なんと!コペルニクス的転回の発見である。
もっとも…以前から分かっていた事でもあるが…
事実とは、
実際にある事。
実際にあった事。
である。
ならば、例えば「ご飯を食べる」事とすると…。
これは、事実であり、事実ではない。
どういう事かと言うと…
これは、ある事実を「ご飯を食べる」という言葉で
表現している、モノに過ぎない。
これは、事実の表現であり、事実そのモノではない。
従って、同じ事実に遭遇していても、
人によって、その事実の表現は異なってくる。
このような、ある事実の表現方法として、
観念論的表現と唯物論的表現がある、
という事でもある。
だから、表現方法が違えば、同じ言葉でも、
その中身は異なってくるだろうし、
逆に言葉は違っていても中身は同じだったり、
である。
そこで、互いの言葉表現の理解に必要なのは、
観念論者なら、正しく相手の唯物論表現を理解し、
唯物論者なら、正しく相手の観念論を表現を理解する事。
しかし、ここで更なる問題が…
それは、相手の言葉・文字からだけでは、
観念論形式なのか、
唯物論形式なのか、
の見分けが困難である事。
この問題の解決方法は、
同じ釜の飯を食っての合宿生活であろう。
共の生活するとは、同じ生活・事実を共にしている事。
その事実・生活の中での互いに交わす言葉の数々と、
生活・事実との一致・不一致から、
互いの観念論・唯物論が判明するだろう、から…