続・フラッシュバックの話
現実の物事には両面ある。というより…物事は一つ!
でも…それを人間が自己の利害に即して両面的に認識しようとしている。
「フラッシュバック」とは、
突然に想起された過去の生活の想い出のシーン。
そう~先日、テレビドラマ「相棒」を視ていて…
ふっと過去に、家内と二人で一緒に視ているシーンが想起された。
その瞬間の感情は「温かい・ホット」的であった。
が…しかし、
その時の現実の私は、「ホット」ではなく…「独り・孤独…」そんな感じ!(だったのだろう)
「だったのだろう」と言うのは、その感情がハッキリ感覚できる前に…
強烈な「寂しさ」を感覚したからであろうか…
「フラッシュバック」は過去の想い出シーンであり、それは認識・過去の事実・感情。
その過去の認識・事実・感情を想起した瞬間に、
私は今の現実的な私の状況を確認して、それらを比較してしまっていたのだろう…。
過去の「ホットな感覚」は、家内が横にいたから…
でも…現在の私の横には「家内はいない!」…
この違いに、私は「強烈な寂しさ」を感覚した…のだろう。
過去にも、息子も家内も不在で、独り「相棒」を視ていた事実もある。
しかし、その時には一度も二人不在に寂しさを感覚していない。
むしろ…独り自由気ままに自由にテレビを視られる事を喜んでいた…
トラウマ的なフラッシュバックでの感情は「過去モノ」…
それなのに…そんな過去のシーン亡霊に苦しんでしまうのが人間。
私は、過去の「ホットな事実」を今も求めて、
日々の現実を寂しく感じまっている人間。
この両者の共通性は、自分の「ココロ・感情」をみている事。
トラウマ的なモノは、自己の過去の恐怖の感情、
それは、避けたい・逃げたい感情なのに…その恐怖・感情に囚われている~
逃げたい=恐怖の感情。
避けたい=嫌な感情。
「逃げたい・避けたい」と思っている限り、
それに付随している感情の想起は当然…
私は、過去の「求めても得られない過去の感情」を求めている…
両者共に、自己のココロ・感情に囚われている。
そう~このような「自己のココロ・感情の奴隷になっいる」~
そんな自分の状態に、三週間位前に突然気付いた。
では…どのように気付いたのか?
それは、その時私が「独りで相棒を視ていた」事実に気付いて~
そして、過去には独りでも…全く寂しくなかった事実。
その両者の比較こから、以下のように推測した~
これが息子と二人で一緒に視ていたなら…
きっと私は「相棒ってママと三人で、よく視たよね…」と言って…
(自分心内・感情を息子に話して)…
二人に家内を懐かしく思って終了…
ならば…そこに「私の強烈な寂しさ」はなかっただろう事に気付いた。
自分の心・思い・感情は、自己の認識内の観念的な事実。
でも、それを言語化して他人に伝えてならば…それは客観的な言語化事実。
ここから…「肉眼と心眼」の相違にも発展していったが…
。
現実の物事には両面ある。というより…物事は一つ!
でも…それを人間が自己の利害に即して両面的に認識しようとしている。
「フラッシュバック」とは、
突然に想起された過去の生活の想い出のシーン。
そう~先日、テレビドラマ「相棒」を視ていて…
ふっと過去に、家内と二人で一緒に視ているシーンが想起された。
その瞬間の感情は「温かい・ホット」的であった。
が…しかし、
その時の現実の私は、「ホット」ではなく…「独り・孤独…」そんな感じ!(だったのだろう)
「だったのだろう」と言うのは、その感情がハッキリ感覚できる前に…
強烈な「寂しさ」を感覚したからであろうか…
「フラッシュバック」は過去の想い出シーンであり、それは認識・過去の事実・感情。
その過去の認識・事実・感情を想起した瞬間に、
私は今の現実的な私の状況を確認して、それらを比較してしまっていたのだろう…。
過去の「ホットな感覚」は、家内が横にいたから…
でも…現在の私の横には「家内はいない!」…
この違いに、私は「強烈な寂しさ」を感覚した…のだろう。
過去にも、息子も家内も不在で、独り「相棒」を視ていた事実もある。
しかし、その時には一度も二人不在に寂しさを感覚していない。
むしろ…独り自由気ままに自由にテレビを視られる事を喜んでいた…
トラウマ的なフラッシュバックでの感情は「過去モノ」…
それなのに…そんな過去のシーン亡霊に苦しんでしまうのが人間。
私は、過去の「ホットな事実」を今も求めて、
日々の現実を寂しく感じまっている人間。
この両者の共通性は、自分の「ココロ・感情」をみている事。
トラウマ的なモノは、自己の過去の恐怖の感情、
それは、避けたい・逃げたい感情なのに…その恐怖・感情に囚われている~
逃げたい=恐怖の感情。
避けたい=嫌な感情。
「逃げたい・避けたい」と思っている限り、
それに付随している感情の想起は当然…
私は、過去の「求めても得られない過去の感情」を求めている…
両者共に、自己のココロ・感情に囚われている。
そう~このような「自己のココロ・感情の奴隷になっいる」~
そんな自分の状態に、三週間位前に突然気付いた。
では…どのように気付いたのか?
それは、その時私が「独りで相棒を視ていた」事実に気付いて~
そして、過去には独りでも…全く寂しくなかった事実。
その両者の比較こから、以下のように推測した~
これが息子と二人で一緒に視ていたなら…
きっと私は「相棒ってママと三人で、よく視たよね…」と言って…
(自分心内・感情を息子に話して)…
二人に家内を懐かしく思って終了…
ならば…そこに「私の強烈な寂しさ」はなかっただろう事に気付いた。
自分の心・思い・感情は、自己の認識内の観念的な事実。
でも、それを言語化して他人に伝えてならば…それは客観的な言語化事実。
ここから…「肉眼と心眼」の相違にも発展していったが…
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