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<始まり?ひとつ?>
2017-12-17 20:03:33 | 想いのままに…で
以下のコメントを月研ぎ氏のコメントに対して書いた。
月研ぎ氏コメント
>自由びとさんは、「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。<
自由びとコメント
>言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。
「言葉で書く」のは当然です。
言葉で考えている、言葉を並べて書いている、
が正しい表現なのでは?
「像で書く」の無理です。
像を言葉にする。像を言葉で(表現)書く…が正しいのでは?です。
コメント欄の記述はここまで…
↑~上記の書き込みは昨晩であった。
以下は「言葉で書く」、「像で書く」についての再考である。
南郷継正は、「人間は像て考える」と主張している。
それでも、彼の著書には「言葉で考える」と書かれている事もある。
「像で考える」はずの人間が、「言葉で考える」とは如何なる事か?
「像で考える」といった時、それは五感覚を駆使して形成像で考える。
「言葉で考える」といった時、それは、視覚(orプラス聴覚)の使った形成像で考える。
それは、五感情像か知識像か、といった事なのだろう。
さて、「像で書く」とは、描いている像を言語化する事。
その描かれている「像」が問題である。
自由びとの
「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。」
についてであるが…
言葉で書いている場合は論外として…
像で考え、像を文字・言語化している場合を考えるなら…
問題は、その表現・言語化しようとしている「像」である。
「像」または「五感情像」と書いても、
その「像」には、
静止像、運動像、全体像、部分像、全過程を含めての過程的像…
と様々な「像」があり得る。
更に、書き手が自らの像を正確に捉えられて視えているか?
または、正確に捉えて視えていても、それを正確に言語表現できているか?
相手の言葉が分からない場合、相手側の問題なのか?
自分側の問題なのか?
それとも両方の問題なのか?
例えば、「群盲象を評す」ではないが…
仮に、「象」の事を知らない人が、象の姿形を言葉で書かれても理解不能である。
絵にした所で、この絵が「象」と覚える事はできても、五感情像としての像はない。
それは、知る・覚える事は出来ても、分からない・実感できない、モノだろう。
更に、象の全体的姿形ではなく、象の足の像を言葉で書いたら、
どうなのだろうか?
私が思ったのは、月研ぎ氏は
自分の事を、どれ程に理解できているのだうか?、である。
自身は常に必ず相手の言葉を像化して像で分かっていると確信しているのか?
現代の学校教育をまともに受けて育った者なら、言葉の全ての五感情像化は至難であろうに…
自信たっぷりの者は、自分は出来ていると確信がある。
しかし、全てができる者、ミスのない者はいないと私は確信している。
だから、先ずは、自分のミスの可能性、そして相手のミスの可能性…
更には、私と相手の双方が、ミスをミスと思っていない可能性…
を考える必要があろう~
そんな可能性とそんな事実が、あるか、ないかを
検討する努力をしようと努力している私であるが…
如何せん…こんな私なので…
己の思い込み・勘違いの多さに呆れている毎日である。
果たして、今日の記事には、
どれほどの思い込み・勘違いがあるだろうか?
月研ぎ氏に指摘されるのが恐怖であるが…