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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

弁証法について…

2024-06-08 11:55:28 | …弁証法…
弁証法について…

弁証法には、「観念論弁証法」と「唯物論弁証法」がある。
それは、人間の頭脳活動として、唯物的と観念的がありえる、から~

唯物的頭脳活動とは、対象の現実・事実的な変化の五感情報を元に関わり思考し続ける事。
観念的頭脳活動とは、自己の観念・認識・感情を元に対象と関わり思考し続ける事。


初めての対象と関わる時、その頭脳内には、その対象の観念・認識は皆無。
なので、唯物的頭脳活動しかなり得ない…それでも…
しかし、その対象の五感情報が豊かになり得たなら、
その対象認識が創像され、自己の観念情報に追加となり得る。

生誕直後の赤子は、
「何が何だか分からない・分からない事さえも分からない」(即自的認識)。
それでも、その赤子には、誕生直後の自覚不能な像不明な「快・不快」感情認識はある。
そんな対象像のない「快or不快」感情・認識を、
その「何が何だか分からない・分からない事も分からない」対象に、ぶつける(問い掛ける)のだろう。


その不快的な問い掛けの結果、快が得られれば…その何が何だか分からないが「快」へ
例えば、その即自的な状態で、オシッコが出そう(不快)中で、
オシッコ出て快なら、「何が何だか分からない…」状態が快へ~。


今年の新小学一年生の中に、数人、公文で算数を習っている児童がいた。
その児童達は、異口同音に「こんなの簡単…塾でやった…」


学校は「勉強する場所」・「勉強とは、強いて勉める事」。
なのに…学校の勉強科目である「算数」が簡単・楽で出来てしまうなら~
それは、「強いて勉める・勉強」になり得ていない。

そんな彼らは、「国語きらい・」…「算数好き」となって…
本来の強いて勉める・「勉強する事」が嫌い・消極的…になり得て…いるのに…
算数好き=勉強好き…と大きく誤解している。
本来は「勉強する事が嫌い」なのに「勉強する事が好き」と誤解している…

出来ない・やりたくない教科の学習は勉強!となり得ても…
その学習の結果・教科が好きになり、積極的に学習するようになり得たら、それは「勉強」ではなくなる。


嫌い・勉強したくない「算数ムズイ」…学習しない!時、
その「学習しない!」を否定して「やりたくない…けどやる!」と学習の強制・(勉強)の始める(第一の否定)。
そして、学習の連続の結果「算数・簡単・好き」量質転化化…学習したい!「やりたくないがやりたい」へ変化。
その時、その算数の学習が「勉強」から「非勉強」へと変化。

第一否定⇔の「行為・機能」(学習しない)の繰り返しの否定的な「行為・行動」(学習する・勉強)連続結果で~
~その量質転化化の結果~
第二の否定⇒「算数の学習=勉強」だったのが「算数の学習≠勉強」化してしまう。


このような「勉強する(運動)」・「勉強する事」の技化(習慣化・癖化)は、至難であろう。

その「勉強する事の技化」の為には…取り組む対象を変える事が必要であろう。
または、同じ対象でも、その対象に対する自己の意識・認識を変化させる事。


これって…誰かさんの「神経体力・認識体力」の論理・弁証法性に類似していますね♪♪♪


発見!「勉強する事」の学習の難しさは、ここにあり!
これは、「『死の恐怖』の学習・体得・修得」の勉強する事にも言えますよね…