以下のコメント記述から、更なる「臨済義玄」お宅の人なりが判明!
「臨済義玄」お宅は、彼の度重なる他人に対する不快行為を…
初めは、「誤植」と言い訳し…それを再度指摘されると…
今度は以下です。
>あらあら、またまた…加齢とともに加速しているのかも知れませんね。
>「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)
↑
全く…論理的に物事を見て取れないお宅…である。
南郷氏の上記の記述は、南郷氏の著書の中でのモノ。
それに対して、
このお宅の不快記述は、他人のブログ内でのコメント記述である。
南郷氏は、自分の著書・世界の中での自己正当化、
このお宅は、他人のブログ・世界の中での自己正当化、
普通に考える人なら、このようには自己主張しないだろう。
そう考えるなら、このお宅は普通の考え方をしないお宅なのだろう…
また、この違いを無視してお宅の正当性を主張している姿…
他人のブログ内での他人への配慮欠如している姿を
お宅の言葉で書くなら以下です。
↓
「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる「臨済義玄お宅」には、
『「他人への礼節を知る』余裕がありませんから。」と言えよう。
確か…このお宅は自分の事を「若者」と書いていた。
それを「加齢とともに加速」とは、真実判明⇒「このお宅=老人だ」!
このお宅は、南郷氏を熟知している老人だったのだろう…
このお宅は、このブログ記事「奇形とは?」を読んでないようである。
それを知らずに>「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう<(哀れお宅…涙…)
問題は「誤植」でなく、何度も「誤植」をし続けるお宅の姿である。
誰かが言っていた~
「間違いとは、他人から間違いを指摘されても修正しようとしない姿」と…
この「臨済義玄」お宅、他人からの間違いを指摘されても
自己正当化で、その間違いをもみ消しで満足している、ようである。
最後の「臨済義玄」お宅以下の言葉は意味深であろう。
>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<
>他人が「奇形」とい文字に不快なのは、その他人が己を「奇形」だと思っているから…と考えている
>そして、アヒルの中の白鳥は奇形でも美しい。しかし、自由びとの「奇形」単なる変わっている。
>きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。
↑~
このコメントは…どうなのでしょうかね?
私は、他人から「変わっている」と言われた事はあるが…
それでも、私は私を変わっているとは思っていない。
もっとも…「この人とはここが違う」とか「ここは同じ」とか思う事はあるが…
「変わる」⇔「変わっていない」とは、
共通点を比較するなら「変わってない・同じ」、
異同点を比較するなら「変わっている・違う」…
それだけの事です。
私は「奇形」のニ字を初めて目についた時、
他人を「奇形」と見るなら、それは、その者の観点の問題だろうと考え、記事「奇形とは?」を書いた。
でも、それが「変換ミス」と知らされ、「奇形」の捉え方の勘違いと気付いた。
また、パソコン・スマホの「変換ミス」を、再度確認する事なく送信したなら二重のミス…
この二重のミスを「誤植」という言葉で表現している姿にお宅の人間性を観た。
また、その後も「誤植」を知っていて訂正しない姿に他人への配慮欠如の人格の問題点を観た。
このような人間性においての人格の問題点を観て書くなら、
以下は、誰に当てはまる言葉であろう?
「>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<
ブログへの乱入者、「臨済義玄」お宅?
それともブログの書き手「自由びと」?
以下が、そのコメントである。
・コメントを書いた人 (火) 9:20
臨済義玄
・コメント
あらあら、またまた「奇形」のままで送信してしまいましたか、それは失礼いたしました。私のそそっかしさも加齢とともに加速しているのかも知れませんね。
しかし、自由びとさんが私のコメントを読んでの感想が「そこ」なのも意表をつかれましたな。自由びとさんもご記憶にあるかと思うんですが、南郷さんの処女作には次のように書かれています。
「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)
ですので、自由びとさんが反応しているところに「えっ?そこなの?」という驚きを隠せませんけども。
しかし、考えてみたなら致し方ないのかも知れません。「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる者には余裕がありませんから。
私は南郷さんが批判していた武道の神仏への志向性は決して批判や非難がされることではなく、マズローの欲求5段階説でいったら最高段階の自己実現や自己超越を指していると思うので、日本の武道が社会正義という高き倫理性を備えていた証だと考えてますね。
もっとも53歳のときに執筆した「武道講義」では『恩讐の彼方に』の描写を入れていますから、36歳のときの宗教批判とは少し考えが変わっていたのかも知れませんけどね。
心理学のテストで絵の中のどこに反応するかで、その個人の性格を指摘する!みたいなのがあるでしょう?自由びとさんが私のコメントの「奇形」という誤植が気になって仕方ないのは、それが自由びとさんの「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう。
自由びとさんは同じ玄和会の会員の中でも相当に変わった個性をもった人のようだ。それは今までに色々なところで文字表現をしてきたものを読んでも理解できます。
きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。
ですが、確かに相手が嫌がることを無理矢理やるのは良くありません。私も肉体的な欠陥を突かれるのは辛いものがありますし。次回は誤植のないように注意したいと思いますが、何しろ人間がやってることですからミスは付き物だという大らかな気持ちでいて欲しいと思うんです。
例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)
「臨済義玄」お宅は、彼の度重なる他人に対する不快行為を…
初めは、「誤植」と言い訳し…それを再度指摘されると…
今度は以下です。
>あらあら、またまた…加齢とともに加速しているのかも知れませんね。
>「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)
↑
全く…論理的に物事を見て取れないお宅…である。
南郷氏の上記の記述は、南郷氏の著書の中でのモノ。
それに対して、
このお宅の不快記述は、他人のブログ内でのコメント記述である。
南郷氏は、自分の著書・世界の中での自己正当化、
このお宅は、他人のブログ・世界の中での自己正当化、
普通に考える人なら、このようには自己主張しないだろう。
そう考えるなら、このお宅は普通の考え方をしないお宅なのだろう…
また、この違いを無視してお宅の正当性を主張している姿…
他人のブログ内での他人への配慮欠如している姿を
お宅の言葉で書くなら以下です。
↓
「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる「臨済義玄お宅」には、
『「他人への礼節を知る』余裕がありませんから。」と言えよう。
確か…このお宅は自分の事を「若者」と書いていた。
それを「加齢とともに加速」とは、真実判明⇒「このお宅=老人だ」!
このお宅は、南郷氏を熟知している老人だったのだろう…
このお宅は、このブログ記事「奇形とは?」を読んでないようである。
それを知らずに>「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう<(哀れお宅…涙…)
問題は「誤植」でなく、何度も「誤植」をし続けるお宅の姿である。
誰かが言っていた~
「間違いとは、他人から間違いを指摘されても修正しようとしない姿」と…
この「臨済義玄」お宅、他人からの間違いを指摘されても
自己正当化で、その間違いをもみ消しで満足している、ようである。
最後の「臨済義玄」お宅以下の言葉は意味深であろう。
>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<
>他人が「奇形」とい文字に不快なのは、その他人が己を「奇形」だと思っているから…と考えている
>そして、アヒルの中の白鳥は奇形でも美しい。しかし、自由びとの「奇形」単なる変わっている。
>きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。
↑~
このコメントは…どうなのでしょうかね?
私は、他人から「変わっている」と言われた事はあるが…
それでも、私は私を変わっているとは思っていない。
もっとも…「この人とはここが違う」とか「ここは同じ」とか思う事はあるが…
「変わる」⇔「変わっていない」とは、
共通点を比較するなら「変わってない・同じ」、
異同点を比較するなら「変わっている・違う」…
それだけの事です。
私は「奇形」のニ字を初めて目についた時、
他人を「奇形」と見るなら、それは、その者の観点の問題だろうと考え、記事「奇形とは?」を書いた。
でも、それが「変換ミス」と知らされ、「奇形」の捉え方の勘違いと気付いた。
また、パソコン・スマホの「変換ミス」を、再度確認する事なく送信したなら二重のミス…
この二重のミスを「誤植」という言葉で表現している姿にお宅の人間性を観た。
また、その後も「誤植」を知っていて訂正しない姿に他人への配慮欠如の人格の問題点を観た。
このような人間性においての人格の問題点を観て書くなら、
以下は、誰に当てはまる言葉であろう?
「>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<
ブログへの乱入者、「臨済義玄」お宅?
それともブログの書き手「自由びと」?
以下が、そのコメントである。
・コメントを書いた人 (火) 9:20
臨済義玄
・コメント
あらあら、またまた「奇形」のままで送信してしまいましたか、それは失礼いたしました。私のそそっかしさも加齢とともに加速しているのかも知れませんね。
しかし、自由びとさんが私のコメントを読んでの感想が「そこ」なのも意表をつかれましたな。自由びとさんもご記憶にあるかと思うんですが、南郷さんの処女作には次のように書かれています。
「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)
ですので、自由びとさんが反応しているところに「えっ?そこなの?」という驚きを隠せませんけども。
しかし、考えてみたなら致し方ないのかも知れません。「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる者には余裕がありませんから。
私は南郷さんが批判していた武道の神仏への志向性は決して批判や非難がされることではなく、マズローの欲求5段階説でいったら最高段階の自己実現や自己超越を指していると思うので、日本の武道が社会正義という高き倫理性を備えていた証だと考えてますね。
もっとも53歳のときに執筆した「武道講義」では『恩讐の彼方に』の描写を入れていますから、36歳のときの宗教批判とは少し考えが変わっていたのかも知れませんけどね。
心理学のテストで絵の中のどこに反応するかで、その個人の性格を指摘する!みたいなのがあるでしょう?自由びとさんが私のコメントの「奇形」という誤植が気になって仕方ないのは、それが自由びとさんの「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう。
自由びとさんは同じ玄和会の会員の中でも相当に変わった個性をもった人のようだ。それは今までに色々なところで文字表現をしてきたものを読んでも理解できます。
きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。
ですが、確かに相手が嫌がることを無理矢理やるのは良くありません。私も肉体的な欠陥を突かれるのは辛いものがありますし。次回は誤植のないように注意したいと思いますが、何しろ人間がやってることですからミスは付き物だという大らかな気持ちでいて欲しいと思うんです。
例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)
私の記述をシッカリ読んでないみたいですね。
高校を卒業して5年が過ぎたと書いたでしょう。
時間は流れているのですよ。時間が流れて年齢を重ねたからといって、どこまで重ねたから別問題。
一気に「唯物=物質だけの世界」に飛翔するお宅らしい勘違いです。