今日、アニメ「キノの旅」第二話をを視た。
期待を裏切らず~色々と思わせてくれる作品である。
ここで、改めて、このアニメを推薦してくれたブログ主に感謝である。
また、この感謝の気持ちの表現として、今後も記事で取り上げていこうと思う。
以下は、十月七日 16時51分にアップした~
「悟りを求めて…」http://satoritaihito.seesaa.net/
の記事である。
昨夜(訂正:今日の早朝・真夜中)
(補足十月七日 土曜日 0時30分 チャンネル9)、
ブログ「歴史性把持への道標
(弁証法・認識論・医学部学士編入・潰瘍性大腸炎など)
log.livedoor.jp/naotoosx
でお勧めのアニメ「キノの旅」を見た。
初回は「人殺しができる国」の巻。
以下はラストでの決め台詞です。
………
この国では、
駄目なんだ。いけない事なんでよ。
だから止めたんだよ。
………
ここでは、この国ではね。
人を殺すという行為は許されていないんだよ。
………
この国ではね。
人を殺した者、人を殺そうとした者、人を殺そうとする者は、
皆に殺されてしまう事になっている。
………
つまり、禁止されていないという事は、
許されているという事ではないんだよ。
………
いや~感動・感動だった!
「禁止されていない≠許されている」という言い回しに…
禁止の否定は、許可ではない…。
人の認識は禁止されていない。
そこには無限・無制限的な自由がある。
だから、それを社会的な自由の範囲で制御が必要…。
それは、社会的許容範囲内の自由であって、
決して、個人的無限・無制限の自由ではない、
というようなモノなのだろう…
反対の反対は賛成ではない。
その反対と賛成の間には、
反対(⇒賛成的反対⇒反対的賛成⇒)賛成。
禁止(⇒許可的禁止⇒禁止的許可⇒)許可。
とったような過程的構造がある。
その構造の過程には、
禁止であっても、許可を含むモノから、
許可であっても、禁止を含むモノまで。
おそらくは私が「何もしなかった=ここにコメントを寄越さなかったこと」が自由びと氏の悪意あるコメントの原因なんだとは思いますが・・・。
おそらくは「分かりやすく具体的にブログを書いていく」という自由びと氏のコメントを実現するのは自由びと氏のアタマなのではなく私のコメントだと期待してるからなんでしょうが・・・自由びと氏が信奉している「南郷氏の弁証法的武道論」は多くの武道家たちから「ずる賢い」と非難されていると知りましたけどね。
ちなみに私も「キノの旅」の第1話をアニメで見たわけですが、自由びと氏が関心を寄せるのが「禁止と許可」という国語の語彙の対立関係だということに注目しておきたく思いますね。そこから「自由びと」という人間がどういう人間か理解できますから。
端的に言うと玄和さん的には「像」ということになろうかと思いますが、同じ玄和さんの会員でも恐らくは関心を持つところは違うはずで、このアニメで「人を殺してもいい」というのは実際にはいいわけでなく「国民としての適性を試すフェイク、フェイント、罠」なわけで、実際にはこういう適性検査をしてる国はないわけでしょう。
なぜなら玄和さん的には「初めから空手家に向いてる人間はいない」なんて言ってるみたいですけど、悪人になる可能性もあれば善人になる可能性もある中で「出来心」とか「魔が差した」とかいう「改善」する可能性を許さずに即時に「君は危険人物だからね、生きていてもらっちゃ困るんだ」と殺してしまう。
まあ、塾講師が自分が読んで面白かったという理由だけで中1に奨めても雑談としては問題ないでしょうけれど、自由びと氏のように大学で教育学を修めた立場からは教育的知見から如何なる本を奨めるべきか?なんて持論があるのかと思われますけれども。
誠さん
コメントをありがとうございます。
今日は雨で、父親の介護で一人家にいて、ちようど暇していたところでした。
なので、今日のところは、丁寧(私的ですが…)にコメントしましょう。
>…「二位はあのソクラテス」なんてコメント…
↑~
この記述が心に止まりましたか…
これは、以下の私のコメントの記述に対しての「ソクラテス」なのです。
>「金と銀が、同志である弁証法信仰者二人です。」
>「でも…でも…二位が、なんと…あのソクラテスですよ。」
ここは、本当は、
南郷氏的な弁証法を信じようしない者とか…アンチ減和会とか…玄和会大嫌い者…
と表現したかったのですが…でも…それもなんとなくピッタリしなくて…
なのでまあ~そんな意味合いを込めての…「ソクラテス」です。
ですから当然に貴君が、この五日間に「自由びと氏の気分を害する発言をした」事実ありません。
>「分かりやすく具体的にブログを書いていく」…
>私のコメントだと期待してるからなんでしょうが…
↑~
確かに、私が他人からのコメントを期待している事もなくはない…のですが…
でも、それを「私(誠さん)のコメントを期待してる…」と言ったら嘘になります。
私は誠さんのコメントから気付いた事がありました。
それは、私は、私の言葉・認識の生々・生成部分をあまり記事に書けていない事です。
なので、今後は、そのような私の言葉・認識の生々・生成過程も書けたら、更なる発展もあり得るだろう事の期待から…でもあります。
>関心を寄せるのが「禁止と許可」という国語の語彙の対立関係だということに…
↑
こう~読み取りましたか?
私が「関心を寄せたの」は、以下言葉・認識です。
>つまり、禁止されていないという事は、
>許されているという事ではないんだよ。
そう~
私の関心は~「禁止と許可」ではなく、
正確に書くなら~「禁止されていない事と許されている事」の意味・区別と連関ですね!
「…フェイク、フェイント、罠…」ですか?
それは、誠さん的理解・認識ですね。
本当に誠さんは、超・個性的な像の持ち主ですね!
でも…私は以下のように考えます。
人を殺せる自由があっても、その自由を法律ではなく、自分から自分で律して、決して人を殺さない者、そんな自由な市民を求めての「人を殺しもいい」という公言です。
誠さんは、「キノの旅」の第一話を視たのでしょう。
キノはバイクの影に隠れて抵抗も反撃もなし、でした。
なのに殺人者はキノを銃で撃とうとしました。
それを村人が手に弓を打ち止めました。
その時点で殺人者は気付くべきでした。
他人を殺してもいいなら、自分が殺されても文句は言えない…と。
そんな人の事を、自分の事のように思えない、から「アニメの中」では殺されたのです。
確かに、現実としては「人殺しをは殺される」とは、極端・極論でしょう。
しかし、アニメの世界だからあり、なのでしょう。
なのに、それを~
>「君は危険人物だからね、生きていてもらっちゃ困るんだ」と殺してしまう。
と読み取るとは、誠さんの論理の論理的な理解力はまだまだです。
このアニメを現実的に直すなら、
「目には目を、歯に歯を持って報いよ」。
または、「自業自得」かな…
これって、やっぱり誠さんの論理能力的な不足ですかね…
それは、アニメは非現実だから、モノ・コトを事実以上に強烈に描きだすモノ、という部分の理解不足です。
>自由びと氏が信奉している「南郷氏の弁証法的武道論」は多くの武道家たちから「ずる賢い」と非難されていると知りましたけどね。
↑~
これは、モノ・コトに対する捉え方の相違ですね、
例えば、「宮本武蔵」ですが…彼は試合で勝ち残る為にあらゆる手段を講じたそうです。
それを「卑怯」とか「ずる賢い」というのは自由ですが…。
しかし、もし彼が生き残る為に、そうしなかったら、「五輪の書」は残されていません。
人間も動物です。生きる残る為の努力をするのは当然です。
それを「ずる賢い」と言う人は、「あのブドウはすっぱい」と叫ぶ人物ですかね!
>大学で教育学を修めた立場からは教育的知見から
>如何なる本を奨めるべきか?なんて持論があるのか…
↑~
他人に、本を勧める事ほど難しいモノはありません。
それは、その人が何を求めていねかによって千差万別なのです。
本を勧めるには、その人の興味・関心…を知る必要があります。
仮に、私が『その人の為になると確信した』本を勧めても、
当人が、その本に魅かれるとは限らないからです。
人は理屈ではなく、感情なのでしょう。
アタマで理解していても、ココロが魅かれない、駄目ですかね。
確かに私は南郷氏の弁証法を信じてはいませんが、生憎と「玄和会大嫌い者」というほど強い感情を玄和会という団体にも南郷氏にも持ってはいませんね。
そうした強い感情というのは直に関わる中から生じてくるように思われますが、確かに私は『学城』を定期購読しているとはいえ実際には玄和会さんの実情を知りませんしね。
ただ、チェンジ・オブ・ザ・プレイスとは良く言ったもので、玄和さんのやってるようなことは南郷氏がお亡くなりになって玄和という団体が無くなっても場所を変えて行われ続けていくだろうなとは思いますね。
改めて、玄和関係の医学生さんが塾講師として中1に『キノの旅』を奨めたということなんですが、今では中学生から哲学を学んだほうがいいという考えがあるようですね。そうした「哲学を学ぶ」ということの中には「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて問いが含まれるようなんですが。
そうしたことを考える材料としては『キノの旅』という作品も役には立つのかも知れないとは考えましたが、しかし、それに対する自由びと氏の考えは
「社会的許容範囲内での自由であって、個人的無限的な自由ではない。」(医学生さんのブログへの自由びと氏のコメントより)
私は、自由びと氏がこう結論づけたことが奇妙に思えました。『キノの旅』という具体的な作品を見ながらも「人が人を殺す、それも如何なるシチュエーションで!」といった具体性からの帰納的な帰結が導かれるのではなく、「社会と個人」「有限範囲と無限」といった相反する対立関係の概念から構成された言葉の表現が。
人はそれぞれに個性的なのだとは思うのですが、こうした「一般的、普遍的」であるかの発言をする自由びと氏の「新・頭脳」(ぷっ、失敬)こそが「超・個性的」なんだと感じますけどね。玄和さんという団体の中では普通なのかも知れないけれど、自由びと氏は真面目に「南郷尊師の本で培ってきた私の思考は一般社会的には奇妙なものなのではないだろうか?」と考えてみることを薦めますね。
私は『キノの旅』という作品を見て、入国管理の男が「この国は人を殺してもいいんですよ」なんて語ることを奇妙に感じましたし、また「人を殺してもいいはずの国の人々」が高い宗教性・規範性をもっているような紳士・淑女であることにも奇妙に感じました。
そうしたモラルの高さって何も無いところからは生まれて来はしないだろうし、ロビンソン・クルーソーのように然るべき歴史性をもった社会の中で育まれた後に無人島に漂流した如く、「人を殺してはいけない国」で育まれた倫理性が「人を殺してもいい国」なんて看板の中で生きているように感じましたよ。
キノを銃で撃った男の怨みの念は入国前に荷物を持ってくれなかったという些細なことでしょうから、それが動機となって銃撃に及ぶなんてのも極端に過ぎて唐突な感が否めませんが、日夜、部屋で早撃ちの練習をしていたキノが応戦せずにバイクの後ろに隠れたのも不自然な気がしますね。
でも、それが「人を殺した、あるいは殺そうとした人間は他人から殺されてしまう」という定めによってキノを撃った男は殺されて、キノは殺されなかった結果となっています。
これがキノも応戦したならば、男もキノもどちらも「人を殺そうとした」ということで他人(他の国民)から殺されることになったはず。また、銃撃した男を殺したメガネの爺さんも理由は問わず「人を殺した」わけですから、他人(他の国民)から殺されなくてはいけない。ですが、話の中では、そしてアニメを見ている私たちも「この爺さんの殺人は私たちの国で司法が凶悪犯を処刑するが如く正当な殺人」であるかに錯覚させられてしまう。
だから、本来は「人を殺していい」という定めの中で互いに自分が殺されないように努めるというパワーバランスだけでは平和は維持できないんだと感じますね。
アニメの中では明確に語られてはいませんが、この「人を殺してもいい国」で生きている人々には「人を殺してはいけない私たちの国」で培われた規範が応用されていると思われますが、男を殺したメガネの爺さんの殺人が「制裁」のための殺人なのか「抑止」のための殺人なのかというと両方なんだろうと思われますけど、殺した爺さん自身が殺されないのは長年一緒に暮らしてきた国の人々にとっては「抑止」する必要がないとの信頼関係があるからなんでしょう。
武蔵が試合で勝ち残るためにあらゆる手段を講じた、なんてまた抽象度が高いわけですが。
どんな手段を講じたんです?私が知ってる狭い範囲では約束の時間に遅れていって苛立たせたとか真剣でなく船を漕ぐ櫂で戦ったとか多勢に無勢で逃げを打ったとか、ちょっと変わってはいても剣術の立ち合いだったと聞かされていますけど。
これが立ち合いの前日に敵の食事に毒を盛るだとか、仲間を大勢引き連れて一人を50人で打ちのめしたなんて「手段を選ばなかった」のなら「剣聖」として現代でも語り継がれることはないでしょうし、腕の立つ剣客として当時の藩に召し抱えられることも無かったのでは?
「剣術で勝つ」ということを一心に追究していったからこそ、『五輪書』が書けたわけで、それは学問でいったら本物の学問をひたすら追究することでは?
南郷氏への評価は「ずる賢い」「解けてないのに解けているかに装う」「自分はやらずに弟子を実験台にしている」といった散々なもののようですよ。
宮本武蔵のエピソードですか?
何処かで?読んだか、聞いたか、した話…ですが、
武蔵と某居合の達人の勝負の話です。
武蔵が、相手を軽く見て、簡単に勝負を受けて…
互いに構えた瞬間に相手の実力を知り…
よくて合い打ち、下手をすると切られると判断して、
武蔵は、「負けました…」とか「貴殿の勝ち…」か言い、
相手がふっと、気を緩めて、その居合の構えを解いた瞬間に、
一刀両断した…そんな話だったかな…
この話だと、武蔵は勝負に負けたのに、相手を切り殺した訳です。
もっとも…これが事実であるか、どうな不明ですが…
それでも、生きる為なら、のこよう事もするだろう…想像は可能です。
そもそも…武蔵であっても、誰であっても、手段を選ばすに必死になる重大事はあるでしょう。
そんな他人の必死な行為を…「ズル賢い」と言い得る人って何なのでしょうね?
誠さんも、そんな人達の同類なのかな?
だから…誠さんのコメントは疲れます。
それとも…還暦を迎えて体力・持久力・精神力が衰えたのでしょうか?
それとも…認識を確りと表現できない、もどかしさ…なのでしょうか?
>南郷氏への評価は「ずる賢い」「解けてないのに解けているかに装う」「自分はやらずに弟子を実験台にしている」といった散々なもののようですよ。
↑~
「ズル賢い」とは、~↑~そんな事なのでしたか?
>「解けてないのに解けているかに装う」
↑~
解けた事を、説いて・解いてみせても、分からない人には分からない…という事でしょう。
>「自分はやらずに弟子を実験台にしている」といった散々なもののようですよ。
↑~秘かに自分自身を実験体にしてるなら、誰にもその事実を知られない、という事ですね。
まあ~普通の他人は南郷氏の全てを知り得ない。
そんな全てを知らない南郷氏をとやかく言うのは、己を知らない者ね。
そもそも…そんな「ズル賢い」者の元に、優秀な人材は生まれないしょ!
そもそも…誠さんが、定期購読している「学城」の著者は全て南郷氏の弟子ですよ。
なのに…誠さんは、そんな「ズル賢い」師範の弟子の記述を読んでいるの?
それなら~止めた方がいいよ!
師が「ズル賢い」なら、弟子は超「ズル賢く」なっているでしょうし…
そんな超「ズル賢い」人の著作を読んだ誠さんは、今よりバージョンアップした超超ズルズル賢い誠さん化するよ!