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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今日の床屋での出来事~

2023-06-24 15:14:17 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月20日
今日の床屋での出来事~


前回に行ったのが10/7だから、三か月と十数日ぶりの床屋である。中高生時代は一カ月に一回の床屋が当り前であったが、その後二カ月に一回となり、最近は三カ月に一回になっている。

 前々回までは、個人経営の床屋に行っていが、前回からは株式会社でチェーン展開している床屋である。

 個人経営の床屋は、十数年同じ所に行っており、常連さんということで、代金はカットにシャンプーで三千円であった。そこは店主一人でやっており、とても気に入っていた…

その店主が病気(神経性のあまり聞かない名前の)で呂律があまりまわらないようになり、手つきも怪しく感じられ、髪のカットはまだ良いとしても、顔剃りが怖いので,行くのを止めた。

 その後、シャンプー顔剃りなしのカットだけ二千五百円+消費税の個人経営の床屋を見つけ数回行っていたが、旦那は感じの良い方で気に入っていたが、その奥さんがどうも今ひとつ合わなくて、前回からカットにシャンプー顔剃り込みで1950円という低料金の床屋にした。

 前回は店長にあたり、感じもよく話易い方でとても気分良く刈ってもらった。今回は別の人で、その人は無口で私に話かけてくることもなく、私からも話かけずに静かに時間が過ぎていった。

 ことの始まりは、顔に当てたタオルが思いのほか熱かったことである。その後、顎に当てた剃刀が痛く感じた。それでも、『まあ~こんなものだろう~』と納得しつつ、シャンプーと言われて、鏡を見た瞬間に顎に赤く血が滲んでいたのに気付いた。

 その瞬間…何で血が?何で剃った人間が気付いていないの?今まで私の顎を見ていた筈でしょう~何故に気付かないの?と…

 それからが大変~元々声が大きい私が血を見て「剃った人が気付かないとは、剃りを入れたら終わりで責任感不足だ!そもそも血が滲むような剃り方そのものも問題だ!」的な思いから、声が大きくなり、その店員を叱責し始めた。

 「何故に剃っていた当人が気付かず、傷を付けられた当人に鏡を見て指摘されるんだ!」
「タオルは熱いし、剃り方は痛かったし、それで血まで出すなんて…!」と…

 そして、黙って立って「すみません」と謝るだけのその姿を見て、私の声はますます大きくなっていった。途中から周りを巻き込み「こんな事ってよくある事なのですか?」とますます声を荒立てていたら、店長が彼と変った。店長の顔を見ると前回とは違うので聞いたら、三日前に来た新しい店長である、と分かった。

 店長に変っても釈明する訳でもなく、ただ謝っているだけである。ただ…その間に傷の手当てはしてくれていた。

 そんな謝罪のだけの態度に何故か私は納得がいかないものを感じてか?!声のトーンは落ちることなく、「何故!タオルが熱いのに気付かないのか?」、「何故!滲んでいた血に気付かないのか?」と、言い(他人からは怒鳴り)続けていた。

すると、隣でシャンプ―していた客が「うるさい!」と怒鳴ってきた。

私は「自分の事でないから、そんな事を言えるんでしょう~あんたが私の立場だったら…と考えてみな!黙っていられるかい!」と。

その客は「私だったら黙っているよ!」と答えたので、「そうですか!それは尊敬ですね!」と返した。

その後、私は後ろの順番待ちの客達に向かって、「皆さんだったら黙っていられますか?」と問い掛けたら、一人が「煩くて、気分が悪い!」と返してきた。

それに対して…たぶん私は「こっちは痛いんだ!」と答えたかも?!…

その後、同じ客が「気に入らないなら帰ればいいんだ!迷惑だ!」と返してきた。

その言葉に対して何と返したかは覚えていないが…そんなやり取りの中で、確かに周りに迷惑であり、このまま大声を出し続けると、三人目の客に何か言われるかも?!(この時、後ろに座っていた順番待ちの客は子供を入れて五六人であった)と思い、「すみません!ご迷惑をお掛けして…」と言い、大声を止めることにして止めた。

その後、店長に聞いたところ、剃った時は普通でも、後から段々血が滲んでくることもある、とのことである。

今回のように、ただただ「すみません」の連続で釈明をしない店員に納得がいかずに声を荒立てたのは、これで三回目である。初めが信用金庫の年配のカウンターの女性、次がauショップの新卒の男性、今回は比較的年配の男性、である。

私が思うに…何故に自分の過失の釈明をしないのだろうか?人間はミスをして当り前、その自己のミスを認めた上での釈明というものはないのだろうか?

家で私が自己の失敗、ミスの原因究明と釈明を行おうとすると、家内は言い訳だ!と言って聞いてくれない。

言い訳とは自己の正当性の主張であり、釈明とは自己の失敗、ミスを認めた上での原因説明である、と私は考えているが…

言い訳している人間の顔には「すみません」の表情は現れない。しかし、釈明している人間には「悪い事をした」という表情が浮かんでいるものである。


以前スーパーで、店員のおばさんを怒鳴っていた客に、私が大声で意見した事を思い出した。いつまでもその女性を怒鳴り続けているおじさんに隣にいた客の私は、その店員の女性が可哀想になり、大声で怒鳴りつけたのである。

そう~店員は客に「怒鳴るのは止めて」とは言えないが、その場にいる客なら「迷惑だ!煩い!」と言えるのだろう。そう考えるともし当事者でなかったら今回の客と同じような事を私も言ったのだろう~

ただ~同じような事だとしても、「痛い思いをして大変でしたね~でも…その大声は周りに迷惑ですから、静かに話して下さいね…」と、興奮して怒鳴り散らしている相手に冷静に伝えることが可能な私でありたい、と思っているが…


↑~「あった!あった!」こんな事が…

今の私なら、きっともっと冷静に文句を言えたのかも…?⁉


[体罰」とは何か?教育現場に体罰は必要か?

2023-06-24 14:56:47 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月18日
[体罰」とは何か?教育現場に体罰は必要か?

 体罰―懲らしめの為に、殴るなどして、身体に直接苦痛を与える罰。(例解新国語辞典)と書かれている。

また、罰―罪を犯した者、悪い事をした者に対する懲らしめ、と書かれている。

そして、懲らしめる―罰を加えたりして二度とそのことをしないように思い知らせる、であるそうだ…

 上記の辞書の意味を参考に「体罰」を以下のように考えてみた。

 今、私の考えている「体罰」とは教育現場における成長過程にある児童・生徒に対する指導者の行為についてである。

 大人にとって「罪は罪」で「悪は悪」で…自覚され認識され固定的変化しないものであるから、「懲らしめ」や「二度としないよう思い知らせる」ことで、その行動の裏の思い考えを変えようと働きかけることも必要であろう…

 しかし、成長過程の彼らが必ずしも、その考え思いが周囲の認めてくれるような正しさで、思い通り考え通り行動で表現される、とは限らないのだろう~

 何を書きたいかといえば,成長過程にある彼らに必要なのは、教育的指導であり、決して罰や懲らしめでは無い!ということである。

 そう~指導者は成長過程にある彼らに対する「何かの行為」を「体罰」として行ってはならない!ということである。

 例えば、教室で騒ぐ生徒、口で注意して聞かない生徒を廊下に立たせる事は「体罰」として行うのでは無く、教室で我慢強く静かに話を聞けない彼に廊下でひとりじっと静かに我慢する事を体得させる為、その反省をさせる為、の教育的指導として行うということである。

 これで効果が無い時は、より強い指導として両手にバケツを持たせ、より強い我慢を指導する。

 それでも効果の無い時には、校長室で校長との1対1的指導も必要なのだろう~

ここまで指導しても効果の無い時には、更に保護者の呼び出しもあり、ということである。

ただ…最近は廊下に立たせる事は生徒の学習の権利を奪う!とか、生徒が先生の話を聞かないのは先生の指導力不足だ!とか、体罰だから禁止だ!とかで、先生の思い通りの指導ができないようである。

 このような指導は、昔の先生は教育的指導というより体罰として行われていたように私には思える。それでも、当時は先生様様で「先生は絶対正しい!」、「立たされるお前が悪い!」と周りも親も納得して、体罰を甘んじて受けていたので、今日ほど問題視されていなかった。しかし…今は時代が違うのだろう~

 現代社会において、指導者が「何かの行為」を体罰として行う事、また、その「何かの行為」を児童・生徒に体罰として認識されてしまうような行為は、禁止されて当り前なのだろう~

 従って、成長過程にある児童・生徒への教育課程においての「体罰」と認識し得る、され得る行為には私も賛成し難いなのである。逆に言えば、「体罰」と認識しない、されない行為、相手に教育的変化を与え得る行為なら何でもあり、ということなのである。

 普通なら体罰と受け取られて当り前の行為を、教育的指導として捉え、相手にもそのように感じさせる力こそ、指導者に求められる指導能力なのだろう~

なのに~世の中、体罰~反対!賛成!…○か×か…バカリで、もっともっと柔軟な思考というものをできないものなのだろうか…

 
なんて書いている私も、歳のせいか、脳細胞の物質化の為か、段々に頭脳がかたくなっている自分、小五の息子と比べて対比的に感じている毎日であるが…ホンに困った者である…

 
では…老化、脳細胞の物質化を少しでも遅らせる為に何をすれば良いか!…

 




体罰で教育的効果は得られるか?

2023-06-24 14:53:18 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月17日
体罰で教育的効果は得られるか?

最近「高2バスケ部員体罰で自殺【桜宮高校】」事件が新聞・テレビで報じられている。以前は学校の教室内での体罰が問題とされることが多かったが、部活での体罰は技術向上の為のしごきとして容認されることが多く、あまり問題視されることが無かったのだろう…

今回の事件は、周囲の生徒が体罰を加えられた状況をはっきり見ていたにも関わらず、学校側が認めずに、生徒が自殺してしまった為、ここまで問題化され報道されたのだろう。もし生徒が自殺していなければ、この体罰は相変わらず続けられていたのだろう。

初め私は自殺するくらいなら、何故に部活をやめなかったのだろう、退部してしまえば、体罰から解放されて楽になるのに…と思った。しかし、色々と知るにつれて、バスケ一筋に練習・試合に励んできた彼にとって、退部する事は人生をやめる事に等しかったのだろう、ということが分かった。

顧問の男性教諭にしても、罰として彼を叩いた!という認識は無く、部長である彼に喝を入れる事で、部員全員の意識レベルの向上を図り試合に勝ちたい、練習を充実させたいという思いがあってのことなのだろう。

ただ、叩かれていた彼に男性教諭の思いが通じていたのだろうか?たぶん、高校生の彼には通じていなかったのだろう。

彼は皆の前で叩かれることでバスケに対する自信が傷つけられ、その繰り返しで自分自身への信頼さえも危うくなっていったのだろう。

そもそも~この男性教諭は自身の思いを言語化して彼にちゃんと伝えたのだろうか?彼が部長だから叱られ叩かれ事を彼が理解していれば、この展開は変っていたのだろう…

例え、男性教諭が彼にちゃんと思いを話していなくても、彼が男性教諭を信頼して迷うこと無くその指導に従っていたら、または、信頼して心の内を全て男性教諭に打ち明けていれば…こんな事にはならなかったのだろう。

一方、年配の方は言うかもしれない、「自殺した彼の心が弱すぎる、昔はもっともっと酷い体罰を受けていても自殺なんか無かった」と…
しかし、彼が弱いと言うのなら、その原因・責任は、彼を育てた周囲の大人達であり、その社会的認識の故であろう~

ここでの問題は体罰を加えた大人側にあるのであり、彼の心を問題にするなら、今日の社会的環境そのものを問題視すべきである。

では、体罰を行った男性教諭は、どうすれば、こんな事にならなかったのだろうか?

一番よいのは体罰を加えないことであろう。しかし、熱心のあまりに手を出してしまったなら、その想いを叩かれた彼にちゃんと伝えて納得してもらうことが必要だろう。

例えば、「私は君を技術的にも人間的にも信頼して部長を任せている。私が君に厳しいのは、その信頼感があるからであり、部長の君だから叩いたのであり、君以外の部員が同じ事をしても、君と同じように彼を厳しく叱ることは、私にはできない。君は私にとって特別な存在で、私は君に厳しく接する事でクラブ全体の部員全員の意識の向上を図りたいと考え想っての事である。いつもいつも損な役回りばかりで君にはで感謝と同時に悪いとも思っている」というような事。

以上のような言葉かけ、心配りを彼にしていれば、かの男性教諭の体罰も教育的に大きな効果をもたらす事が可能だった、と私は思っている。

人間が他人に「何か」をした時(違法的極端な行為は別として)、その「何か」の行為そのものの問題より、その行為を受けた他人がその「何か」の行為をどのように「受け止めたか?!」が問題である。

そう~人間は認識実在なのだから…





生徒からよく聞かれる事~

2023-06-24 14:47:38 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月13日
生徒からよく聞かれる事~

つい先日、生徒から聞かれた。これは過去にも多くの生徒から聞かれた事であるが…

その言葉とは、「先生!数学を勉強して何の役に立つの?」である。

この疑問に私は以下のように答えた。

「バスケット・ボールをやっていて何の役に立つの?!~
普通の人の日常生活で相手にボールを投げたり、相手からボールを受けたりしない!でしょう?

でも…シュートやドリブル、フェイント等の技術の習得・向上を目指して、腕立てやランニング、持久走…等で養成した体力は十分に役立つでしょう~

数学を勉強するのも同じで、解の公式を暗記して二次方程式を解くこと、三角形の合同や相似を証明すること、は普通の人の日常生活でほとんどあり得ないでしょう~

でも…数式が因数の形に分解できる=全体がより小さい部分に分解できること、ある条件に従って結論を得る為に論理的に考えてゆくこと…等は、思考過程の習得になるのでしょう~

また、数学が嫌いで苦手、苦手で嫌いな人ほど、数学を真面目に一生懸命やりなさい!そうすれば、自分の嫌でやりたく無い事への取り組み方をマスターできるし…」

以上のような事を想いながら答えたが…ここまで言葉で表現できていたか?また、私の想いの通りに理解してくれたか?~は謎である~

ここでの「思考過程の習得」は普通に学校の教科での数学の学習だけでは無理なのだろう?!と私は感じている…

「思考過程の習得」には、数学での「思考過程」をより一般化して、そこから自分の具体的体験、経験的事実と重ね合わせる事の繰り返しを通してはじめて役に立てられるものとなるのだろう~

仮定⇒結論⇒証明、一般的には、現在の私の周囲の状況・主体的条件⇒自分の目標⇒どのような努力をどのように続けたら目標を達成できるか~と考えてみたが…果して正しい思考過程なのだろうか…

ここで数学の問題と大きく違うのは以下である。

数学の問題の仮定は変えられないもの、追加できないものである。もっとも問題に文字化していない仮定も図形から見つけ出すことは可能である。

一方~目標達成の為の自分の周囲の状況・主体的条件は、今は無ければ、足りなければ創り加えることが可能である。

しかし、成長期に児童・生徒・学生なら…ともかく、成長しきった大人が現在の自分にないものを自分だけの努力で新たに創り上げることは、至難の業なのだろう~








「悟り」とは、悟ろう!と思わないこと?

2023-06-24 14:43:54 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月11日
「悟り」とは、悟ろう!と思わないこと?

昨年…と言っても数十日前のことであるが、ネットのブログで「悟りとは悟ろうと思わないこと」という言葉を見つけた。もっとも、この言葉に出逢ったのは二度目であるが…

この言葉に初めて出逢って以来、何故か引っかかっていた。そこで今ここにこの言葉の意味について考えてみた。

人はどんな時「悟り」を求めるのだろうか?

「悟り」とは何なのだろうか?

人はどんな時「悟った」と思うのだろう?


人は解決しようと頑張って頑張っても解決できない問題に苦しみ悩んでいる時、その苦しみから自由になりたい⇒悟りたい!と思うのだろう…

そして、もしその問題が解決できれば、その人は悟った!とは言わず、解決した!と言うのだろう~

そして、もしその人物が、この問題は解決できなくて当り前、解決できないままやってゆくしかないのだろう~と腹をくくることができた時、彼は悟った!と言うのだろう~

このように悟りたい、とは、悩み苦しみから逃れたい、という思いであろう。

では、悟ろうと思わないとは?それは、悩み苦しみから逃れたい、と思わないこと、ということなのだろう~

解決できない問題を解決しよう、と思い頑張るから、そして努力しても解決できないから、そのから苦しみ悩みが生じるのだろう~

そんな問題を解決しよう、と思わないこと。悩み苦しみから逃れようと思わないこと、それが「悟ろう!と思わないこと」なのだろう~

しかし、「悟ろう!と思わないこと」が簡単にできるなら、これ程に楽な事はないのだろう…

そう~悟りとは、悟りたい、悟りたいからこそ…悟ろう!とは思わないこと、なのであろう。

もう一歩この言葉の意味を深めて書くならば以下であろう~

人生を生きてゆく過程において、問題は次から次へと起ってくる。

その時々の個々の問題は解決可能であろうが、それでも人生において問題が次から次へと発生する、という問題は解決できない、ということなのだろう~

悟りとは、問題には解決可能な問題と解決不可能な問題がある、という事を認識して、その問題を解決できない苦しみ悩みを当り前と受け止めて、解決できなくても解決しよう、と前向きに努力し続けること、なのだろう~

ただ…解決したい問題を解決できずに悩み苦しんでいる状態に平気でいられるなんてことは、普通の認識では無理なのだろう~

だから~こんな状態でも平気でいられる為に、こんな認識の運動状態でも平常心でいられる為にこそ…認識に弁証法性を帯びさせるのだろう~か…!?





↑言う・書くは易し、行うは難し!