始めよう!「Change of the place, Change of the brain.」の話(一)
先ずは「自分の自分化・自分の他人化」の話から、
以下は記事 <「人の振り見て我が振り直せ」の話>のコメント欄での記述であるが…
今回は、新たな、記事・認識で、ここに書いてみた。
さて~レストランで食事の際中~
隣の人が「クチャクチャ」と音を立てて食べていたとしましょう。
A―音を立ていて五月蠅い!
B-美味しそうに食べているな…
C-ここはレストランみんな静かに食べているのに…音を立てるのはマナー欠如。
D-美味しそうでいいけど…ここは居酒屋ではないので…私は音を立てずに味わおう~
諺の「人の振り見て我が振り直せ」で一つ気付けた事があります。
上記の「人の振り」とは、特定の、「ひとりの人の振りではなく」、
不特定多数の「人々の総体としての人の振り」という事に~
さて上記一番上の「A氏、B氏、 C氏、 D氏」は、
それぞれ隣人の「クチャクチャの音…」行為に二重化しています。
これは、その時の「ひとりの隣人の行為」です。
A氏は、「うるさい」という個人的な自己の感情・不快・悪意的な二重化。
B氏は、「美味しそう」という個人的な自己の感情・快・好意的な二重化。
C氏は、全体的な静けさを考慮しての「マナー欠如」・理性的な二重化。
D氏は、「美味しそう」好感・感情・人情and「居酒屋ではない」場所違い理性的判断的二重化。
A氏は、「うるさい」反感・不快…的な心情。
B氏は、「美味しそう」共感・好意…的な心情。
C氏は、「マナー欠如」判断・理性的な不快感。
D氏は、「美味しそう」快的な心情でも「ここはレストラン」理性的な判断。
>Unknown (ゐぬ)
2025-03-24 12:46:51
>私の個人的な感想は、この記事の自由びと氏の説明も下手というか、しっかり考えて書いていないので語彙が表面的に並べられているだけという感じがします。
↑
~そう今思うと…確かに、上記の通りなのかも…
この時の私は、その時に思い浮かべた事を書き綴ったのであり…
後から追加的に、その思いの更なる言語化を!…と思った気がするが~
>かといって私(ゐぬ)の説明が上手いわけでもありませんから悪しからずではありますが。例えるならば料理を食べて上手いかマズいかは判断できるが、自分で美味しい料理は作れない、みたいな感じが私かも知れません。
>「人の振り見て我が振り直せ」というのは改めて述べるまでもなく「諺、ことわざ」です。その「人」というのは「人様」の人、つまりは自分以外の他人のことですから「自分を含めている」という意味で「不特定多数の人間の総体」というのは違います。
↑
一読して「この通りとも思えるが…」
それでも…敢えて反論・上記の記述をより正確に書くなら
人の振りと我が振り比べて、
どちらがより「社会的or個人的」・「合理的or好み快感的」な判断・決定を下して「我が振り直すor直さない」なのだろう。
客観的な人様の振りと主観的な自分の振りの比較・検討とするなら、
その時には「自分含めた・自分が選択した多数の中人or数人and自分…」
そもそも…
人の振りとは、1人の人である必要もなく、
大勢の人たちの共通性に基づく「模範・理想的な人の振り」も、あり得るだろう。
>そして、ここでいう「人の振り」というのは「他人の振る舞い全体」だとか「他人の振る舞い一般」ではなく「自分が直すべきだと感じる不快な振る舞い」という特殊な限定された意味を持っています。
↑
そうなのだろう?
大勢の人々が一斉にクチャクチャ音で食べていたなら…その全てに不快感を感じたなら…
その時には…「不快…特殊な限定」なのだろうか?
この時は、その中でも自分の好みにあう「クチャクチャ音」をマネして、
「人の振り見て、我が振り真似る」だろう…
全体がハイ・テンションの中で、自分独りだけがロー・テンションなのは、非社会的?!
と言うか…そのハイ全体の中で、その全体的ハイを楽しめないなら、その場にいる意味がない…
それは、ただの傍観者・観察者であり、当事者にはなり得ない・楽しめない…非常に損をしている状態と言えよう。
バカ者達の中では、バカ者・その者になり切って楽しもう♪♪♪
バカになり切れば楽しめる時に、バカになれない者はバカ者だろう。
と言う事は…他人の冗談を共に楽しない私は、バカ者なのだろう…
い~や!分かってはいたが…また私のバカが一つ増え♪♪♪
確かに、昔から当人は、全く気付いていないが、
周囲からは「バカ真面目な奴」と思われていたようだよ!!!
>そのような「自分が直すべきだと感じる他人の不快な振る舞い」に接したときに「自分自身も同じような振る舞いをしている可能性」を察して自己を修正しようとしていく「心構え」を説いているのが上記の諺だ、と思います。
↑
それは、上記のように一面的ですね…
諺の表と裏を思考するのが弁証法的なのだろう~
>ですから、相手の振る舞いを見て自分が主観的に考えたことを「二重化」とは呼ばないで、「マナー違反だ」といった自分から相手への評価は「一重」であり、「《美味しい》だろうな」とか「《周囲の不快感なんか気にならない》のだろうな」と二重化した《相手の思考》から「自分の思考」に帰ってくるのが観念的二重化だと思いますね。
↑~
そう~ここ!ここが、ずっと気になっていた!
本当にそうなのだろうか?
確かに「相手のクチャクチャ音=うるさい」は、感情的な一重であり、二重化とは言えないだろう。
でも…>「マナー違反だ」といった自分から相手への評価は「一重」であり<…には異論がある!
これは、相手の「クチャクチャ音・行為」を自己の(食事は静かに食べるべき)マナー観で判断した時の「マナー違反」であり、これは他人の言動を自分価値判断でしている…
そのような、他人事なのに、自分の事として、自分の価値観で二重化した結果…だから「他人の自分化」
他人事に二重化するには、その他人の言動・行為の意味・価値・意義…をその他人の価値観・思考観・感情観…で判断できるなら、それは「他人の他人化」であろう…
A氏は、「うるさい」反感・不快…的な心情。
これは、相手の言動を、直接的に直接的な自己の不快感(一重)
B氏は、「美味しそう」共感・好意…的な心情。
これは、相手の姿形・表情…に直接的な自己の快感」なので(一重)
C氏は、「マナー欠如」判断・理性的な不快感。
これは、相手の、この場の言動を自己の価値観で理性的な判断(他人の自分化)
D氏は、「美味しそう」快的な心情でも「ここはレストラン」理性的な判断(??)。
これは?、「自分の他人化(二重化)」の例として書いていたが…
自分の「美味しそう」も自分の感情・判断であり、「レストラン静かに…」も理性的な判断も自分の理性…」
これは、自分の中での「感情・価値観」の二重化…
成る程…ここは、ゐぬ氏の指摘の通りに~
「クチャクチャ音で食べているのに…当人は周囲の反応が「気にならないのかな?」
と言う見えている「相手の行為」事実に、対しての見えない「相手の認識」への切込みが…
さすれば…「周囲が気にならない程」に<楽しそう…>or<食べる事に夢中>…と言うような推理・推測が可能~
その推測・推理を元に、更なる「クチャクチャ人物の事実・姿形」が浮き彫りになろうか…
「認識的実在」である人間は、対象に対する「問い掛け的な認識」によって…
それがあってこそ!その対象への更なる広み・深みへと行けるのだろう…
バカはバカを認めて、バカになり切って、問いかける事が必要なのだろう。
私が、いつ・どこでも、素直な私に成り切れたなら、
その時は即!大バカ者に化け切れるだろうね♪♪♪
そうそう有名な言葉「馬鹿と天才は紙一重」だよね…
さてさて~
今回の私は、天才・馬鹿・莫迦それともおおバカ?!
今がバカなら…後は、紙一重で 俺は天才だ!
ご自愛ください。
セルフヘルプです。