論理(像)と論理化(像)の話~
上記の「論理」とは何か?
それは、ある対象の言語(表現)!
では、その対象とは何か?
それは、その人の「論理」という認識像!
例えば、以下の具体的な問答~
[初めの問い]―(眼前にあるモノを指して)
「これは何か?」
Aさんは「それはモノ!」
Bさんは「それは生物!」
Cさんは「それは日本犬!」
三者三様に言語表現した~
[次の問い]-それは、「どうしている?」
Aさんは「そこにいる!」
Bさんは「立っている!」
Cさんは「吠えている!」
これも三者三様な言語表現~
この場合の三者の答えは、
[初めの問い]の答えは、その具体的・個別的なのモノに対する一般的な表現~
[次の問い]の答えは、そのモノの状態に対する一般的な表現~
三者を纏めるなら~
そのは、モノで、生物で、日本犬~
それは、今そこにいて、立って、吠えている~
これらは、眼前のモノ(具体的なモノ)に対する(色々な一般的・共通な)「言語表現」である。
[初めの問い]の答え]は、モノとしての存在の一般的な言語表現。
[次の問い]の答えは、そのモノの状態(変化・運動)の一般的な「言語表現」。
一般化~
それは何?
それは物!
どうしてる?
そこにいる!
具体的なモノに対する一般的な言語表現が「その具体的な対象の論理な言語表現」~
また、モノはモノでも、必ず変化・運動する…
だから、「あるモノ」には~
その「あるモノ」の名称に対する論理的(一般的な)表現が、
その「モノの変化・運動」に対する論理的(一般的な)表現が~
ここで…問題!
上記の三者の解答は、全て異なっているのは何故?
同じ「あるモノのコト」の問いなのに何故?
それは、彼ら一人一人の論理化の方法・認識が違うから!
そこに「ある具体的なモノ」を一般的な言語表現するには、
その人の中に数ある言語から、「その人自身がピッタリあう言葉を選択する」必要がある。
「何?」と聞かれたから、何でもありの「モノ!」。
これって「何犬?」聞かれれば「日本犬or柴犬!」。
「モノのどうしてる?」だから「生きている」。
「これって噛みつく?」なら「吠えているから噛む!」。
論理の二重性~
論理には、
一つ、論理・(言語表現化の結果)、
一つ、論理化・(対象の言語化の過程)
モノには、モノ認識像、生物には生物認識像、日本犬には日本犬認識像…がある。
コトには、いる、立っている、吠えているそれぞれの認識像が…
でも、しかし、上記の「ある具体的なモノ・コト」の論理表現への論理化像は、全て同じ筈~
その個体・個人的な人間の「具体的な事実の論理化像・論理的な表現表現への過程像・認識は「全て一つの筈」。
「具体的なモノコト」の「一般的な言語表現化」の方法は、その人なり…という事。
ここでの問題は、「論理化の像・認識とは?」
それは、「どのような像?」・「どのように表現する?」、この二つ~
それを「モノ論理化した認識」、
「そのモノ」を「生物と論理化した認識」、
「その生物」を「日本犬と論理化した認識」、
論理という認識像と論理化という認識像は、異なっている!
論理は、静止的な知識的な認識が~
論理化には、変化・運動的な活動的な認識が~
以上~
表題「論理(像)と論理化(像)の話~」として分かって頂けただろうか?
トランプの「神経衰弱」なら、
先ずは、カードの色・数・模様・キヅ…等の「姿形のモノ静止的な記憶・認識像」
次に、時々に増加していく「それぞれのカード位置」の情報増加・変化の記憶・認識像。
一つ一つのカードの位置情報・記憶は、不変でも…
その情報量が、少量から増加・増大への変化していく…その一つ一つの全体的な位置記憶・認識法。
そう~「論理化」像とは、個別の像の記憶・言語表現化ではなく、
外界から増加していく情報量に伴に、その新たな個々の情報と、
その時までの全体・認識の関係性の整理整頓であり、
その結果・認識像を どのように言語表現するか…という言語表現化・認識像…
これを確か?tadaさんは、「論理化」を構造化と言っていた…
大きな全体認識の部分部分に組み込めるか?
それとも…小さな全体・認識に継ぎ足していくか?
大きな器に盛るか?
小さな器に入れて、組み立てて、いくか?
大きな夢なら何でもあり…
小さな夢なら、たくさん集めて、強力接着剤で引っ付けよう!
上記の「論理」とは何か?
それは、ある対象の言語(表現)!
では、その対象とは何か?
それは、その人の「論理」という認識像!
例えば、以下の具体的な問答~
[初めの問い]―(眼前にあるモノを指して)
「これは何か?」
Aさんは「それはモノ!」
Bさんは「それは生物!」
Cさんは「それは日本犬!」
三者三様に言語表現した~
[次の問い]-それは、「どうしている?」
Aさんは「そこにいる!」
Bさんは「立っている!」
Cさんは「吠えている!」
これも三者三様な言語表現~
この場合の三者の答えは、
[初めの問い]の答えは、その具体的・個別的なのモノに対する一般的な表現~
[次の問い]の答えは、そのモノの状態に対する一般的な表現~
三者を纏めるなら~
そのは、モノで、生物で、日本犬~
それは、今そこにいて、立って、吠えている~
これらは、眼前のモノ(具体的なモノ)に対する(色々な一般的・共通な)「言語表現」である。
[初めの問い]の答え]は、モノとしての存在の一般的な言語表現。
[次の問い]の答えは、そのモノの状態(変化・運動)の一般的な「言語表現」。
一般化~
それは何?
それは物!
どうしてる?
そこにいる!
具体的なモノに対する一般的な言語表現が「その具体的な対象の論理な言語表現」~
また、モノはモノでも、必ず変化・運動する…
だから、「あるモノ」には~
その「あるモノ」の名称に対する論理的(一般的な)表現が、
その「モノの変化・運動」に対する論理的(一般的な)表現が~
ここで…問題!
上記の三者の解答は、全て異なっているのは何故?
同じ「あるモノのコト」の問いなのに何故?
それは、彼ら一人一人の論理化の方法・認識が違うから!
そこに「ある具体的なモノ」を一般的な言語表現するには、
その人の中に数ある言語から、「その人自身がピッタリあう言葉を選択する」必要がある。
「何?」と聞かれたから、何でもありの「モノ!」。
これって「何犬?」聞かれれば「日本犬or柴犬!」。
「モノのどうしてる?」だから「生きている」。
「これって噛みつく?」なら「吠えているから噛む!」。
論理の二重性~
論理には、
一つ、論理・(言語表現化の結果)、
一つ、論理化・(対象の言語化の過程)
モノには、モノ認識像、生物には生物認識像、日本犬には日本犬認識像…がある。
コトには、いる、立っている、吠えているそれぞれの認識像が…
でも、しかし、上記の「ある具体的なモノ・コト」の論理表現への論理化像は、全て同じ筈~
その個体・個人的な人間の「具体的な事実の論理化像・論理的な表現表現への過程像・認識は「全て一つの筈」。
「具体的なモノコト」の「一般的な言語表現化」の方法は、その人なり…という事。
ここでの問題は、「論理化の像・認識とは?」
それは、「どのような像?」・「どのように表現する?」、この二つ~
それを「モノ論理化した認識」、
「そのモノ」を「生物と論理化した認識」、
「その生物」を「日本犬と論理化した認識」、
論理という認識像と論理化という認識像は、異なっている!
論理は、静止的な知識的な認識が~
論理化には、変化・運動的な活動的な認識が~
以上~
表題「論理(像)と論理化(像)の話~」として分かって頂けただろうか?
トランプの「神経衰弱」なら、
先ずは、カードの色・数・模様・キヅ…等の「姿形のモノ静止的な記憶・認識像」
次に、時々に増加していく「それぞれのカード位置」の情報増加・変化の記憶・認識像。
一つ一つのカードの位置情報・記憶は、不変でも…
その情報量が、少量から増加・増大への変化していく…その一つ一つの全体的な位置記憶・認識法。
そう~「論理化」像とは、個別の像の記憶・言語表現化ではなく、
外界から増加していく情報量に伴に、その新たな個々の情報と、
その時までの全体・認識の関係性の整理整頓であり、
その結果・認識像を どのように言語表現するか…という言語表現化・認識像…
これを確か?tadaさんは、「論理化」を構造化と言っていた…
大きな全体認識の部分部分に組み込めるか?
それとも…小さな全体・認識に継ぎ足していくか?
大きな器に盛るか?
小さな器に入れて、組み立てて、いくか?
大きな夢なら何でもあり…
小さな夢なら、たくさん集めて、強力接着剤で引っ付けよう!