昨日が私の悟り記念日
本来の表題は「今日は私の悟り記念日」と筈だったが…
色々と忙しく、書けずに時が過ぎってしまった。
さて、この「私の悟りの記念」とは、
どの様な悟りを、私が求めているかを「悟った」・自覚したと言うこと。
このような自覚をしたきっかけは、
テレビ番組 「笑わない数学 第2シリーズ」
11月15日放送 『ケプラー予想』の以下の場面・言葉から~
聖職者を志した事もあるケプラーは、
「神は完全なる世界を創造したので、宇宙は幾何学原理で支配されている筈だ、という強い信念を抱いていました。」
グーグルで検索したら、ヨハネス・ケプラーは、16世紀、ヘーゲル以前の天文学者…
この瞬間に私の中の過去の「悟り」が、一つまとめられた。
旧・「悟りを求めて…」ブログでは、
「悟り」を「学問的悟り」・「宗教的悟り」・「武道的悟り」に分けて考えていた。
それらが、この瞬間に一つになり、その一つが私の求めている「悟り」なのだろう…と痛感した。
(これが、たぶん急速・急激な量質転化化、なのだろう…と実感した)
そう~私が求め続けている「私の悟り」とは、
私の中に、
私・人類・神・自然・宇宙・全てを超えた絶対的な「何か」を創り出したい♪♪♪
そして、その姿が見えた時、それが「私の悟り」であり、
また、その「何か」が、私の中に創出された時、それが「私の悟得」なのだろう。
そんな「私の悟りとは」を、悟った私でも、
悟得への道は、まだ遥か…と思って今後の生活を進めていくのだろうが…
新宿支部の井上先生の以下のような言葉を思い出された~
この言葉は、当時の練習記録・ノートに書かれているモノ~
新宿支部への入門当初に言われた言葉~
「…過去の空手を忘れ・棚上げ…して新たに創る覚悟で練習…」てな感じだろうか…
私が、私以上・私を超えた何かを求めたのは…
小学生時代に、
小三の担任教師が話してくれた、忍者への憧れ、
小五の時の筋力・運動神経抜群な転校生への憧れ、
人間関係に悩んだ、高校時代に、「人間を知りたくて」…手相・人相…の本を読んだり…
大学時代に読んだ、植芝盛平伝の「我黄金体と化す」のくだり、
また教員時代に読んだ「変身の原理」 桐山 靖雄…で、一時、密教に嵌っていた。
彼の著書に「チャンネルをかえる」と称して、過去・未来へタイムトラベルをする…と言った事が書かれていた。
そうそう実際に密教の道場?への行ったが…
密教の修業は「?法具」という道具に自分を魂をうつす事…てな事を言われて、
「え!その?法具が壊れたら、どうするの?」と心配になった事を想い出した。
今なら、これは「認識のタイムトラベル」、意識的に夢の世界を現実の如く創れる宗教力なのだろう思えるが…
過去の私は、私を変えたい・変身した!思いだったが…
現在の私は、私の中に、全てを超えられる何かを創出したい!である。
しかし…ここで問題が~
それは、私の中での「矛盾」であろう。
この矛盾は、教育過程で生じる矛盾でもある。
「先生の正しい」と「児童の正しい」が一致しない時…これは矛盾ではない。
この時、先生の「正しい」が、
受け入れられない児童は「めんどくさい!嫌だ!やりたくない!」
そして先生に…一喝されてやる児童と、それでもやらない児童に分れる…
過去の教育界では「一喝されてやらない児童には体罰」だったが…
今は……別の手段で解決されている…
しかし、私の中での「私とその何か」の正解の不一致は、矛盾として現れる。
その時、私が、どっちの正解を選ぶか、が問題である。
これは、「感性vs理性」の格闘でもある…
理想vs現実、絶対精神vs人間精神、
そうそう…「絶対精神」というヘーゲル用語を使うなら、
私の中の「私の人間精神vs絶対精神」の格闘…
なんて事ない……(ヘーゲルの言葉で書くなら)
私の「悟り」は、私の中にある、
人間精神をヘーゲルの理想としている「絶対精神」へと育て上げる事。
ヘーゲル観念論なら「絶対精神」は、初めから・生まれつき、人間の中にある。
それは、即ち絶対精神に到達可能な「精神」は初めからある。
しかし、唯物論では、そんなモノは初めからない!
精神さえも、初めからない!
全ては、創り創られていくモノ。
初めからあるのは、ただ「可能性」だけ、である。
「ひと」は、人間になり得るか可能性を持って誕生し、
人間達に、人間への教育をされ続けて、初めて「ひと⇒人間」なのだろう。
ここで、「事実と論理」にいて、
ヘーゲル自身が信じ切った「絶対精神」は、ヘーゲルにとっては、観念的な頭脳の中での「事実」である。
それでも、現実界での絶対精神の存在は、科学的に証明できていない。
事実の二重性とは、
現実界の事実的「現実に続いている事・過去に起こった事」、
観念内・反映・認識・「その人間が思った事・思っている事」、
その人が「思った事」は(思ったという)事実でも、
その思った「内容」は事実の反映であり事実ではなく(問い掛け的)「反映像」。
論理とは、反映された五感情像の言葉的な表現が「論理」?なの、だろうか…
もしかして…言葉も一つの「論理」なのかも…
本来の表題は「今日は私の悟り記念日」と筈だったが…
色々と忙しく、書けずに時が過ぎってしまった。
さて、この「私の悟りの記念」とは、
どの様な悟りを、私が求めているかを「悟った」・自覚したと言うこと。
このような自覚をしたきっかけは、
テレビ番組 「笑わない数学 第2シリーズ」
11月15日放送 『ケプラー予想』の以下の場面・言葉から~
聖職者を志した事もあるケプラーは、
「神は完全なる世界を創造したので、宇宙は幾何学原理で支配されている筈だ、という強い信念を抱いていました。」
グーグルで検索したら、ヨハネス・ケプラーは、16世紀、ヘーゲル以前の天文学者…
この瞬間に私の中の過去の「悟り」が、一つまとめられた。
旧・「悟りを求めて…」ブログでは、
「悟り」を「学問的悟り」・「宗教的悟り」・「武道的悟り」に分けて考えていた。
それらが、この瞬間に一つになり、その一つが私の求めている「悟り」なのだろう…と痛感した。
(これが、たぶん急速・急激な量質転化化、なのだろう…と実感した)
そう~私が求め続けている「私の悟り」とは、
私の中に、
私・人類・神・自然・宇宙・全てを超えた絶対的な「何か」を創り出したい♪♪♪
そして、その姿が見えた時、それが「私の悟り」であり、
また、その「何か」が、私の中に創出された時、それが「私の悟得」なのだろう。
そんな「私の悟りとは」を、悟った私でも、
悟得への道は、まだ遥か…と思って今後の生活を進めていくのだろうが…
新宿支部の井上先生の以下のような言葉を思い出された~
この言葉は、当時の練習記録・ノートに書かれているモノ~
新宿支部への入門当初に言われた言葉~
「…過去の空手を忘れ・棚上げ…して新たに創る覚悟で練習…」てな感じだろうか…
私が、私以上・私を超えた何かを求めたのは…
小学生時代に、
小三の担任教師が話してくれた、忍者への憧れ、
小五の時の筋力・運動神経抜群な転校生への憧れ、
人間関係に悩んだ、高校時代に、「人間を知りたくて」…手相・人相…の本を読んだり…
大学時代に読んだ、植芝盛平伝の「我黄金体と化す」のくだり、
また教員時代に読んだ「変身の原理」 桐山 靖雄…で、一時、密教に嵌っていた。
彼の著書に「チャンネルをかえる」と称して、過去・未来へタイムトラベルをする…と言った事が書かれていた。
そうそう実際に密教の道場?への行ったが…
密教の修業は「?法具」という道具に自分を魂をうつす事…てな事を言われて、
「え!その?法具が壊れたら、どうするの?」と心配になった事を想い出した。
今なら、これは「認識のタイムトラベル」、意識的に夢の世界を現実の如く創れる宗教力なのだろう思えるが…
過去の私は、私を変えたい・変身した!思いだったが…
現在の私は、私の中に、全てを超えられる何かを創出したい!である。
しかし…ここで問題が~
それは、私の中での「矛盾」であろう。
この矛盾は、教育過程で生じる矛盾でもある。
「先生の正しい」と「児童の正しい」が一致しない時…これは矛盾ではない。
この時、先生の「正しい」が、
受け入れられない児童は「めんどくさい!嫌だ!やりたくない!」
そして先生に…一喝されてやる児童と、それでもやらない児童に分れる…
過去の教育界では「一喝されてやらない児童には体罰」だったが…
今は……別の手段で解決されている…
しかし、私の中での「私とその何か」の正解の不一致は、矛盾として現れる。
その時、私が、どっちの正解を選ぶか、が問題である。
これは、「感性vs理性」の格闘でもある…
理想vs現実、絶対精神vs人間精神、
そうそう…「絶対精神」というヘーゲル用語を使うなら、
私の中の「私の人間精神vs絶対精神」の格闘…
なんて事ない……(ヘーゲルの言葉で書くなら)
私の「悟り」は、私の中にある、
人間精神をヘーゲルの理想としている「絶対精神」へと育て上げる事。
ヘーゲル観念論なら「絶対精神」は、初めから・生まれつき、人間の中にある。
それは、即ち絶対精神に到達可能な「精神」は初めからある。
しかし、唯物論では、そんなモノは初めからない!
精神さえも、初めからない!
全ては、創り創られていくモノ。
初めからあるのは、ただ「可能性」だけ、である。
「ひと」は、人間になり得るか可能性を持って誕生し、
人間達に、人間への教育をされ続けて、初めて「ひと⇒人間」なのだろう。
ここで、「事実と論理」にいて、
ヘーゲル自身が信じ切った「絶対精神」は、ヘーゲルにとっては、観念的な頭脳の中での「事実」である。
それでも、現実界での絶対精神の存在は、科学的に証明できていない。
事実の二重性とは、
現実界の事実的「現実に続いている事・過去に起こった事」、
観念内・反映・認識・「その人間が思った事・思っている事」、
その人が「思った事」は(思ったという)事実でも、
その思った「内容」は事実の反映であり事実ではなく(問い掛け的)「反映像」。
論理とは、反映された五感情像の言葉的な表現が「論理」?なの、だろうか…
もしかして…言葉も一つの「論理」なのかも…