不自由論から始める自由論(その三)
あ~あ…
本当は、もっとゆっくり・じっくりと記事を書き続けながら、
自由について結論を出したい(思い)なのに…
なかなか出さない・出せない(思い通りにならない)」
という「不自由」を味わいながら、自由論を書こうと思っていたのに…
弥勒お宅が
「…寄筆さんの自由観は「自分に由(よ)るのだ」というものだったと思い…」
なんてコメント寄越して急かすから…
元々は、以下のような事柄についての子供と大人の比較を書こう…と思っていたのに…
例えば尿意・便意について、赤子は、感じたら即、オムツに排出。
その後、少々我慢してトイレで排出。
トイレがない時、幼児なら、その場で排出。
子供でも、トイレがないなら、場所を選んで排出。
でも…普通の大人は、必死でトイレを探して排出。
尿意・便意は、体外への排出を求める本能レベルの欲求。
その「欲求」に対して、大人と子供とでは、「思い」が異なる。
普通の常識なる大人は、「トイレで排出」という思い。
少々野性味ある大人なら、「トイレがないなら隠れて排出」という思い。
赤子は、何の思いもなく、そく排出。
子供は、周囲の大人の思いによって「トイレで排出」へ。
このような大人達の「排出したいのにトイレまで我慢」…排出が思い通りに即できない「我慢は不自由」。
この不自由の理由・原因は、「場所を限定」であり、それは「人間だけの思い(認識)」だから…
でも、選び場所は、子供ならどこでも(それでもズボンを脱ぐまで我慢・不自由)、
大人でも「隠れて排出」、「絶対にトイレで排出」…と、その人間の「思い」次第で「我慢の時間が異なってくる」。
仮に、大人でも、パンツ・ズボンを汚してもいい!と思えたなら、
その場で、そのままに、即排出!「我慢なし」で自由である。
まあ~そんな事は「下痢ピー」でもないが切り…あり得ない。
因みに、中学時代に「屁が出る!」と思って「屁」をしたら、下痢ピーだったのでビックリした記憶がある。
結論的に書けば、人間の「不自由・自由は、全て(その)人間の認識に由る」。
その「思い・認識」を変えれば「不自由が自由」へ「自由が不自由」へ変化し得る」
人間が、「空を飛びたい!鳥のようにと飛びたい!」と思えば、
思い通りに飛べない人間は「不自由」。
でも、鳥のように、空は思い通りに飛べないが、
人間は「地上を思い通りに歩き・走れる」から「自由」。
本能的な動物には、人間のような「思い」がない、
そんな動物達には、自由も不自由もない!
動物達の中に、自由・不自由を見て取ったとしたら、
それは、それを見て取った人間の「自由・不自由」認識。
例えば、以前読んだ「五体不満足」の著者は、
生まれながらに「両手両足が殆なかった」…
なのに…その事に不自由を感じる事無く、普通の人生を生きた、ようだ!
その理由に、著書に(私の記憶している内容)によると…
彼の母親が全く悲観する事無く、
一般的には「不満足な五体」に対して、それを個性としての普通と受け入れ…
普通に育てた結果…なのだと私は理解している。
彼も、生まれつきの状態が「彼の普通」だと自然に納得して、生きていった。
確かに現代科学・医療器具・道具のお蔭もあろうが…
そんな不満足な五体でも、生活可能な道具の数々があった事。
そして何より、彼が、自分の不自由を受け入れ、その範囲内で自由に生活できた事。
不自由を受け入れたとは、五体満足な人間と全く同じ生活は無理・不可能だと納得して、
五体不満足な自分のレベルでの最善の生活様式を選択し続けた結果。
五体満足な人々が出来ても、五体不満足な自分には絶対にできない事は求めない。
でも、普通の人達に出来て、彼にも可能な事は、無全力でトライする…
五体不満足でも、思い通りになり得る範囲なら必死でトライしていく…
そんな覚悟があったのだろうか…
人間は・自己の能力の範囲内で納得・満足できているなら、それは自由。
自己の可能な範囲を越えた物事の「思い通り」を欲した時に、不自由が発生する。
これが、「自由とは、自らに由る」の意味なのだろう。
あ~あ…
本当は、もっとゆっくり・じっくりと記事を書き続けながら、
自由について結論を出したい(思い)なのに…
なかなか出さない・出せない(思い通りにならない)」
という「不自由」を味わいながら、自由論を書こうと思っていたのに…
弥勒お宅が
「…寄筆さんの自由観は「自分に由(よ)るのだ」というものだったと思い…」
なんてコメント寄越して急かすから…
元々は、以下のような事柄についての子供と大人の比較を書こう…と思っていたのに…
例えば尿意・便意について、赤子は、感じたら即、オムツに排出。
その後、少々我慢してトイレで排出。
トイレがない時、幼児なら、その場で排出。
子供でも、トイレがないなら、場所を選んで排出。
でも…普通の大人は、必死でトイレを探して排出。
尿意・便意は、体外への排出を求める本能レベルの欲求。
その「欲求」に対して、大人と子供とでは、「思い」が異なる。
普通の常識なる大人は、「トイレで排出」という思い。
少々野性味ある大人なら、「トイレがないなら隠れて排出」という思い。
赤子は、何の思いもなく、そく排出。
子供は、周囲の大人の思いによって「トイレで排出」へ。
このような大人達の「排出したいのにトイレまで我慢」…排出が思い通りに即できない「我慢は不自由」。
この不自由の理由・原因は、「場所を限定」であり、それは「人間だけの思い(認識)」だから…
でも、選び場所は、子供ならどこでも(それでもズボンを脱ぐまで我慢・不自由)、
大人でも「隠れて排出」、「絶対にトイレで排出」…と、その人間の「思い」次第で「我慢の時間が異なってくる」。
仮に、大人でも、パンツ・ズボンを汚してもいい!と思えたなら、
その場で、そのままに、即排出!「我慢なし」で自由である。
まあ~そんな事は「下痢ピー」でもないが切り…あり得ない。
因みに、中学時代に「屁が出る!」と思って「屁」をしたら、下痢ピーだったのでビックリした記憶がある。
結論的に書けば、人間の「不自由・自由は、全て(その)人間の認識に由る」。
その「思い・認識」を変えれば「不自由が自由」へ「自由が不自由」へ変化し得る」
人間が、「空を飛びたい!鳥のようにと飛びたい!」と思えば、
思い通りに飛べない人間は「不自由」。
でも、鳥のように、空は思い通りに飛べないが、
人間は「地上を思い通りに歩き・走れる」から「自由」。
本能的な動物には、人間のような「思い」がない、
そんな動物達には、自由も不自由もない!
動物達の中に、自由・不自由を見て取ったとしたら、
それは、それを見て取った人間の「自由・不自由」認識。
例えば、以前読んだ「五体不満足」の著者は、
生まれながらに「両手両足が殆なかった」…
なのに…その事に不自由を感じる事無く、普通の人生を生きた、ようだ!
その理由に、著書に(私の記憶している内容)によると…
彼の母親が全く悲観する事無く、
一般的には「不満足な五体」に対して、それを個性としての普通と受け入れ…
普通に育てた結果…なのだと私は理解している。
彼も、生まれつきの状態が「彼の普通」だと自然に納得して、生きていった。
確かに現代科学・医療器具・道具のお蔭もあろうが…
そんな不満足な五体でも、生活可能な道具の数々があった事。
そして何より、彼が、自分の不自由を受け入れ、その範囲内で自由に生活できた事。
不自由を受け入れたとは、五体満足な人間と全く同じ生活は無理・不可能だと納得して、
五体不満足な自分のレベルでの最善の生活様式を選択し続けた結果。
五体満足な人々が出来ても、五体不満足な自分には絶対にできない事は求めない。
でも、普通の人達に出来て、彼にも可能な事は、無全力でトライする…
五体不満足でも、思い通りになり得る範囲なら必死でトライしていく…
そんな覚悟があったのだろうか…
人間は・自己の能力の範囲内で納得・満足できているなら、それは自由。
自己の可能な範囲を越えた物事の「思い通り」を欲した時に、不自由が発生する。
これが、「自由とは、自らに由る」の意味なのだろう。