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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

大いなる気付き~

2017-10-28 13:16:00 | 想いのままに…


なんと!コペルニクス的転回の発見である。
もっとも…以前から分かっていた事でもあるが…

事実とは、
実際にある事。
実際にあった事。
である。

ならば、例えば「ご飯を食べる」事とすると…。
これは、事実であり、事実ではない。

どういう事かと言うと…
これは、ある事実を「ご飯を食べる」という言葉で
表現している、モノに過ぎない。
これは、事実の表現であり、事実そのモノではない。

従って、同じ事実に遭遇していても、
人によって、その事実の表現は異なってくる。

このような、ある事実の表現方法として、
観念論的表現と唯物論的表現がある、
という事でもある。

だから、表現方法が違えば、同じ言葉でも、
その中身は異なってくるだろうし、
逆に言葉は違っていても中身は同じだったり、
である。

そこで、互いの言葉表現の理解に必要なのは、
観念論者なら、正しく相手の唯物論表現を理解し、
唯物論者なら、正しく相手の観念論を表現を理解する事。

しかし、ここで更なる問題が…
それは、相手の言葉・文字からだけでは、
観念論形式なのか、
唯物論形式なのか、
の見分けが困難である事。


この問題の解決方法は、
同じ釜の飯を食っての合宿生活であろう。

共の生活するとは、同じ生活・事実を共にしている事。
その事実・生活の中での互いに交わす言葉の数々と、
生活・事実との一致・不一致から、
互いの観念論・唯物論が判明するだろう、から…













観念論と唯物論の弁証法的統一…

2017-10-28 12:33:51 | 想いのままに…

今ここで、観念論と唯物論をプラトン弁証法で統一する…
プラトンの弁証法、それは「滅ぼし合う対立物」である。

観念論と唯物論を闘わせて互いに互いを否定し続けると、
生成されるモノそれは、
その対立と捉えている観念論と唯物論から生まれた、
その時代の真理であろう。

観念論とは、「観念論」という形式で表現された真理であり、
唯物論とは、「唯物論」という形式で表現された真理である。

真理と観念論・真理と唯物論は、相対的独立関係にある。

そもそも、観念論も唯物論も、
その時代のその学者が発見した真理であり、
それは、真理の時代的表現であろう。


過去の観念論と、今の唯物論を闘わせて生まれるのが、
現代的な表現の真理であろう。

彼の観念論と私の唯物論から生まれるのも私彼的な真理。

ヘーゲルの絶対的観念論と統一させるべき唯物論、
それは絶対的弁証法唯物論であろう。

生半可な唯物論なら、それら全て
ヘーゲルの絶対的観念論に吸収されてしまうだろう。

そんなヘーゲルに吸収されてしまった唯物論の姿を
天寿堂氏に重ねてしまうのは…私だけであろうか?









一番大切なモノは?

2017-10-28 08:34:58 | 想いのままに…

人間にとって一番大切なモノは何だろう?

それは~

金銭?
愛情?
仕事?
趣味?
運動?
睡眠?
食事?
生活?
健康?
信心?
誇り?
………


??????


健康な身体?
健全な精神?


??????

私が想うには、
それは「信念」であろう…である。


信念とは、
一度大切だと信じた事を、
どんな事があっても実行して、
また、それを守ろうとする心。
(例解新国語辞典ー第二版ー)

その出発点は?
先ず、「信念」!こそが人間に一番大切である、
という~『信念』を抱く事。

人間は認識的実在である。

それを、ヘーゲル的に表現するなら~~~
それは、「人間は絶対精神の実在である」。

信念は、「一度信じた事を信じ続ける事」。
そして、「その事を実行・保守し続ける事」。

これが、観念論ならば、これで問題解決であろう…
しかし、唯物論ならば、次の問題の発生である。
それは、その「信念」の具体的内容・内実であろう。

大切な事~
一番は、信念!
二番は、その「信念」の中身!

個人的な個体レベルの信念。
家庭的な家族レベルの信念。
社会的な会社レベルの信念。
世界歴史的なレベルの信念。
宇宙歴史的なレベルの信念。

個人・家庭・社会・世界・宇宙の現在・過去・未来を包含した
宇宙的・世界的・歴史的・全人類的・人間的・個体的である、
その「信念」の内容構築が、
人類としての個人的な到達目標なのだろう…