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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

花粉症について…

2020-03-20 11:54:29 | 花粉症

今年も花粉症の季節がやってきた。


私の花粉症との付き合いは長い…
二十代前半からだから…
かれこれ…もう~
四十年は経つだろうか…



初めは、医者へ行って、痒み止めの薬を処方してもらっていたが…
飲んだ後の感覚が、少々変だったので、飲まなくなってしまった。

その後は、毎年も我慢の連続、痒みとの闘いであった。


そんな中、ある年、それは母が亡くなった年に気付いた。
何か・母の死に、囚われている時、花粉症・痒みは感じ取れない事に…


その体験を元に、痒みの我慢にトライしたが…
なかなか思っているような効果は難しかった。

それでも…
全く痒みを感じなかった年、
全く痒みを感じなかった場合、
痒くても直ぐに止まる・止められた時、

色々な体験をして来た。
その都度、その時の状況・状態、心理状態、
やっていた・関わっていた事…

そんな事を思い出して、考え続けて来た。

それでも、
今年は結構痒い、
痒みを我慢できない、
痒みを止められない…


そんな中、昨年の記事が、メールに届いた。
それを読んで思った~

ヤッパリ、今年の私も昨年の私も、…同じ私だった。
花粉症について思う事も、考える事も、やっている事も
みんな同じような、そんな私であった…と~







全ての事物は区別と連関の中で~

2020-03-20 11:17:25 | 悟りシリーズ

学校の成績評価が、相対評価から絶対評価に変わって、何年経っただろう…
果たして…本当に絶対評価に変えてよかったのだろうか?


以下は「https://bizhint.jp/keyword/65044」からの転写である。


相対評価とは?

相対評価とは、個人の能力を、その個人が属する組織や集団内においてどのような位置にあるのか、相対的な位置を手掛かりとして評価する方法です。「A評価は○%、B評価は○%」というように評価の分布をあらかじめ決めておき、その枠にはめ込む形で集団を構成する個人の能力を評価します。

評価の対象者同士を相対比較して序列を行うことが最大の特徴と言えます。



教育現場での相対評価

相対評価が採用されている代表的な例といえば、やはり学校教育における学力評価でしょう。「5・4・3・2・1」の割合(一般的に5から順に10%、20%、40%、20%、10%)を決めておき、学校単位で実施する試験などの平均点や得点分布に基づいて個人の学力をそれぞれに当てはめる「五段階評価」や、その評価基準を全国で共通の指標(試験など)とする「偏差値」などが挙げられます。



絶対評価とは?

絶対評価とは、個人の能力を、その個人が属する集団内の他者の能力に関わらず、あらかじめ決めておいた評価基準に則って評価する方法です。事前に数値化された目標に対してどの程度到達できたかを判断する到達度評価以外にも、数値化が難しいことに関しては評価者が持つ基準によって成果を評価する認定評価と呼ばれる手法もあります。


教育現場での絶対評価


ゆとり教育が導入された2000年前後から、学校教育の現場でも絶対評価が取り入れられるようになりました。従来の学力一辺倒の評価基準から、学力そのものではなく個々に設定した目標への到達度や、学校や教員独自の基準に照らし合わせた評価方法によって、個に応じた指導を重視するようになったのが、その背景です。




他人との競争と自分との闘い…

現在のライバルを抜こうとする現在の自分…
過去の自分を追い越そうとする現在の自分…

自分との闘いは、ライバルとの闘いの中にも存在する。
相手が過去の自分なら普通に現在の自分なら追い越せるだろう…

そこに日々の学びがあれば…
その時が成長期であれば…


育ち盛り、成長期の児童・生徒・学生…ならば、
己の更なる成長・上達を求めるならば、
競争相手は、過去の自分より、
現在のライバルである方がいのだろう…

ここにも「二つの真理」が…?



絶対評価で得られる満足。
相対評価で得られる不満。

相対評価の不満を乗り越える為に、
絶対評価の自己努力を糧にすれば…


過去の評価では、
個々のテストは100点満点からの減点・絶対評価、
成績表は、五段階の相対評価であった。


さてさて……


これでは、「全ての事物…」となり得ない。


全ての現実の始まりは、自分の生誕からである。
全ての事物の始まりは、宇宙の誕生からである。

ここにも「二つの真理」が…



母の生誕と父の生誕があるから私の誕生が…
ここにも「二つの真理」が…


「真理は一つ」も真理なら、
「真理は二つ」も真理である。
ここにも「二つの真理」が…


観念論哲学の真理、
唯物論哲学の真理、

この「二つの真理」の統一から哲学の真理が…



観念論哲学の真理とは、人間の立場・精神・認識からみた真理、
唯物論哲学の真理とは、宇宙の立場・モノ自体…からみた真理、


「人間…」と「宇宙…」の真理の統一から「一つの真理」が…


全ては区別と連関の中から…




想いは同じ~

2020-03-20 10:29:24 | 想いのままに…



以下は昨年の記事である。

今年は昨年よりも一ヶ月も早く、
二月の初めから、猛烈痒みに襲われた。
そして、昨年と同様に掻いて掻いて、
腫れて痛くなって…
やっと決心して、掻くのを止めようと…
そして、また同じような事を同じように考えた。






花粉症の克服法      2019-03-19 12:43:37 | 弁証法


花粉症の克服は簡単である。
それは、痒くても搔かない。

搔かずに我慢し続ける。
ただ…それだけの事である。
これは私の実体験による解決談である。

三月の七日辺りから、非常に目が痒くなった。
我慢できなくなる程に…。

そこで搔いて搔いて搔くまくった。
その掻きまくった理由は、
搔くと下腹部・腹の底から快感が湧いてくるから。

その結果、なんと目が腫れて痛みを感じるようになった。
その痛みの為か…気付くと痒みが消えていた。

しかし、数日経つと、腫れがひき、また痒くなった。
そこで、快感を求めて、再び搔き始め搔きまくった。

でも、その時は、タオルを使って肌に優しく搔いた。
結果的に腫れも少ない。
でも…痒みは続くようになった。

その痒みは、断続的であり、搔いて痒みが取れても、
少し経つと、再び、痒みが襲ってくる。

その時、身近にタオルがあれば良いが…
ない時は、搔くと目の周りの皮膚が痛くなる。

そんなこんなの繰り返しの中で、
目の痒みが消えている僅かな時間の継続を求めたくなった。

そこで、十七日の日曜の朝、
起床してテーブルに座っている時の、
突然の猛烈な痒みに対して心を決めて、
我慢する事を始めた。

猛烈に痒い(これを搔くと超快感)…でも我慢する!
そんな我慢の時が続いた。

すると…突然その痒みが消えた。
そう~我慢を続けると痒みが消える体験をした。

でも、今まで我慢しよう!と思っても、搔いてしまっていた。
それなのに、何故に今回は我慢できたのだろうか?


それは、我慢の仕方が違う。
正確に書くなら、我慢している時の『思い』が違う。

我慢できなかった時の私は、
痒くなると脳裏に浮かぶのは、搔いた時の快感である。
その快感を想いながら、我慢しようとしていた。
結果は、我慢できずに搔き始めた。

でも、十七日の朝は違っていた。
痒みに襲われた時、視ていた録画を停止して、
それこそ歯をぐっと食いしばって痒みに耐えた、のである。
その結果、我慢すれば痒みが去る事を体験・実感した。

少し経って、また痒みに襲われた時は、
今度は、歯を食いしばる事なく、
ただ…我慢して、痒みが去った時の事を思い出し、
その想いがブレないよう努力した。

その次は、肩の力抜いて、楽に痒みを感じつつ、
これは消える、待てば消える…そんな想いを描いた。


そんな繰り返しの中で言える事は、
以前の私が、痒みを我慢できなかったのは、
搔いた時の快感を求めていたからである。



以前の私は、花粉症などない!
それは、「俺自身の認識の問題」と思い込もうとしていただけで、
具体的に、どこが、なにが、どう問題であるかが、分からなかった。

でも…今年の私、今回の私は、昨年までとは、一味違っていた。


師範の「夢講義」に書かれている。
花粉症は認識の問題である…と。


花粉による痒みは事実なのかもしれない。
でも、痒みを感じる要因は人体側にある。
また、例え痒くても気にせず、搔かなければ、花粉症ではない。

痒くて我慢できず、搔くから、搔く事で
日常生活に支障が起こるから、「花粉症」なのである。

以前に「心に青雲」ブログで、
「花粉症止めなさい!」と内容の記事があった。


それは、師範が搔いていた弟子を叱り飛ばし、搔く事を止めさせた…
そんな内容だったと思う。


この方法が成功するか、失敗するかは、
その弟子の師範への信頼感の強さ次第であろう。


師範の叱りを全身で受け止め、絶対に「搔くのを止めよう!」と思えるか…
搔きたくて搔いているのではない、花粉症だから無理無理…と思ってしまうか…

動物も人間も快感を求める
しかし、求める快感の内実・中身に相違がある。

動物の快感は、本能的なモノで一重であるが…
人間のは、、本能的と認識的の二重性が考えられる。

上記の私の場合は、

一重の快感、
花粉症の痒みに遭遇、
(痒いのを搔くと快感)、
だから搔く搔きまくる。

二重の快感、
痒い
(搔くと快感)を思い、
(搔いた後の不快感)を思う。

そして、搔いた時の快感ではなく、
搔いた結果の不快感を避けられた時の

快感を求めて搔かない


ここでの快感の二重性とは、
一つ、その行為の過程で得られた(快感・不快感)と、
もう一つ、その行為の結果生じた状態に対する(快感・不快感)を思う事の二重性である。


「痒い」⇒「搔くとき感じる」快感、「搔かないと痒みを我慢する」不快感。
「搔いて腫れた」⇒「痛い」不快感と「痛くて痒みを感じない」快感。

体験で得た結果とは、

花粉症の

痒みは、搔いても搔いても、また痒くなる。
搔き続けると肌が腫れる・痛い。

搔かずに我慢できれば、痒みは止まる。
それでも、また痒みに襲われる。
それを我慢すれば、また消える。
我慢を続ければ、肌は腫れない・痛くない。


上記のような花粉症の克服に至るまでに…
私は、何十年の歳月を費やした事か…

もっとも…毎年・毎年、この事ばかりを考えていた訳ではない。
弁証法・認識論・哲学・学問を師範の著書に学び続けたからの結果である。


まあ~これはこれで私的私だけの自己満足ではあるが…
それでも、昨日も今日も…数週間前の私同様に、
痒くて困っている家内を見ていると優越感を少々感じているのも事実である。