓門の右手の北石垣の上には太鼓楼があり、太鼓と半鐘が置かれ、様々な合図が打ち鳴らされて
いたので、この門の名称になったとのこと。しかし、1871年(明治4)12月末に取り壊され、石垣
までもが崩されていたのを、松本城の保全と史実に基づく復元整備の一貫として、太鼓門跡の
発掘調査と石垣の改修から着手された。それが、1970年頃から徐々に整備され、128年の時を
越えて、みごとに蘇りました」
門だけでなく、松本城はお堀に浮かぶ名城に違いありません!
お城は現代の中央官庁ですから、お役人が勤務に励んでいました!
・ 【松本城:二の丸の復元図です】
今は何もなくなって広場になっていますが、柱の位置などから復元図が描かれました
「太鼓門をくぐり、右手に進むとそこが二の丸御殿跡で、1978年(昭和53)までは松本地方裁判所の
堂々とした建物が建っていた。それが、郊外に移転してからは、全面発掘が行われ、公園化されて
平面標示による建物位置が示されている。ここにあった二の丸御殿は、城主の居館と正庁だった
本丸御殿が、1727年(享保12)に焼失してから機能が移されたもので、以後、明治維新まで藩の
正庁だった。廃藩置県後もここが県庁となり、筑摩県の中心官庁となったものの、1876年(明治9)
6月19日の不審火によって焼失したとのこと。ここから見る天守閣も北アルプスを背景にして
なかなかすばらしい」
肩肘張ったお城の歴史より白鳥さん見ている方がほっとします
・ 【二羽の白鳥が夢中になって餌を食んでいました】
おとなしそうな雰囲気でやってきましたが、食欲は旺盛、長い首を掘りに潜り込まして
争うようにお堀の下にある餌を食べまくっていました
(現実世界でも生存競争はあるのですね!)
僕は過去にも見てますからママだけ見学してもらい、今まで見たことのなかった大きな門に取り付きましょう
大変立派な門は10年前に復元されたそうですが、木目も新しく壮大な門です、でもお城には悲しい
歴史が潜んでいます
ネットより
「正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかる。これが、玄蕃
(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えた
ところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので
玄蕃石と名前がついたという。その上に、石垣をまたいで建つ一の門(櫓門)は、総間口約10m
桁行9間、梁間5間の堂々としたもので、屋根は本瓦葺きとなっている。」
こんな事許されるのでしょうか?封建制が色濃く残っているお城の歴史に思わず後ずさりしました
太鼓門は二の門(高麗門)と一の門(櫓門)で構成されています
・ 【門の説明に「枡形」という言葉を使うのですね】
写真の文字は小さすぎて読めません、多分こんな内容だと思います
「櫓門の右手の北石垣の上には太鼓楼があり、太鼓と半鐘が置かれ、様々な合図が打ち鳴らされて
いたので、この門の名称になったとのこと。しかし、1871年(明治4)12月末に取り壊され、石垣
までもが崩されていたのを、松本城の保全と史実に基づく復元整備の一貫として、太鼓門跡の
発掘調査と石垣の改修から着手された。それが、1970年頃から徐々に整備され、128年の時を
越えて、みごとに蘇りました」
門だけでなく、松本城はお堀に浮かぶ名城に違いありません!
お城は現代の中央官庁ですから、お役人が勤務に励んでいました!
・ 【松本城:二の丸の復元図です】
今は何もなくなって広場になっていますが、柱の位置などから復元図が描かれました
「太鼓門をくぐり、右手に進むとそこが二の丸御殿跡で、1978年(昭和53)までは松本地方裁判所の
堂々とした建物が建っていた。それが、郊外に移転してからは、全面発掘が行われ、公園化されて
平面標示による建物位置が示されている。ここにあった二の丸御殿は、城主の居館と正庁だった
本丸御殿が、1727年(享保12)に焼失してから機能が移されたもので、以後、明治維新まで藩の
正庁だった。廃藩置県後もここが県庁となり、筑摩県の中心官庁となったものの、1876年(明治9)
6月19日の不審火によって焼失したとのこと。ここから見る天守閣も北アルプスを背景にして
なかなかすばらしい」
肩肘張ったお城の歴史より白鳥さん見ている方がほっとします
・ 【二羽の白鳥が夢中になって餌を食んでいました】
おとなしそうな雰囲気でやってきましたが、食欲は旺盛、長い首を掘りに潜り込まして
争うようにお堀の下にある餌を食べまくっていました
(現実世界でも生存競争はあるのですね!)
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