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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「自由と責任(義務)」の話

2024-08-07 11:59:46 | 「わたし事・学」

「自由と責任(義務)」の話


最近視たテレビドラマの中で~
「何故に人は人を殺してはいけないのか?」と問いがあった。
先日のお宅コメントでも同じような言説をみた!


そんな中で、思い出したのか「責任と義務」という言葉である。


そこで、改めてネット生成AI検索したのが以下。

~~~転写開始~~~

義務と責任は、どちらも社会生活において大切な概念で、権利と対義語の関係にあります。

義務とは、法律などの条文に「しなければならない」「してはならない」といった強い表現が用いられているもので、規定に従う必要があり、違反した際にはペナルティが科される可能性があります。法律上の概念としては、債券に対する債務というように、権利に対応するものとしてとらえられます。

責任とは、自己の行為の結果について、何らかの義務、不利益、制裁を負わされることを意味します。民法上の責任と債務(義務)はほぼ同義ですが、厳密には、債務が債権の目的である給付をしなければならない拘束を意味するのに対し、責任は、債務が履行されない場合に備えて、債務者の財産が引当て(担保)になっていることを意味します。

たとえば、お金を払ったのに商品を渡してもらえないときには、商品を受け取る権利があります。お金を受け取った人は、お金を払った人に商品を渡す義務があります。

~~~転写終了~~~


もともと~私の中には以下のような疑問モノです。

「人間は自由」なのに「人が人を殺してはいけない?」
自由な人間なのに、その自由の制限・禁止があるのはな何故?


誰が、人間の自由を禁止・制限しているの?
人間が、他人の自由を禁止・制限しているの?

確か…「モーゼの十戒」にも書かれていた?!
神が禁止・制限しているの
確かに、そんな過去の人類であろうが…



でも…上記の転写から~

人々・人間の自由を制限・禁止しているのは「法律」だと確信した。
これが「べき論」なら、法律に従うなら「人を殺すべきではない」。

>「義務と責任は、どちらも社会生活において大切な概念で、権利と対義語の関係にあります。」

この言葉から、今の私は確信した!
「基本的人権」を主張するなら、そこには、人間としての個人的「義務と責任」が発生する。

そこから「主体性を持って、主体的に生きる」の意味~


動物は、自由ではなく、その種の「本能由」である。
従って、その個体動物の行為・行動・動作の責任は、その全種族の責任。
しかし、認識的実在である者の行為・行動・動作の責任は、その者自身の責任。


さて~
「主体性」とは、本能に従う事無く、自分自身を主人公として生きれる性質。
「主体的に生きる」とは、その性質を意識して、その行動・動作…の全てが、自己責任だと認識して生きる態度。


「法律違反?!」
「人は人を殺してはいけない!?」


なのば…今、この瞬間の世界で同時進行している~
あの二つの戦争は、どうなのだうか?

「違法行為」と言われたも「合法」だと主張している国々~

結局は、「法律」も人間が、創った決まり事!
人間自身に法律順守の精神がないなら…それは「絵に描いた餅」!

いやいや「社会」が法律を創った!だと…

世界には、多くの国々がある。
また、その個々国々には、個々の社会がある
それらの「個々の社会が独立」的なら、どうなのだろう?


自国の国民どうしの殺し合いは禁止・制限。
でも…他国の国民を殺す事は問題なし!


または、戦争・異常な状態だから、非常時の「法律」がある…
そもそも…問題は、それらの「戦争し合う意味・理由」なのだろうか?


確か、法律には「正当防衛」があり、
自らの身体的危機から脱却・解決の為なら、他人を殺しても問題なし!ある。

今の自然・社会・精神…は、人類・人間・人々が、作り替えながら・創り上げてきたモノ。
それは、唯物論的・観念論的に、創り上げてきたモノ。


だ・か・ら・何?
何が書きたいの?


さてさて…この続きは、今後の私の思考・思惟の深化・発展を期待しよう!


「意識と切り替え」・「目的意識の切り替え」の話

2024-08-07 11:11:00 | 「わたし事・学」
「意識と切り替え」・「目的意識の切り替え」の話


以下のような昨日の事件から始める。

朝のゴミ出しの為に、台所の流しの「三角コーナー」のゴミを捨てようと、中のゴミ袋を取って市指定のゴミ袋に入れた。
次に「三角コーナー」に入れる為の新たなゴミ袋を探し取り出して、「三角コーナー」に入れようとしたら…
なんと!「三角コーナー」がない事に気付いた!周囲を探しても見つからない!
可笑しい!「今さっきまであった!何故にない?」息子にラインして尋ねたら「昨日、ゴミ袋の中にはなかった。!」

私の中の思いは、初めにあったと思い込んでいた「三角コーナー」本当はなく、ゴミ袋だけだった。
または、いつものように私が無自覚で「三角コーナー」をどこかに置いた・移動させた(でも周囲にない)。

ただ息子のラインの「ゴミ袋の中」から、私もゴミ袋の中をみたら「三角コーナー」発見。
それを取り出した瞬間、私は理解した!「何故に三角コーナーを私はゴミ袋に入れてしまったか?」

三角コーナーの中の袋のゴミが満杯で、袋の上を方を持って、袋を出そうとしても、「三角コーナー」が一緒に一体的に持ち上がってきた事に気付いた…

初めの私は「流しの三角コーナーの中のゴミ捨て」と言う目的・意識で、
三角コーナーとゴミ袋を見て・感覚した~

その次の私は、ゴミ袋を出す意識でゴミ袋の上をほうを持って取り出した~
この時、私の視覚はゴミ袋だけを感覚して、三角コーナーの感覚なし…
だから、この時の私のゴミ袋捨ては、三角コーナーの一緒・一体的に捨ててしまった。


また、私の日常茶飯事の失敗であるが…
風呂場に入って風呂に上がって、出て服を着て、居間へ行ってテレビを視る。
風呂場に入る時は、電灯をつけるが、出た後は消し忘れ。
出た後、後ろを振り返手初めて「電灯の消し忘れ」に気付く私…


これを「忘れっぽい」と片付けるのは簡単であるが…
でも、別の視点から説くなら「認識の切り替えが早い」…

しかし、考えようによっては、「風呂から出ると」という行為は、
入る時に付けた電灯を、出る時に消して、初めて「行為」完了。




以下は、ネットでからの転写であが…

~~~転写開始~~~

「行為」「行動」「動作」の違いとは?

「行為」、「行動」、「動作」は、意味的には似ていますが、微妙な違いがあります。

行為

「行為」は、ある意図や目的をもって行われた行動全般を指します。たとえば、「善行」という言葉は、善良な目的をもって行われた行為を表します。

行動

一方、「行動」は、何らかの反応や動作をすることを指します。行動には、意図的なものと無意識的なものがあります。たとえば、「彼の行動は奇妙だ」という場合、彼がある特定の目的を持って行動しているとは限りません。

動作

「動作」は、身体的な動きを指します。動作は、何らかの外部的な刺激によって引き起こされることがあります。たとえば、「彼の手の動作が不自然だ」という場合、彼の手の動きが見た目に不自然であることを指します。

まとめ

つまり、「行為」は意図的であり、目的を持って行われた行動全般を指します。「行動」は、何らかの反応や動作をすることを指し、「動作」は身体的な動きを指します。

~~~転写終了~~~



今の日々の私の生活が、「行為レベル」ではなく…
よくて「行動レベル」、下手すると「動作レベル」化している、ようだ!

「行為・行動・動作」違いは、それぞの目的意識の濃さ・薄さなのだろう。


私には、目的・意識の「切り替えの早さ」より、目的意識の濃厚さが、必要なのだろう。
突き・蹴りのスピードではなく、時々の技に込められている意識の強烈さ~こそが求められているモノ。