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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・続々と鳥肌が立つような感覚~

2023-04-13 12:24:43 | ♬~我が悟りへの道程~♬
2012年05月01日
認識のバランス
認識のバランス


認識的実在である人間…。
幼い頃は、自分しか見えない、自分が正しい!自分こそ全て!であるのだろう?!

そして成長して他人の存在を意識すると、自分だけが正しい!自分が全て!とはいかなくなってしまう。
それでも自分が正しい、自分こそ全て!と思いたい!のが人間なのだろう~。

だが…それが出来難い!ので、何かを頑張り~他人から「凄い~」と認めてもらい、自分はヤッパリ正しい、自分は全て!と自己満足をしたい、ものなのだろう~か?!

学問の世界で天動説のような自己中心的ものから、地動説に変わっていったように…。
自分が正しい!自分が全て!と思いたくても思えない現実の中で子供時代の私、身体が小さく非力で運動会では毎回ビリかビリから二番目で、勉強もあまり好きでも得意でもなかった私は、どのように自分の存在を自分で肯定していた!のだろうか?

小五の時だろうか?!ほぼ同時期に二人の同級生と喧嘩をして、爪で引っ掻いて泣かして担任に叱られた記憶がある。
先生に叱らたことより、卑怯かもしれないだろうが…それでも小さく非力な自分が相手を泣かしたことが嬉しかったようである。
小六で特に身体が大きい転校生にいじめ的な目にあった時は、犬の話をキッカケに仲良くなり、その苦境を脱出した。
中学時代、運動会では障害物競争になり、なんと小学校時代とはうって変わって一等賞になってしまった、のである。
少々の自己満足的自己への思いはあっても…劣等感は消えなかった…。

そんな劣等感に悩んだ日々があったから、その後の頑張りがあった!のだろう~。

今の子供達は、そんな劣等感や無力感に…どのように対処しているのだろうか?!

今日、息子が同級生と3DSをやっていた。
その友達は勉強ダメ、運動ダメ、弱虫泣き虫…そんな彼がゲーム中では、自分が天下でも取ったように、死ね!バカヤロー!的…無敵であった。
確かにゲームなら指先の反射神経だけでなんとかなり、自信も生まれるのだろう~。
でも…ゲームの世界バーチャルの世界での満足感で現実の自分への不満から目を背けてしまって良いのだろうか?!

ダメな自分を直視しダメな自分を認め、その自分のダメさに押し潰されそうになっても、避けることなく、そのことに耐えつつ全身で押し上げようと頑張り続ける中で精神力が養成され…。
その精神力で新たな自己を他人に誇れる自慢できる自己を創造しよう~ではないか!
現代の子供には、そんな精神力を養成する条件や場がなくなってきた、のではないだろうか?!

世の中、子供にとって優し過ぎ!…
でも…大人にとって厳し過ぎ!なのではないだろうか?!








続く続するような面白さ♪♪♪

2023-04-13 12:15:01 | ♬~我が悟りへの道程~♬


2012年04月26日
封印を解かれた『弁証法』


『書くことは考えこと』が事実!か?どうか!を確かめたく、幾つかのネットの掲示板で投稿を始めたのは、去年の初め頃であった。

その後、自分でもブログを!と私的にはトンでない思い付きを考えに考えて、遂にこの『悟りを求めて~』を書き始めてしまった。

始めるあたって想ったことは、物覚えが悪く、勘違いだらけで、学識も乏しい私が、これは事実だ!と胸を張って正しいと(ある程度の…)自信を持って書くことのできること、それは『自分』についてだろう~であった。

また、私が学びたいと感じた『弁証法』に、人生で出逢った時点までに、このブログの内容が書き進むまでは、『弁証法』は封印しておこう!と決めた。

その初めての出逢いが大学時代であったのである。

そして、弁証法性=事物の変化運動性に、五感をフルに使って全身で、自分から積極的に関わることになり、強烈に実体験させられたのが、教員になりたての一週間であった。

当時のその学校には、幼稚園児から高校生まで、そしてその保護者に同僚の教員と、幅広い人間が存在していた。 その中には、従兄弟・従姉妹が4人とその保護者たる叔父叔母…などの私と関わり深い人達もいた。

そんな多くの認識と、小三の児童三十数名の認識を中心に関わった!のである。

その関わり方に論理も理論もなく、知識もアヤフヤで、全く頼りにならない私であったのにも関わらず、児童や保護者、同僚の前では自信たっぷりの私を演じ見せ続けていた…その自信はどこからだったのだろうか?。

たぶん…若さ故の想い込み…若気の至り…だった!のだろうか?

また、私自身は小学校高学年より、学科の勉強を真面目にやり始め、秀才(単感覚的関わりが得意技)的に育っていた。。

そんな私にとって、イヤイヤの児童と関わりなら兎も角、自分からの積極的なあのような五感覚的な関わり方は、過去に体験したことのないほどに、私の頭脳に強烈な刺激を与え、当時のその実力以上に頭脳は働かせられた!のでだろう~。

もし当時の私に身体的に脆弱な部分があれば、また違った結果だった!のであろうが…。

幸か?不幸か?当時の私は、大学時代からの空手のための基礎体力作りで、日々のランニングに筋トレ、食事に睡眠に気を配っていて、五体満足で健康元気のかたまりだった!のである。

以上の理由から、その実力以上の強制的頭脳の使用=過去とは大きく異なった感覚器官の使わせ方による神経の使われ過ぎの結果、私の認識はそれまでとは違った像を思いを描いてしまい、そんな認識ゆえに、その像を疑うことなく信じて行動してしまった!のだろう~。

その後の自宅療養の結果、一か月後には、認識も落ち着き、無事教壇に復帰した、のだが…。

その1ヶ月間の日々の認識の変化・運動といったら、人生23年間で初めての体験でだった。

ある日は「自分は世界で一番偉い!周りは皆バカだ!」的に周りの他人を睨み散らし…

また、ある日は「自分は周りから野良犬に見えている!に違いない!」と頭を下げ俯いて歩き、絶対に他人とは目を合わせようとしなかったり…

そして、ある日は、ただただ「ぼ~」と歩くだけだったり…~のように過ぎていった日々…。

そして、ある時にズボンをはいていたら、ズボンは見えていて、はいている感覚もあるのに、でも…私は「このズボンは見えているが…きっと本当は存在していないし、はいてもいない!に違いない!のでは?」と自分の視覚、触覚を否定して、感覚に疑いを抱いてしまった…のである。

このような異常な体験の数々も、弁証法的に考えると、納得のゆく過程的結論を得ることができる。

これが、弁証法的過程的結論である以上、今後も~私が自己の認識を弁証法的変化・運動させることで、その相互浸透的量質転化化での、その時どきの私の認識の変化・運動により、上記の結論も変わってゆく!のだろう…?!

きっと…私はこの出来事を死ぬまで~想い考え続けて生き生活してゆくのだろう~♪♪♪





面白い!過去のブログ記事が~

2023-04-13 12:03:03 | ♬~我が悟りへの道程~♬
面白い!以下のブログ記事が…




以下が、自由びと「悟りを求めて…」ブログからの転写~



2012年04月21日

初めての教員生活~


『京都弁証法認識論研究会ブログ』のコメント欄で頂いた木田元殿の以下のコメントに応えたく書いてみました。

「経験主義的喧嘩拳法的発言もありましたので、許されるものでしたらお教え下さい。」との木田元殿のコメント…。

『義務的強制的に読ませられない限り、読まないだろう』このブログで書いたところで木田元殿は読まないでしょうが…

私的に木田元殿に『奴の言説は出鱈目で嘘八百!に決まっている!奴は大嘘吐きだ!』と思われる!のも心外で、しゃくにも障るので、敢えて書きました(私は根に持ち拘りタイプなので…)。

私が教鞭をとったあの学校は「各種学校」資格の学校で、こぢんまりとした家族的雰囲気の学校です。 私はそこの中等部の二十三期卒業生でした。

私が三十数名の小学三年生の担任になった時、その生徒達の保護者のほとんどがその学校での先輩達でした。 また、同僚の教師のほとんどが私の学生時代からの先生でした。

学校の教育方針も独特のものであり、こくご、さんすう、りか…の教科書は文部省(当時は)検定済でしたが、それ以外に普通の小・中学校では教えない独自の教科があり、その教科書は学校長または教科担当の教師が編纂したものでした。

私は、さんすう、りか、独自教科を担当し、他教科は他の教師が担当しました。 ここでは、普通の小学校のような学級担任性でなく、複数教科担任性?!といったようなものでした。

そこで…、教職課程をとらず教員免許もない私が教員になれたのは、私が卒業生であり、在学中の成績、学習態度…等が良く、私なら小学三年生の担任ができるだろう、という当時面接をした学校長、教頭の判断なのでしょう~。

授業は初めから、私一人で補助の先生はいませんでした。理由の一つは、当時人員不足で補助可能な先生がいなかったのだ、と思います。

以上のような学校で、教師として白紙的私が教鞭をとったのですから、学科指導は自分が過去にその学校で恩師から教えられた方法(経験主義的的方法)そのままであったし、生徒の生活指導(生徒間のトラブル、躾的側面…)に関しては行き当たりばったり的(喧嘩拳法的)なものになってしまっていました。

具体的には、宿題ノートを忘れた児童には、授業中に自宅へ取りに行かせました。あの時に、もし途中で事故にあったり怪我でもしたりしていたら責任問題だったのでしょうが…。
幸いに、保護者からは、「~子供には家の鍵を持たせるようにしたよ!」と言われただけで、特にクレームを受けた覚えはありません。
もっとも、学校長、教頭…にはクレームがあったかも知れませんが、私のところまでは伝わって来ませんでした。

その他にデパートでの集団万引きが分かった時、母親とその児童と一緒に、そのデパートに謝罪に行きました。 それはデパートの非常階段脇に置いてあったダンボールに入っていた、納品したてのファミコンのカセットでした。 デパート側には万引きされたことが分かっていなかったのでした。

確か…万引きしたのは、五、六名の児童で、その保護者の内、一人母親だけが謝罪に行くことを拒否しましたが…

まだまだ、今考えるとトンでもない指導の数々…これを私は、「 経験主義的喧嘩拳法的指導」 と表現したのです。

このように書いても、「嘘~!そんな学校、そんなお前を!教員に採用する学校なんてある筈がない!だろう!」と言われるでしょうが…

以上が私の記憶にある事実なのです。

その学校は、最近新しく建て直され、児童・生徒数も、あの頃より大幅に増加して、もう過去のあのこぢんまりした家族的雰囲気の学校ではなくなってしまったらしい~ですが…(聞いた話ですが…)。

そう~…「教師」を甘く見て、自分なら上手くやれるだろう!と思い教員になった私は、教壇に立って一週間で、「変になった」のです。

「変になった」とはどういうことか?
それは、今まで自覚したことの無いほどの強い思いを抱いてしまい、その思いが正しいと主観的に信じてしまったということです。
というより、その思いを疑うことなく、不信も抱けなかった!ということなのでしょう~か~?!。

その思いとは、『私は児童達にとっては神的存在であり、児童の為なら、私は何をしても良い!私に不可能なことは無い!』的もの、だったのです。

実際に授業中、生徒が「お腹が減った!何か食べに行こう!」と言ったので、(その思いのままに)そうか~なら、「レストランへ行こう!」と児童を連れて校門を出ようとしたところを、他の先生に呼び止められ、訳を話したら,「チョット待ってくれ!」と止められ、待っていたら校長?教頭?小学主任?(忘れた!)が来て、私は即刻帰宅させられて、数日後、母と叔父に付き添われて精神病院へと診察に~。

あの「思い」…あそこまでハッキリと意識され、その思いを否定も疑うこともせずにそれに従ってしまったあの私…
どのような~流れ~であのような思いを抱くことになっていったのか!
そして、あの教員生活、教師としての生活は、今の私にとってどんな意味があり、その当時の私にどのような変化・運動を起こしたか?
以上のようなことを考えながら、悟得への道が歩ければ!と想いつつ…今もこのブログを書き綴っています。

因みに、母が亡くなった時は『俺は達人になった!』との強い思い。

婚約解消問題発生時には『 俺は南郷継正になった!』 との強い思い。

そして、一昨年の暮れは 『前人未到の領域を歩いている人の気持ちが分かった!俺は悟った!』との強い思い。

そんな~ある日ある時突然…明確に意識された~強い思いの数々が…想い出されます。

何故? なぜ! ナゼ? NAZE ! Why… これらを弁証法と認識論を駆使して解明してゆけたら~♪♪♪




矛盾とは、自己の中にあり…

2023-04-13 05:26:31 | …絶対矛盾…


矛盾とは、自己の中にあり…


今日、夢を記憶いた…
いつも、忘却の夢を~


事の詳細は思い出せない・不明だが…
ネット掲示板or電話で、話し合っている相手の矛盾を、次々に指摘している私の姿を見た。
そして、最後に判明した(夢中の)事実とは?
その姿がみえない・分からない相手と、何と!私自身であったと言う驚愕の事実である。




人間の「絶対矛盾」とは、「ココロとアタマ」の矛盾であろうか…
ココロは、体内の感覚情報の認識であり、
アタマは、外界・感覚可能な範囲の五感情報からの認識である。

動物なら、外界からの肉体的な「快・不快」刺激=内界の本能的な「快感・不快感」であるが…

しかし…人間は、肉体的な「不快」である筈の刺激を、心の快感と認識してしまう可能性がある。

それは、所謂、愛する者からの「愛の鞭」と言われているモノであろう…

鬼のようなシゴキでも、自己の目的達成の為なら、心地よい仏の導き…であろうか?


しかし…問題がある!

鬼が鬼でいる為の、鬼のようなシゴキなのか?
仏が鬼に変身した、人間への成長の為の鬼のようなシゴキなのか?

また、シゴキを受ける人間も、
自分の為の、仏・鬼のようなシゴキと受け取るのか?
鬼の人間イジメの為の鬼・鬼のようなシゴキと考えるのか?

自然の矛盾も、種から芽へ、芽から葉っぱへ…

ある花を見た時、花は花であり、種でも茎でも葉っぱでもない…
でも、その人間が、その花を育てた者なら、
記憶・体感…している「種から花まで」の想起が可能である。

そこには、種・茎・葉っぱ・花…は連続し記憶情報があろう~
しかし、そのような記憶・知識…を持ち得ない者にとっては、
「花は花」、決して種でも茎でもない存在であろう。