算数の授業中、小学四年生のYさんのノートを覗いた時の会話。
Y~「これ(練習問題)ね」
Y~「ここ(初め)とここ(最後)やって、ここ(途中)やらなった!」
私~「それじゃ~ナマケモノになっちゃうよ!」
Y~「ナマケモノになりたい!」
私~「ナマケモノなら動物園いきだよ!」
Y~「動物園いいよ!行きたい!」
私~「動物園だと…着替えも見られてしまうよ!」
Y~「いやらしい!」
私~「………」と、終わってしまったが…
その後に、私は以下のような事を考えた。
この会話では、私が、「…………(無言)」と終わってしまったが…
そこで、言葉を続けるなら何と言えば、よかったのだろう?
私のYさんの会話の流れは以下。
私~ナマケモノになる。
Y~なる!(いいよ)
私~動物園にいく。
Y~いく!(いいよ)
私~着替えを見られる
Y~いやらしい!(嫌だ)
初めの二つは同意。
最後の一つは反対。
しかし、
その反対を彼女が嫌ではなく、
見る人が「しやらしい」と表現した。
これは
見せる側である、自分の問題を、
見る側である、他人の問題にすり替えている。
ここは、素直に、着替えを見られるなら、
動物園へは行かない。
ナマケモノにならない。
頑張って問題を解く。 とは…ならない。
ならば、
私の続けるべき言葉を以下のように考えた。
Y~「いやらしい」
私~「そうだね、本当にいやらしいね」
私~「でも…動物園のナマケモノなら…」
私~「いやらしい…なんて有り得ないでしょ!」
私~「私なら本物のナマケモノは見たいけど…」
私~「ナマケモノのYさんは見たくないなら!」
最近の児童は、理屈が達者である。
もっとも…全ての児童が…ではない。
もともと~
子供は弁証法性に富んでいるモノである。
先生・相手に
素直に心を開いた二重化しての結果・言葉。
反抗的に閉じた心の二重化の結果・言葉。
この二つなら事は、そう面倒な事ではない。
しかし、児童は、時々に、
素直と反抗的の入り乱れだから、
厄介である。
上記の会話でも、
「ナマケモノになりたい」、
「動物園に行きたい」
までは、同意だったが…
最後では、
「見られてもいいよ」ではなく、
「いやらしい」となっていた。
この、「いやらしい」とは、
自分事、(ナマケモノ・動物園を同意)を
他人事、(着替えを見るのはいやらしい奴」と
すり替えてしまっている。
これでは、認識の発展は起こり難い、のだろう。
ここでの、
「なまけもの」も「動物園いく」も、
彼女にとっては、
言葉の遊び的な実感ないモノだった、のだろう。
しかし、最後の
「着替えが見られる」は実感した、のだろう。
児童への言葉掛けの問題点は、
如何にその言葉を実感させるか?であろう!
しかし、言葉だけでの実感は至難である。
その言葉の内容を未体験な児童・生徒にとっては…
一読したときの感想は「?良く分からないけれど児童Yさんの言動よりも自由びと氏の言動のほうが「普通じゃないな」」という気がしたんですね、直感的に。
というのも小学四年生の女子児童に教職側が「着替えを見られるのも条件次第で仕方ない」みたいな発言をする理由というのがあるようには思われなかったからです。
それで改めて二人の対話を確認してみたんです。この自由びと氏の場合には自由びと氏が南郷学派の信奉者であることから海保静子の「像の関わり」を介在させるのが適当かと考えましてね。
それで自由びと氏が「それじゃ~ナマケモノになっちゃうよ!」と言ったとき「ナマケモノになりたい!」と返したYさんの頭の中に描かれた像は「怠け者」であり「勉強せずにゲームで遊んだりお菓子を食べたり」の怠惰な自分の姿だったのでしょう。
ところが自由びと氏の頭の中では動物園にいる南アメリカ原産の哺乳類の「ナマケモノ」が描かれているのですよね。
ですが、話の流れからいっても学校の課題の処理の仕方で児童の生物としての「種」がホモサピエンスから有毛目に変化するはずもないですから、「それじゃ~ナマケモノになっちゃうよ!」と言ったときの自由びと氏の頭の中には「人間としての怠け者」が描かれたはずなんですよね。
それが、対話の相手には何の断りもなく自由びと氏の頭の中では「人間の社会的評価としての「怠け者」から動物園で鑑賞の対象となっているナマケモノ」に自分勝手に変化しているんです。
それで「ナマケモノなら動物園いきだよ!」と言った自由びと氏の頭の中では「動物園に搬送されて檻の中で鑑賞の対象とされる」像が描かれているのに対して、「動物園行きたい!」と言ったYさんの頭の中では「お客さんとして動物園に遊びに行って檻の外から動物を鑑賞する自分」の像が描かれているわけです。
だから「動物園だと着替えも見られてしまうよ」と言った自由びと氏の言葉から「自分の裸や下着姿を覗かれる」像を描いたYさんは10歳までに身につけてきた羞恥心とともに「いやらしい」となったのでしょうね、当然に。
ですが、「動物園のナマケモノ」が服を着替えるなんてことはありませんし、では裸かと言ったら長い体毛で覆われていますから裸だとも言いがたい。いわば天然の毛皮を着てるわけですから、裸というのは先天的に体毛の少ない人間に当てはまることでしょうし。
ですから児童Yさんの頭の中では実に当たり前に「学校の課題をサボると社会的評価としての怠け者(人間)となる」「観光客(人間)として動物園に行く」「学校の課題をやらなかったからといって人間の女子が裸・着替えを他人に見られる理由になどならない」という像が描かれているのに対して、自由びと氏の頭の中では対話の相手とは無関係に自分勝手に「人間の怠け者から動物園のナマケモノへ、鑑賞動物なら迷惑防止条例違反としての「覗き見」には当たらない」などという像・判断が進んでいってるわけですよ。
以上のように「両者の頭の中で描かれている像の展開」という中身で考えれば一目瞭然であるものを、自由びと氏は「二つの同意と一つの反対」だとか「見せる側と見る側」なんて自己中心的な形式ばかりの思考を進めていますね。
今は小学校の教員でも可愛い児童に性的犯罪をする時代ですから、自由びと氏も教職側の人間として言動に気をつけたほうが良いのでは?正直、この事例を見ても児童Yさんの反応は至って正常で自由びと氏のほうが不適切というか、はっきり言うと「馬鹿」ですよ。
これ、他の教員にも聞いてみたら良いと思いますよ。自由びと氏の判断だとか言動が正常かを。これで南郷さんの元で三十年以上も修行したなんて公言していたら南郷さん側が迷惑するんじゃないでしょうか?
玄和というのは人間の頭をクルクルパーにする団体だと思われてしまいますよね。
相変わらずの長文コメント。
相変わらずの貶める造言。
それでも、
まあ~それらの労作には、
それなりの以下の労いを~
あそこでの「着替えを見られてしまう」という言い回しは、
彼女に、
「人に見られたくない」、
「動物園のは嫌だ」、
「ナマケモノになりたくない」、
「だから、頑張って問題やる!」
といった認識の変化を求めて、である。
そこでの私の意図・思いは、
小三の女子はクラスで男女一緒の着替えでも、
小四は女子が視聴覚教室、男子が教室と別々。
そんな意識変化の年頃だから~
Yさんも、そんな意識がの芽生えがある事を考慮して、
「着替え見られる」は、きっと嫌な事だろうから、
その事からの回避の為に自分のやるべき事を考えて!
の言葉であった。でも…結局は失敗だった。
ならば、如何なる展開であればよかったのだろうか?
それは、以下のようであろうか…
因みに、私は、動物園のナマケモノについて
彼女が友達と話していたのを聞いていた。
だから、
空ちゃんの
>それで「ナマケモノなら動物園いきだよ!」と言った自由びと氏の頭の中では「動物園に搬送されて檻の中で鑑賞の対象とされる」像が描かれているのに対して、「動物園行きたい!」と言ったYさんの頭の中では「お客さんとして動物園に遊びに行って檻の外から動物を鑑賞する自分」の像が描かれているわけです。<
↑
これは違うと言い切れる!
更に、彼女はというか、そのクラスの女子・男子の大部分は、従順とは言い難い!
それは、とても素直に反抗的である、と言い得るだろう。
自己の言い分は、何としてでも押し通したい。
自己の正当化の為には、意味のない言葉、実行不能な言葉も簡単に口から出でくる。
言葉で言い負けたら、態度で反抗する、そんな学年・クラスである。
私が担任なら、正攻法で言い負かすが…
補助員なので、正攻法で負けたら、態度で反抗…
次回から相手にされなくなるだろう。
だから、相手の理屈・論理に合わせて、
相手の言い分を相手的な否定へと導く為の態度・会話を心がけている。
あの場合、「着替え・見られる」ではない展開ならば…
ナマケモノなら動物園の檻の中、
織の中では、大好きなサッカー・運動が出来ずに、
狭い織の中で四六時中人から見られ通し、
そんなナマケモノは嫌でしょう!?
と、まあ~
ここでの空ちゃんのコメントに合わせて説くなら以上である。
しかし、そもそも空ちゃんのコメントが、
この記事の主旨・意図に合っていない。
それは、
>ようやく私にも自由びと氏の記述に焦点が合ってきたといったところかもしれませんがね。
が顕著に表現されている。
そんな外れコメントだから、
ここで私の思考=会話の展開過程の深化に役立っている。
その事は、同時に空ちゃんの思考の深化をもなしている。
その結果が端的に表現されているのが以下の言葉である。
>玄和というのは人間の頭をクルクルパーにする団体だと思われてしまいますよね。
何でもカンでも、このように、
「玄和会否定」へと導いて納得・満足してしまっている姿。
これこそが、空ちゃんの本質なのだろう。
それは、
相手に合わせていると思い込んでいても、
実は、
相手の言葉を自分勝手に解釈している、
という事実であろうか…
確かに上品な物言いではありませんでしたね。ですが、あれぐらい書かないと私の考えは伝わらないと感じましたのでね。
>認識の変化を求めて
誰しもが他者に対して某かを求めるものなのでしょう。それが船戸結愛ちゃんを虐待死させた父親の船戸雄大の場合は言うことを聞くように娘の認識の変化を求めての暴行だったのでしょうし、栗原心愛ちゃんを虐待死させた父親の栗原勇一郎の場合も娘の認識の変化を求めてだったのでしょう。
別に私が自由びと氏に批判的なコメントしたところで児童教育の経験の皆無な私に児童の教育が出来るはずもなく批評の域を超えるものではありませんが、何となく、まったくもって何となくなのですが自由びと氏の教育に関する思考は教育現場の一般的というか大勢を占める考えではないのではないか?という気がしたものですからね。
私がそれを読んだのも三十年も昔の話ですが、正に「個性的すぎる思春期での成長」に該当するのが自由びと氏なのではなかろうか?とも感じるものです。
ですので実際に自由びと氏が担当しているクラスの児童を私は見ていないわけですから
>従順とは言い難い
>素直に反抗的
だと言われれば、「そうなんだ~」と思うしかなく、反抗的な子供の心を入れ替えさせる自信など私はまったくもって無いですので、ね。ただ、
>何でもカンでも、「玄和会否定」へと導いて
私は何でもカンでも導いているつもりはありませんけれど、玄和さんで三十年以上も学んだと公言したのは自由びと氏自身でしょうし、一般的に三十年も学んだと言われたら深く影響されていると受け止めるのが当然ではないでしょうか?
その上で、私が「現在の現場の多くの教員はそうではないのではないだろうか?」と感じる自由びと氏の特性というか個性的なところは三十年以上も学んだ南郷さんや海保さんの本に露になってるように思われたのですね。
それが「現代教育に欠けたるもの」に説かれた「歴史性のない者は豚である」というヘーゲル由来の思想や「武道の理論シリーズ」や「子供の認識の論理を求めて」で説かれた人間性を否定された悔しさを原動力として頑張らせるという方法論のように思われます。
私も教育学は門外漢の素人なのですが、確かに教育学には「狼に育てられた少女」を問うような部分があるのだと思うのですが、それが「教育学」という体系?の何処に如何に位置づけられるのか?個々の事例の一つ一つの教育場面での指導スキルに顔を出すものなのか?ということが、自由びと氏の「学習課題をやらせようとの指導現場で人間か動物園の鑑賞動物かを問う」なんて方法への違和感から考えられたことなのですよ。
そもそもが学校教育というのは現代社会に出て生活していくための準備期間として知識を蓄え体を鍛え知能を発達させていくのだと考えます。社会に出ていくというのは社会的な義務を担うわけですから憲法にもあるように労働の義務を果たして経済的な活動をし納税の義務を果たし参政権として国を動かしていく役割をも担うという、だからそれらを果たし得ない未成年は「社会人」とは扱われないのですし、二十歳という年齢が「成人」なのだと思います。
そうした社会へ向けての準備期間に社会的に許されない方法、例えば「宿題やらなかったらブッ殺す!」とかの「脅迫」を手段としたならば「目の前の課題をやらせる」ということしか考えていないことになり、場合によっては「目的のためなら手段を選ばない」という思想を子供に教育指導することにもなりはしないか?と考えますね。
ですから「学校の課題をやらなかったらキミは動物と一緒だから裸を見られても仕方ないよね?」なんてことを、船戸勇一郎が「躾のためだった、相手が言うこと聞いてれば問題にはならなかった」と言ったのと同様に、口にする教職員がいたとしたならば、時代錯誤というか教育学の体系を履き違えているとか感じたとしても無理ないのではありませんか?
昔のヨーロッパと異なり、今は動物と共生して行こうとしている時代ですから、動物というのは人間未満の軽蔑すべき存在なんて思想の持ち主は多くないでしょうから、動物扱いされることが悔しくて頑張る動機となるなんて考え自体がナンセンスではないでしょうか?
自由びと氏に再確認していただきたいのは、自由びと氏は自分が考えているような「考えることが好きな人間」では全くなく、考えない人間なのだということです。