>…量質転化の結節点と捉えるならば、物事が大きく不安定になって行くのは当然とも思える。
>例えば、冬から春に変わっていく変わり目である現在、早春の時期に気温の大きな変化や大雪等と天候が大きく不安定になっていくが如くに。
これは、ブログ
「鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~」の記事、
『職場の、個人的の雑事〜物事の変わり目の普遍性、あるいは量質転化の結節点の問題〜』
http://blog.goo.ne.jp/kagakuteki-sinkyuron/c/a0b7c0d549b8dc1b62925fed6dd2812e
2018-02-21 07:58:24 | 日記
の記述から「結節点」について考えた。
量質転化の結節点とは、量の積み重ねが質に変化する境界状態・部分であろう。
例えば、「冬から夏への変化の結節点は?」と言うと、
それは春である。
「春」の暖かさとは、寒さから暑さへ向かう過程であり、
寒さに暑さを含んでの変化である。
だから「暖かい春」と体感される。
それに対して「秋」は、と言うと、
それは、暑さに寒さを含んでの変化である。
だから、「涼しい秋」と体感される。
ならば、「冬から春への結節点は?」と言うと、
これは「三寒四温」的な状態であり、そこには季節の命名はない。
それは、寒い冬であり、暖かい春でも、ある状態。
正確に言語表現するなら、
それは、「量質転化化の結節点」と言い得る。
これは、量質転化の過程・ある状態から別の状態への変化の過程である。
それは、ある状態の衰退と同時に別の状態の生々・生成である。
そこで強く自覚・意識されるのは、「暖かさ」か「寒さ」であろう。
ある人は、『もうすぐ春なのに、まだ寒い』。
別の人は、『昨日より暖かい、もうすぐ春だ』。
結節点は、
どちらとも、自由に捉えられる便利点であり、
どちらかハッキリしない不安点でもある。
これが季節なら、それ程に問題はないが…
人生における自分の認識・頭脳・感情の問題となると~
それは、大問題として現象してくる。
この結節点の大問題化が、
私の大学卒業から就職後一か月間の状態であろう。
それは、安定していた学生状態の私から、
未体験の社会人状態の私への変化の結節点であった。
当時の私の犯したミスは、
学生状態的な私のままに、社会人的な私を生きようとした事。
それは、
ある事実に対して社会人的対応が求め期待されていたのに、
それを、
学生状態的な私で対応してしまっていた間違いである。
その結果は、
学生としてなら正しかったのに、
社会人としては正しくなかった。
しかし、学生状態的な私には、
何故に、「それが正しくない」かが分からなかった、のだろう。
これは、「正しくない理由」が分からない、というモノであり、
そこに欠如していたのは、私の「社会人的な状態」の認識であろう。
社会人とは?
社会に出るとは?
組織とは?
教員とは?
教師とは?
そう~当時の私は、「結節点」での私であり、
この問題解決が、私の「人生の課題」でもあった。
それは、学生状態であった私に、教師的な私を強要されていた状態で。
その状態の中、無自覚・無意識的に学生状態の維持を務めていた私。
そこには、頑張って正しいと思える事をやり続けても失敗してしまう消耗感・挫折感…
そして何をやってもダメ!ならば、『一体全体どうすればいいの?』
そんな不安感の連続であった、のだろう。
ならば!当時の私はどうすれば良かったのか?
それは、社会人、教員、教師…としての「型」を設定して、
それに、自分を当て嵌めて日々頑張れば良かった、
という事なのだろう。
それこそが、結節点の問題であり、
武道空手を、それまでの自分的な人間的認識・自分的な人間体のまま、
学ぼうとする時の問題でもあろう。
結節点とは、どっち付かずの状態でもある。
そんな状態なら、
自分の生きたい道に即した方を選択して、
即さない方は切り捨て、
前へ進むのが正しい道なのだろう。
もっとも…
八方美人的な天秤座の私、優柔不断の私には、
結節点の真っ当な通過は至難であった、のだろう。
この至難が至難のままに、
量質転化化すると、
精神疾患となり得る、のだろうか?