続・2024 元旦は、私の悟り記念日
元旦からの 「私の悟り」~
元旦の悟りとは、「私の悟り」の始まり。
空手であれば、やっと初段レベルの悟り。
でも、今日朝 悟った「私の悟り」は宗教レベル。
それが以下~
宗教的悟りとは、「神との一体化」…その神は、その教祖の中の認識した神。
従って、その悟りを開いた信者神とは、教祖の認識との一体化・教祖の分身そのモノ。
ならば、教祖の命令は、神の命令、その神と一体化している信者は、神・教祖の手足…となり得ている。
それは、究極の 人間と人間が創出した観念体(神)との相互浸透・相互移行による(量質転化)一体化。
これが、「宗教的な悟り」であり、現代では「マインドコントロール」とも呼ばれている。
私は、これと似たような体験を私は、教員生活一週間目に体感した。
私の場合は、自己の意志の弱体化で、自己の認識・(他人からすれば)妄想が事実のように思えてしまった。
それは、「私は児童達にとって神」・「神は児童達の望む事する」、だから私は児童達の願いを叶える。
「相互浸透」・「相互移行」そして「量質転化」一体化した認識は、
「実体的修行」と「観念的な修業」の過程(量質転化化の連続結果)の到達点。
自己の実体と自己の(教祖の認識神との相互浸透・相互移行・結果・「量質転化」一体化認識。
この私認識=教祖神認識=教祖的神・思考・行為・行動…この本質は変えられない。
そのような認識からの脱却には、それを対抗する新たな自己認識の一からの創像・創出。
そこには、当然に他人のヘルプが不可欠である。
師範が、「黒帯になったら、白帯から修業・修行をやり直せ!」と言っていた。
この場合の手っ取り早い方法は、白帯の指導をする事。
そう言えば、今は無き・小学館ポームパル(塾)で、
時々一日で、一年生から中三まで、算数・数学の指導をした経験が…
そうそう!更に、そう言えば、私が大学の空手愛好会で(?級)だった頃、
もっと稽古がしたくて、近くの空手協会系の道場に入門して白帯から始めた事を想い出した…
う~ん…何級だったのだろう…何の理由でそこを止めたのだろう…思い出せない…
元旦からの 「私の悟り」~
元旦の悟りとは、「私の悟り」の始まり。
空手であれば、やっと初段レベルの悟り。
でも、今日朝 悟った「私の悟り」は宗教レベル。
それが以下~
宗教的悟りとは、「神との一体化」…その神は、その教祖の中の認識した神。
従って、その悟りを開いた信者神とは、教祖の認識との一体化・教祖の分身そのモノ。
ならば、教祖の命令は、神の命令、その神と一体化している信者は、神・教祖の手足…となり得ている。
それは、究極の 人間と人間が創出した観念体(神)との相互浸透・相互移行による(量質転化)一体化。
これが、「宗教的な悟り」であり、現代では「マインドコントロール」とも呼ばれている。
私は、これと似たような体験を私は、教員生活一週間目に体感した。
私の場合は、自己の意志の弱体化で、自己の認識・(他人からすれば)妄想が事実のように思えてしまった。
それは、「私は児童達にとって神」・「神は児童達の望む事する」、だから私は児童達の願いを叶える。
「相互浸透」・「相互移行」そして「量質転化」一体化した認識は、
「実体的修行」と「観念的な修業」の過程(量質転化化の連続結果)の到達点。
自己の実体と自己の(教祖の認識神との相互浸透・相互移行・結果・「量質転化」一体化認識。
この私認識=教祖神認識=教祖的神・思考・行為・行動…この本質は変えられない。
そのような認識からの脱却には、それを対抗する新たな自己認識の一からの創像・創出。
そこには、当然に他人のヘルプが不可欠である。
師範が、「黒帯になったら、白帯から修業・修行をやり直せ!」と言っていた。
この場合の手っ取り早い方法は、白帯の指導をする事。
そう言えば、今は無き・小学館ポームパル(塾)で、
時々一日で、一年生から中三まで、算数・数学の指導をした経験が…
そうそう!更に、そう言えば、私が大学の空手愛好会で(?級)だった頃、
もっと稽古がしたくて、近くの空手協会系の道場に入門して白帯から始めた事を想い出した…
う~ん…何級だったのだろう…何の理由でそこを止めたのだろう…思い出せない…