「無」を用いて「有」を表現する。
「有」の表現に「無」を使用する。
この二通りの表現、意味は殆ど同じ、
でも、これらの「像」は違っている。
「有」のない所に「無」もなく、
「無」だけの所に「有」はなし。
さてさて
~月研ぎさん~ありがとう感動を~
>つまり、線を描かない、という表現をすることなのです。
>この像の描き方は、豆腐に光を当てて線を飛ばすというものです。
>絹ごしの感じを、柔らかな線で表現するその限界を突破する方法が、
>この「線を消す」という描法です。
多くの線を使っての表現を否定された時、
一本の線の太さ・細さを調節してする表現なら、
何とか…思い付くでしょう(私には無理でしたが…)
それを「線を消す」事で、線を書くのと同様な表現効果を得る…とは、
数字の「ゼロの発見」レベルですね。
「無」を用いて「有」を表現するとは…
目の前に視覚化されれば、誰でも納得可能ですが…
それを初めて創出した人は凄い!
これって「ゼノンの絶対矛盾」レベルですよね。
以前「叱らない教育」について、何かで読みました。
確か…どこかの幼稚園で実践しているモノでした。
それは、叱らない事で、叱ったと同様な躾の効果を得る。
幼児の教育過程で必要なのは体で覚えさせる事。
それは「自分が何をしたら…どうなるかを実感させる」事。
それを幼児集団の中で教師が、その子に痛感させる教育…
今の、私の勤務している特別支援学級の子供達へのモノ似ています。
私の学級には、身体障害はない児童。脳の障害からの知恵遅れなし。
それでも知、能指数は比較的低い感じの子供達…です。
この知能指数が問題です。
知能の二重性。
実体験・経験不足からの低さ。
自分の殻に籠ってしまっての低さ。
彼らの「自閉症」スペクトラムは、
大人の「自閉症」のようにて完成されてはいません。
それは、「好きだからやる!嫌いだからやらない!」
そんなレベルのモノだと私は思いました。
そこに不足しているのは、
「嫌いでもやる!」
「先生の言う事に従ってやる!」
「親の言う事に従う!」…
そんな自分自身を強く律する意志・心・感情ですかね。
補助員には、個別の情報は教えてくれません。
なので、これらは、私の見た目の判断ですが…
叱る事は、自分が何か悪い事をしたら、痛い想いをする、
悪い行為=不快という感情の教育なのでしょう。
>突いて引くという目にも止まらぬはや技、つまり、突きが見えない。
>これは線を消して描くことと同じです。
始まりと終わりを線で表現して、敢えて、その過程は線を書かない。
線のない部分は、それを視た人の想像で、
初めと終わりをでカバーさせる、という事でしょうか?
「武道の理論」は本当に凄いモノなのですね。
でも、初めて読んだ当初の私には、その凄さ・素晴らしさが
全く感じ取れませんでした。
それでも…何故か、心~惹かれるモノを感じて、いたようです。
だから、その後の「武道の復権」…等の武道の理論シリーズは、
書店での本棚から発見しては買い続けていました。
それは、理屈や意志ではなく、感情が欲したモノだったのでしょうかね♪♪♪
参考コメント~
言葉から描く像の二重性 2018-01-10 09:22:11
見えないという表現 (月研ぎ)
2018-01-11 09:29:06
自由びとさんが、何かの書類に住所・氏名を書くとき、書類の性質上明快に伝わるようにわかりやすい文字を心がけると思います。
自分の字のクセが強い場合は、丁寧にクセを取るように書いたりします。
それからもう一点、字を太くもなく細くもなく、標準の筆記具・ボールペンを使っていると思います。
つまり書類を書くとき、文字の形と、線に、無意識に気を使っています。
アシスタントを選ぶ際のテストで、絹ごし豆腐の形を描くのに、平安王朝仮名書のような流麗で柔らかな線で、絹ごし感を表現しようとします。
これは『武道の理論』でいうところの、「カン・コツ」のレベルです。つまり誰もが、書類の文字で、無意識に形と、線に、気を使っているレベルです。
では合格ラインはどこかと言えば、描くときの条件である。陰影や効果線を使わずに一本の線で描くという、そこにヒントがあります。
つまり、線を描かない、という表現をすることなのです。
この像の描き方は、豆腐に光を当てて線を飛ばすというものです。絹ごしの感じを、柔らかな線で表現するその限界を突破する方法が、この「線を消す」という描法です。
置かれた豆腐の接地面はしっかり線で形を描き、豆腐の上部に行くにしたがって線をしだいしだいに細くして、いちばん柔らかな繊細さを表現したいところで、究極の柔らかな絹ごし豆腐の像である、線を描かない表現をするのです。
これも『武道の理論』に実はあるのです。
小説家が、空手と柔道を対決させ、突いてきた手首をつかんで投げ飛ばす場面を描きます。このとき小説家は、空手の突きの静止体の写真を見て発想しています。
でも実際の突きは、突いて当てた状態で静止するのではなく、突いて引くという攻撃と防御の技なのです。
突いて引くという目にも止まらぬはや技、つまり、突きが見えない。
これは線を消して描くことと同じです。
絵を見るとき文字を見るとき、たいていは「何が描かれているのか」の、意味で見ます。
絵や文字が線で描かれているという、その線が「どのように描かれているか」という、線ののドラマを見ようとはしません。
絵や文字を描くと、ペン先が紙に触れながら進み行くその角度や速さや強弱など、力の入り具合が、触覚として伝わります。
すると、その過程でのすべての感覚が(描きぶりが)線に現れ出ます。
鑑賞するときには、その描く過程が内包された線を目で追い、指でなぞりながら、ここは強く、ここは弱く、ここは力を抜いて、という過程的構造を理解し、味わうことができます。
ですから絵や文字は、形の芸術という意味的な価値だけではなく、芝居や音楽と同じように、目の前で展開していく「過程」をたどる、時間の芸術でもあるのです。
俗にいう、ペンタッチの様子を生き生きと像として、よみがえらせるわけです。
絵や文字を描きながら、紙の表面の蝕知を指先でなく、ペンで感覚します。ここでは、私の感覚的身体は、ペン先まで拡張されているのす。
『武道の理論』は、頭で理解すると読んで終わりと、そこで止まってしまいます。
行動の中での理解をしないと、『武道の理論』は生きてこない、のだと思います。
つまり、日常生活の中で、または自分の専門の中で、『武道の理論』を見いだしていって、はじめて読むことができた、となります。
私は『武道の理論』を読んだとき、空手家になるために南郷継正さんの門弟になりたいとは思いませんでした。
それは、そのとき直面していた絵を描く問題に、この『武道の理論』は使える、と判断できたからです。
この本は、自分の仕事で生かすことができる、つまり、自分を動かしたわけです。頭だけの行動でなく、身体の行動を起こさせたのです。
『武道の理論』は、私を現実の南郷継正にではなく、本の中の南郷継正に向かわせたのです。
コメントをしようと思って、書き込んだら、
字数が多くてダメだったので…
記事にしました。
宜しくお願いします。