私は、真理とは現実と認識の一致であり、同一的運動状態とする。
そこで哲学を考えるなら、
哲学とは、その時代・世界に対する人類の認識であろう。
その哲学者の認識・学説が、
その時代の人類の認識・精神合致するなら、それは絶対真理と言える。
認識的であり、社会的な人類は、時代と共に変化・進化・発展して行く。
ある時代の哲学が、その時代の人類にって絶対真理であっても、
時代が変われば、人類が変わる。
変化した人類にとって、過去の絶対真理は絶対たり得ない。
過去の時代に合致した絶対真理でも、変化した現代には合致し得ない、から。
確かに絶対に正しい「絶対真理」はある、と言うよう。
それは、その時代で絶対的に正しいモノである。
そして、時代が変われば、その時代の「絶対真理」は生まれる。
しかし、それは、過去の絶対真理と同じ内容たりえない。
「絶対真理」という言葉として同でも、
その「絶対真理」の中身・内実は異なって行くものだろう。
絶対真理を遺言書に例えれば、
現代日本の法律に合致している限り、その遺言書は絶対的に正しく有効である。
しかし、国が法律が変われば、その遺言書は正しく足り得ず無効となり得る。
または、新たな遺言書が書かれれば、その遺言書は正しくなく無効である。
絶対真理を空手技の例えるなら、
絶対に相手を倒せる技=絶対技を持っている達人がいる。
そんな達人でも、その技の使い方を間違えれば絶対技足り得ない。
絶対技が絶対であるには、常に対手と絶対技の合致が必要である。
常にその技を対手に一撃必倒で使用できる状態の技が絶対技なのだろう。
愚案君はヘーゲルを絶対真理としている。
でも…残念な事に、それは彼の思い込みだろう。
彼の人生で絶対的に正しいモノでも、
他人の人生では正しいとは限らない。
私は、相対真理=絶対真理である、とは思っていない。
絶対真理は絶対真理である。
相対真理は相対真理である。
しかし、それらの内実をみた時、
絶対真理の中身・内実は相対的である。
相対真理の中身・体実は絶対的である。
これらは、
事物の構造の過程・過程の構造の表現の相違・問題である。