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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

なぜ基本なのか?

2018-08-06 18:02:38 | 弁証法


弁証法の三法則が基本である理由とは何か?

弁証法は知識ではなく論理である(そうだ)

知識と論理の違いは?

空手の型を知っている、が知識なら、
空手の型を演じられる、が論理であり、

空手の型が演じられる、が知識なら、
空手の型で敵を倒せる、が論理であろう…


弁証法が論理なら、論理を知らずに弁証法の修得はない。
ならば、弁証法の学びの初めは、論理を知る事であろう。

知識としての「量質転化・質量転化」の法則で対象と関わる事で、
論理としての「量質転化・質量転化」化を実感・体得する。
同じく「対立物の相互浸透」、「否定の否定」を……である。


「量質転化・質量転化」は、対象そのモノの弁証法・変化であり、
「対立物の相互浸透」は、対象と周囲・環境を含んだモノであり、
「否定の否定」は、変化の始まりから終了までの過程を含んだモノであろう。
これら一つ一つは、少々質の異なっている「論理」であろう。

弁証法の習得には、論理の論理的習得が不可欠であろう。
だから、「論理」を論理的に実感・体得するのが基本なのだろう。









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8 コメント

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読んで心底思うんですが… (黄帝内経の観趾法)
2018-08-07 15:00:22
このところ頻繁に記事をアップされてますが、この本文を読んで、自由びとさんは空手にも弁証法にも最早、興味関心はないのだと思いました。

換言するならば、もう「ご卒業」されているのでしょうね。

空手も弁証法も興味関心はないし、必要ともしていない。それが今の自由びとさんの偽らざる認識だと判断いたします。

自由びとさんは、もっと自分が心底から関心のある事柄について書いたほうがいいのではありませんか?それが自由びとさんの幸せに繋がるのでは?

自由びとさんの挙げた「知識と論理」というキーワードに絡んで説くならば、弁証法は「論理一般」ではないでしょうね。

自由びとさんが具体的なイメージを持ちやすく?説明すると、滝村隆一という国家論研究者がいたのですが、「二重権力論」というのを執筆しています。

普通、二重権力といったならロシア革命が二月革命から十月革命へという過程を辿った権力移行あたりを指すんですが、滝村はそこにインドネシアの9.30事件を二重権力の別の事例としてもってきて権力論を膨らませたわけです。

つまりはロシア革命の知識とインドネシアのクーデターの知識を繋げたわけで、知識と知識を繋げるところは論理一般と同じわけですが、その繋げる知識同士を対立関係として理解しているところが「弁証法的論理」とでもいったところなんでしょう。
返信する
「論理」って? (自由びと)
2018-08-08 09:11:43
昔々~椿さんが書いていた。
「ネットでは書かれた言葉が全て!」と…

これが現実なら、誰が書いたかが問題でしょうが…
ここでは、コメントを誰が書いたかは不問にして…
以下に、私のコメントを書く事にします。

弁証法も武道空手も卒業できたなら嬉しいのですが…
残念な事に、一生武道空手からも弁証法からも、卒業は無理なのでしょうね。

人が、人生から卒業するのは、死んだ時です。
私が弁証法から、武道空手から…の卒業も、
死んだ瞬間でしょうね。

まずは一言!
お宅の自分勝手な「判断」を、
自信タップリに確信して書き寄越す事のは如何なモノでしとしょうかね…
まあ~それはそれとして…続けましょう。


>自由びとさんの挙げた「知識と論理」というキーワードに絡んで説くならば、弁証法は「論理一般」ではないでしょうね。

その「論理一般」って何ですか?
もっと分かり易く解説して下さい!
そもそも「論理」って何なのですか?


>つまりはロシア革命の知識とインドネシアのクーデターの知識を繋げたわけで、知識と知識を繋げるところは論理一般と同じわけですが、その繋げる知識同士を対立関係として理解しているところが「弁証法的論理」とでもいったところなんでしょう。

「知識同士を対立関係…理解…が『弁証法論理』」なのですか?
「理解」すれば論理なのしょうか?
技を理解すれば、その技で闘えますか?




それを「論理」と理解できたとしても、
それだけでは、
それは「論理」足り得ない!
と私は思っていますが…




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Unknown (黄帝内経の観趾法)
2018-08-08 10:09:23
簡単に一言で述べるなら、自由びとさんは勉強してないんですよね。

玄和会的に言うなら「頭が悪い」ということなんです。

私に質問してきた内容からして、そうなんです。質問してくる資格がありません。

それは、自由びとさんを指導している南郷・玄和の中身が偽物だからなんです。何十年も学びつづけて還暦を過ぎた頭の成果が自由びとさんのコメントである現実が、南郷・玄和の偽物具合の証明だからなのです。

何十年もの研鑽の帰結が自由びとさんのコメントに現れたような思考や、南郷さんの近著である『哲学・論理学原論』になってしまう理由を究明してみることも認識論的には意味あるのかも知れませんが、まあ、一般社会的には無益でしょうね(笑)
返信する
論理能力レベル相違 (自由びと)
2018-08-08 11:22:28
ほ!ほ~!

お宅の書いている「勉強」って何?
「弁証法の勉強」と確信しつつも、
「弁証法の勉強でない」モノもあり得るのに…

「アタマが悪い」のはお宅です!

私の質問に回答不能だから
>質問してくる資格がありません。<
と逃げているお宅の姿が、その証拠ですよ!


私は、弁証法バカ、認識論バカ、論理学バカ、学問追及バカ…
そう~私は「南郷継正バカ」なのかもしれませんね…


でも…そんな私自身を自覚している分、
私は、お宅より賢いバカと言い得ますよ!


コメント・記述・書物・著書…は、言葉で書かれています。
それらの言葉を論理的に理解・把握するには、
己にその言葉・文章・記述内容レベルの論理的理解能力が必要です。


子供の文章は、その文字さえ読み取れれば、
大人ならそれなりに理解可能です。
それは子供の論理レベルが幼いからです。

それでも、低学年の児童・子供の個性的な文字の読み取りには、
それなりの文字読み取りの為の論理的な能力が必要なのです。
それは、多くの子供・児童達の個性的な文字と関わる事での
それら個性的な文字姿形の正しい文字として読み取りの論理です。


お宅の論理能力で、著書『哲学・論理学原論』の論理的理解は不可能でしょうね。
それは、子供が大人の文章を読んで、正しく大人レベル理解が不能なのと同様です。


まあ~言論の自由が保障されている現代ネット社会ですから…
何を言っても、書いても問題はありませんよ。

当然に、お宅が私に「質問してくる資格がありません」と書く自由はあります。
でも、それを言うなら「お宅がここに書く込む資格がありません」が先です。

これは事実です。
何故なら、ハンドルネームは異なっていても、
お宅の実体に対してのコメント拒否・削除を実行した過去があるから…


そんな現実が理解不能で、自分独り観念界で暮らしているから、
『哲学・論理学原論』の論理的な理解が不能なのですよ!





返信する
Unknown (黄帝内経の観趾法)
2018-08-08 13:40:06
私に対する再度のコメント、一応は読ませていただいたのですが、おそらくは何か言いたいことがあって、それを言語表現されてるのだとは思うんですが、ね。

ですが、正直、私には何を述べてるのか理解できないわけなんです、残念ながら。何か言うべき何かを自由びとさんが持ち合わせているのかさえ判断できませんねぇ。

自由びとさんが「論理とは何か」なんてことを持ち出してきたのには、それが自由びとさんの関心の的なんでしょうね。そして、それは自由びとさんに限らず南郷・玄和さんの団体を上げての関心事なんでしょう。

というのも、さっき『哲学・論理学原論』を取り上げてパラパラとページを繰ってみたところ「論理とは何か」なんてことをさも重大事のように書いてあるのが出てきましてね。

まあ、該当ページを指すならば9ページの「端的に論理とは、自らが究明したい専門的対象の…」あたりの内容だとか、17ページの「『精神現象学 序論』は、…つまり「論理とは何か」…」あたりだとかなんですが、このあたりの南郷さんの見解と相違する私の見解は、既に最初のコメントで述べているわけです。

まずは題材として想起しているのが南郷さんの場合はヘーゲルの『精神現象学』だとか、おそらくは『大論理学』なんでしょうが、私の場合は滝村の「二重権力論」を上げたわけですよね。

そこで、滝村の「二重権力論」で思考のスタートになるのは「ロシア革命において二重権力と呼ばれる事態があった」ということなんですよ。それを踏まえた上で、二重権力と呼ばれ得るものでありながらもロシア革命とは違った自体を探しているわけなんです。だから、度外れに共通性を主張して「人間の行為」だとかまで抽象化されることなく権力論だとか政治学だとかの範囲を逸脱せずにいますよね。

言わば共通性と差異性とを同時に見ていくわけなんでしょうが、南郷さんの場合は共通性だけを探していくのだとハッキリ言葉にしていますから、ヘーゲルの大論理学のように全ての細々とした内容が「存在」という共通性に収斂していくような様(像?)を頭に描いているんでしょう。

だから、南郷さんが「論理とは?」と考えたときに頭にイメージするのは、滝村のように違った事例をあげることで概念を普遍化していこうとすることではなく、ひたすら共通性を求めて進んでいくことなんでしょう。

ですが、私が考える「論理」とは知識と知識との間につけられた筋道で、例えば「太陽の回りを地球が回っている」ということと「体の中を血液が循環している」といったことの間を因果関係で結んで「公転と自転が体温を保持している」なんて語るのが論理なんでしょうね。

自由びとさんの論理ならば、私は玄和の会員だから、数ばかり増えて武道を想わない協会の人間とは敵対関係にあって他流試合の対象だ、となるわけなんでしょう。
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無駄なのに無駄ではない事 (自由びと)
2018-08-08 15:42:25
>ですが、正直、私には何を述べてるのか理解できないわけなんです、残念ながら。
>何か言うべき何かを自由びとさんが持ち合わせているのかさえ判断できませんね

上記の記述に、お宅の私に対する認識がとても素直に表れているようですね。

私の記述に対するお宅の認識が上記のような、
「…理解できない」で「…さえ判断できません」ならば、
私が、これ以上書き続けても無駄でしょうから、ここで書き止めにします。

もっとも~無駄を無駄と認識・自覚しつつ、
それでも…書き続ける事は無駄でないのですが…






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Unknown (黄帝内経の観趾法)
2018-08-08 16:29:13
自由びとさんが止めるのならば私もこれで止めることにしましょう。

私個人としては南郷さんが雑誌に「武道講義」を執筆していたご年齢よりも、まだまだ若いんですけれど、若かりし頃に読んだそうした文章が如何なるものだったのかを理解できていくのは自分の中でのケジメとなっていますし、ある種の喜びをも伴っています。

ですから、南郷さんの「論理とは?」というのが「必然的に存在と思椎に収斂するもの」で「唯物論と観念論という世界観の問題に辿り着くもの」だという志向性に貫かれていることが理解でき、いわば南郷さん個人のバイアス的な認識だったのだと見抜けるようになっているのは自分自身の発展・成長なんですね。

ですが、さまざまな専門科学を調べていくと、それぞれの専門分野の論理性というのは「存在と思椎」という所に収斂していく方向性は持っていませんね。

そこに、もっともらしく他者を欺くソフィストのような欺慢性があります。

そんなソフィストを師と選んだばかりに同級生が教授となるなかで何十年も助教の地位に甘んじさせられているSさんが不憫で不憫で…
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結局点 (自由びと)
2018-08-08 16:55:55

まあ…結局は~
分かる者には分かる。
分からない者には分からない。


分からないのに、分かったつもりの者が、最悪ですね!
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