体罰とは、体への罰である。
罰とは、罪を犯した時に受ける身体的苦痛。
教育とは、教え育てる事。
教育過程で、教育者が被教育者へ体罰を与える場面とは、
被教育者が何か当人の成長に不都合な事をしてしまった時、
しかも、当人がその不都合に気付けていない時、
教育者が、その不都合を理屈で説いても被教育者が分からない時、
上記のような条件が揃った時、
教育者が、被教育者の成長の為に敢えて加えるモノが体罰と言えよう。
「我が身を抓って人の痛みを知れ!」という言葉がある。
体罰は、この論理と同様である、と主張する者もいるが…
私は少々違うと考える。
その違いとは、
我が手で抓って感じる我が身の痛みと
他人の手で抓られて感じる我が身の痛み、である。
教師の児童・生徒への体罰は、他人の手で加えられたモノであり、
決して「我が身を抓って人の痛みを知れ!」ではない。
それでも、児童・生徒が教師を信頼していて、
教師の手=自分の手の如くに感じ取られモノなら、
結果的に、
己の行為・行動の結果に不都合を感じ得なかった被教育者も、
教育者の体罰を通して、己の行為・行動の不都合を実感・体感可能になり得る。
信頼感とは何か?
信頼して頼る感覚である。
信頼感の根底には、相手への好感がある、だろう。
好きな相手だから素直になれる。
嫌いな相手だから逆らう。
好きで気に掛けて欲しいから敢えて逆らう。
好きだから素直に甘えて逆らう。
嫌いだから黙って聞いている振りをする。
嫌いだから無視して素直な振りをする。
信頼感とは、そこに一体感が伴うモノだろう。
でも…一体感があっても信頼感になり得ない時がある。
それは、己自身への信頼感が未形成の時。
または、一体感はあっても、自己主導の一体感である時。
教師の思いへの自己の一体化でなく、
自己の思いへの教師の一体化である。
別の視点から体罰の効用は、
集団生活での不都合な行為・行動の明確化であろう。
言うなれば、「反面教師」的効果である。
体罰は、現象的には個人身体へ加えられているモノである。
しかし、本来それは、不都合な行為・行動への罰である。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが…
不都合な行為、そのモノは間違いであるが、
不都合を犯してしまった者は間違っていない。
間違っていない理由は、人間は動物である。
その行為・行動の結果は、その場では不都合で間違いであっても、
その行為・行動の実行があった事は、動物として間違いではない。
この間違えとは、全体の流れの中での、その時の「不都合」であり、
時と場所・状況と条件が異なれば、「不都合」ではなくなるモノである。
体罰否定の現代の教育現場では、
体罰ではない方法で、
不都合を自覚・実感させ得る事が求められるのだろう。
それは、体罰を体罰を感じさせない関係の構築でもある。
「体罰」があるのでない、
ある事を人が「体罰」認識するのである。
それは、教育者の指導場面での行為・行動を
人が「体罰」と認識・実感するのだろう。
体罰を体罰と認識させなければ、そこに体罰はない。
体罰を体罰と認識しなければ、そこに体罰はない。
それでも、身体に残るような大怪我をさせてしまった時、
当人が体罰と認識しなくても、周囲には体罰とされるだろう。