goo blog サービス終了のお知らせ 

新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

2013年02月04日 付け『心に青雲』ブログ「柔道日本代表女子たちを叱る」に寄せて…

2023-06-24 15:41:25 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月05日
2013年02月04日 付け『心に青雲』ブログ「柔道日本代表女子たちを叱る」に寄せて…

過去の『心に青雲』ブログが私に与えてくれた変化は計り知れないものがあろう~

今日は上記の記事を読んでの感想を率直に書いてみた。

ブログ主の書いたような「体罰容認」的指導論は、私自身の個人的被指導者的立場からは共感できるものであった…

…しかし…である~「体罰厳禁」が社会的一般的認識になりつつある現代日本社会において、あのよう持論を展開する指導者をどれだけ多くの人間が彼を信頼して彼についてゆくだろうか…

既に信頼関係の形成されている被指導者なら兎も角も…新たな被指導者に対して、あのような持論を展開したら、どうなるだろうか?

世に言う一般論は、どんなに正しいものであろう~とも~それが一般的であればある程に現実の指導場面での、そのままの形での適用は難しいものがあるのだろう…


ブログに書かれた言説を読みつつ想い出した事は、以下のような事であった。

「夢」講義に書かれていた、宗教の変遷過程。過去に宗教一般で安堵できていた人間が、その後、それでは安堵出来ずに、宗教が分派、個別化、していった変遷過程を…

私が初めて小三担任になり、日々怒鳴り、叱り散らし、体罰も辞さない姿勢で、日々児童と関わり、児童達は、そんな私を「鬼」、「二重人格」…と言いながらも従ってくれた過去を…

また、中一担任になった時、小学生と同じ方法で生徒と接したら、小三担任の時のような指導効果を得られずに悩み苦しんだ過去を…

塾で中2の生徒に教え始めた時、塾とは勉強したい生徒が来るものなので、厳しく指導したいと思い、(体罰は無し)真剣な口調、目付き…で厳しい要求をしたところ…十数人いた塾生の半分以上が辞め、男子数人と女子1名が残っただけであった現実を…。

最近では、以前なら私が叱ると『自分が悪い』的顔で泣いていた息子が、小五の現在では、叱られると『自分は悪く無い』的顔で泣いている、その息子の成長、変化の現実を…







体罰、暴力、いじめ…に想う~

2023-06-24 15:39:30 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月03日
体罰、暴力、いじめ…に想う~


2月3日付け「朝日新聞」に以下の記事が載っていた。

……引用開始……

―(前略)-

市教委によると、1日午後の数学の授業に男子生徒らが遅れてきたため、教諭が「早く入れ」と促したが、複数の男子生徒が「うるせい」「ぱか」などと言い、笑い声も起きた。

 教諭は発言した生徒を問いただしたが名乗り出ないため、遅れてきた男子生徒16人全員を廊下に正座させた。再度、ただしたが名乗り出る生徒はなく、教諭は「卑怯じゃないか」と、16人全員を平手打ちしたという。

……引用終了……

上記の記事であるが…私自身の経験から、この教諭の考え、思いを想像してみた。

先ず、この生徒らが遅れて来た時の様子であるが…多分、生徒らは時間に遅れたにも関わらず『遅れてすみません』的表情も無く、たらたらと入って来たのだろう。

もし、生徒らが小走りに遅れない努力ある姿で教室に入って来たのであれば、この教諭の「早く入れ」の声も響きが穏やかで、男子生徒の「うるせい」「ばか」の反応も無かったのだろう。

 ここで、この教諭には「生徒は教師が来る前に教室に戻り待つべし」的考えが強くあったのだろう。それも「はげ」と言われている事から、年配の教諭だったらしいので、この考え=生徒の時間厳守は、絶対的なものだったのだろう

 次に教諭の「卑怯じゃないか」の発言から、彼は『自分の言動には責任を持て』的考えが強くあったのだろう。男子生徒が自分から名乗れないような発言そのものが、この教諭にとっては言語道断だったのだろう。

 以上のような、生徒らの、遅れたのに反省が無く、その注意に対して「うるせい」「ばか」と発言し、その発言を認める事もできない根性の無さに、この教諭は情けないものを感じて、思わず16連発の平手打ちと相成ったのだろう~

 彼の気持ち思い想いが、これに近いものであったなら…私にはとても共感できる。しかし…それでも平手16連発は、この生徒らにとって適切な指導だったか!?といえば、疑問であろう~

 生徒らが「うるせい」「ばか」と発言できてしまう事から、この教諭は生徒らにとって怖い存在ではなかった、と考えられる。

この教諭が日頃からこのような平手打ち的指導を頻繁に行っての上での「怖く無い」存在であれば、この平手打ちは教諭の自己満足的感情発散に終わってしまい、教育的効果は期待出来がたいものだろう。

しかし、常日頃から体罰的指導は皆無で、言葉かけ、理屈的指導に徹していた結果の「怖く無い」「煩い」的存在であり、その教諭が思いあまって平手打ちであるのなら、この教育的効果も期待できるのだろう~

 そう、ある行為が体罰として問題視されてしまうのは、その行為が児童・生徒にとって教育的体罰的指導とは映らずに、結果的に彼らにとってのその行為は、ただ単に教師によって身体に加えられた教師自身の自己満足的行為と思える、からなのだろう。

 教師、指導者であるからこそ「一般的に体罰容認」なんて呟いていないで、「体罰厳禁」の立場から、自己の指導過程を反省して、教師、指導者としての児童・生徒、被指導者との関係という大きな流れにおいての、その個々の児童・生徒、被指導者との個別的関係の流れで、自分のベストと思える指導を行うしかないのだろう~

 体罰、暴力、いじめ…と言われてしまうのは、それが体罰、暴力、いじめだから問題なのでは無く、その行為が体罰、暴力、いじめ…と思われてしまうその指導者の指導が問題なのであろう~

 また、児童・生徒、被指導者ならば「体罰禁止」等と叫んでいないで、体罰、暴力、いじめ…と、そこまでの行為を指導者にやらせてしまう被指導者自身の言動こそ反省すべきであろう~

 互いに相手の立場に立っての思考こそが必要であろう~に…

今の世の中、自己の立場だけからの自己主張、自己の正当化ばかり…

日本文化の優れた遺産たる「阿吽の呼吸」は、今~何処…






理屈だけでの自己の正当化の空虚さ…

2023-06-24 15:30:42 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月31日

今日ラジオを聞いていて、とても面白いものを小耳にはさんだ…

七十歳の祖母と七歳の孫との会話。

祖母がおやつ?を食べていると、孫がやって来た。

孫:  「おばあちゃん…それ!私にも頂戴!」

祖母:「駄目!これはおばあちゃんのおやつ!あなたはこれから先も、おいしい物をいくらでも食べられるんだから…」

孫: 「おばあちゃんは、七十年も生きてきて、おいしい物をいっぱい食べてきたでしょう。」

祖母:「…………」

細部は違っているかもしれないが…以上のような会話だった…

この話は以下のようであれば、上手くいったのに…

 祖母:「私は今日まで美味しいものをたくさん食べてきたし、成長期の○○ちゃんだから、これ食べていいよ!」

 または、孫:「私は、これからも美味しいものをいっぱい食べられるから、これおばあちゃんにあげる!」とか…

 
これを聞いた時、勉強ができない、成績が悪い生徒に対しての、教師、生徒、保護者の以下の考え方を連想した。

教師:「勉強ができないのは、本人が私の言う事をちゃんと聞いて勉強しないから~」

生徒: 「勉強ができないのは、授業中まわりが五月蝿くて集中できないから~」

保護者: 「うちの子の勉強が出来ないのは、先生の教え方が悪いから~」

この三通りの理由―考え方は、それぞれが正しく間違ったものではない。しかし、三人とも「勉強ができない」原因を他人に求めている。これでは「勉強ができない」現実を変えることはできないことになる。

では、どのように考えれば良いのだろう

教師は自己の指導法を反省して以下の指導を行う。多くの生徒に分かり易い授業。生徒の向上心を刺激してやる気にさせる指導。授業に無関係な私語をしないで話を聞ける指導。

生徒は基本的に勉強ができないのは自分学習態度の問題だと反省して、周りが騒がしい時は先生に言う、席を前にしてもらう、教科書を見て自分で考える…とか方法を考え実行する。

保護者は教師の指導法を問題視するのでは無く、自分の子供が、他人の話を聞けて、その意味を理解できるよう、日頃から親自身が子供に語りかけ、その反応や感触を確認しながら、人の考え感情を感じとれる子供に育てる努力をする。自己の感情コントロールができる精神力が育つ躾をする。


昔に読んだ本に「人は他人を変える事はできない。しかし、自分は変える事はできる。」
と、書いてあったが…

 今の私は、この言葉を次のように理解している。

「人は直接に他人を変える事はできない。しかし、人は自分を変え変わる事で間接的に他人を変える事は可能である。」~と…

先生、教師、指導者…指導的立場に立つ人物であるからこそ、「体罰厳禁」を肝に銘じて指導にあたるべきであろう~

「一般的に体罰は容認されるべき…」とは、体罰を受ける受けた側、被指導者が語ってこそ、正しいものになるのである。

現在、果して、この事を本当に理解できている真の指導者は、どれ程~存在しているのだろう~






「体罰」と「非体罰」との区別と連関 2013/01/28 「ライムライト」に見る“体罰” by 心に青雲ブログを読んで~

2023-06-24 15:27:17 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月28日
「体罰」と「非体罰」との区別と連関 2013/01/28 「ライムライト」に見る“体罰” by 心に青雲ブログを読んで~

チャップリンの『ライムライト』の中での、以下のシーンについて考えてみた。

 ……引用開始……

再びテリーはダンサーの職を得、新作バレエのトップダンサーに抜擢される。そのデビューの直前、テリーは舞台に出る怖さからまた足が動かなくなったとカルヴェロに訴える。

 そのとき、カルヴェロはテリーを思い切りひっぱたくのである。しっかりしろ、お前には出来るんだ! と叱りつける。それまでのあくまでテリーに優しかったカルヴェロから豹変した。
 しかしそのお陰で一瞬にしてテリーは正気に戻り、見事に舞台でバレエを踊る。

 ……引用終了……



ここで引っ叩いたテリー、引っ叩かれたカルヴェロのそれぞれの思いをみてみると、テリー=カルヴェロに舞台で踊って欲しい、カルヴェロ=舞台で踊りたい、この両者の思いの一致がここに存在している。

 しかし同時に、舞台で踊りたい思いのカルヴェロであるにもかかわらず足が動かない、という矛盾=想いと身体の不一致、が彼女には存在している。

 この矛盾の解決法=即効的解決法が、テリーによる「引っ叩き」であった。

ただ、彼テリーは、初めから引っ叩こう、引っ叩けばカルヴェロの足が動き踊れる、と考え思って引っ叩いた訳では無いのだろう。彼は自分の想いの全てを「引っ叩く」で表現したに過ぎない…。しかし、彼女は、その彼の強い想いに押してもらい、彼と自分の想いを合わせた認識を意志して用いて、言う事を聞かなかった自分の足を動かしたのだろう~

 また、ここで、日頃から優しいテリーが、その人柄でのカルヴェロとの交友関係も重要なポイントである。日頃は優しい彼テリーの「引っ叩き」だったからこそ、彼女カルヴェロの足が動いたのだろう。

 この「引っ叩き」を体罰とは呼んではいけないと私は考えている。何故ならテリーはカルヴェロに踊れない「罰」を与えた訳でないから。

 翻って教育現場で「体罰OK」となったら、どんな事が予想できるか?

 それは、人格的未熟な教員が未熟な児童・生徒を「体罰」で強引に指導してゆく姿なのだろう。

 教師たるもの安易に「体罰」に頼ることなく、人間的迫力、人睨み一声で悪い事した意識のある児童・生徒をビビらす凄身ある身体的表現能力を習得すべきであろう。

 と~同時に児童・生徒の自己正当化の自己の非成長・非教育的屁?理屈を打ち砕いてしまうような学問的教育的論理を彼らの理解可能なレベルで語れる頭脳と言語表現能力の養成も求められるのだろう~

 このような努力をしないで、身体に手or足による直接的刺激や打撃での指導方法では、初期の頃or表面的には効果・結果は得られるだろうが…その内に児童・生徒にその教師の無能さが見抜かれ、彼らを教育的には指導できないことになるのだろう~



 多くの人々は「体罰禁止」、「体罰容認」と表面的部分に拘り過ぎている、と私には感じられている。

 私は教員の「体罰禁止」大賛成である。その「体罰禁止」の規制・制約の条件のもとで、児童・生徒との教育的人間関係を築き上げ、その想いの深さ強さから、「体罰的指導」をしてしまったとしても、その行為を「体罰」とは決して思わせないような教師を目指すべであろう…教師たるもの…

 教育現場での、「体罰」と「非体罰」とは指導者と被指導者、この両者の人間関係の流れ、全体を貫く信頼関係と、その時々の両者の認識の過程的関係の中で決まるものであり、表面的「体罰禁止」、「体罰容認」を叫んだところで、何の意味があろうか…

 そう~私の思考の深化の助けになっているという点で意味あるものなのだろう~が…

このネットとは本当に便利である。自分で考える前にネットで検索すれば、多くの考えても思ってもみなかった考えをドンドン知ることができてしまう。

 だからこそ…現在の私は感じている。

そんな多くの考えの中から、ついつい自分の考えや思いにピッタリ合うものに即賛成してしまう~等身大の自分に満足してしまう危険を…

 あらゆる読むことの可能な意見、考え、感想に、即~同感・共感・共鳴すること無く、全てを対立物の統一的把握を行う中で、それらの本質的共通部分に自身の思考を近付けていけたら…と…



もう一度10年前の私に戻って考えてみよう!

心に青雲ブログ「岡目八目さんの教育論」を読んで…

2023-06-24 15:22:42 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年01月27日
心に青雲ブログ「岡目八目さんの教育論」を読んで…

「体罰」について、禁止or容認と色々と書かれている。「体罰」とは、ある行為に付けられた呼び方であり、時には「しごき」、「愛の鞭」、「暴力」…等とも呼ばれたりもしている。

 「名は体を表す」と言われているように、ある人がある行為をどの様な名のもと=意識で行ったかによって、その結果・効果も異なってしまうものである。

 従って教育現場においては「体罰」ではなく、教育的指導であってしかるべきであろう。

 では、ある行為を「体罰」として行う事と、教育的指導として行う事とでは、何がどのように異なってくるのだろうか。

 教育的指導とは、その児童・生徒が「文化遺産の継承と発展」ができるように、指導することである。即ち、そのある行為とは、児童・生徒の変化=意図的成長を期待してのものである。従って、その教育手段を用いて指導を行っているには関わらず、目的とする効果・結果が現れない場合、その行為を見直す必要がある、と私は考えている。

 勿論、短期では駄目で、長期的持久戦的指導が必要な場合も当然あろう。しかし、「体罰」と呼ばれ得るその行為とは、「罪に対しての罰」的もの「失敗に対しての罰」的で、即効性あるもの、急速な量質転化を期待するものであろう。

「急速な量質転化」の為の手段であるなら、同一人物に用いて即効的結果・効果が出ない場合は、継続的使用や多用すべきではなく、別の手段を考えて然るべきものであろう~

 上記の観点より、教育現場における体罰的行為の多用や継続的使用は禁止されて然るべきであろう。当然に教師たるもの「体罰」を加えるという意識で、その行為を行うべきものでもない、と今の私は考えている。

 初めて小学三年生の担任になった時、そう23歳の時、私は児童の授業態度、姿勢、学校での生活…を緊張感あるものにしよう、と考えた。そこで、「気を付け」と立つ時、指先をシッカリ伸ばす事、足の踵を付ける事を徹底することにした。

 口で注意しても、気付けない、出来ていない児童には、掌への平手打ち、踵を付けていない児童へは、踵への蹴りを入れて指導した。これは指導法として、身体感覚への直接の指導としてとても効果があり、何人かに行ったところ、それ以後は口頭での注意で十分な指導効果を得る事ができた。

 これを人は体罰と呼ぶかもしれないが…私はあくまで「できていない罰」では無く、教育的指導として用いたのである。

 また、身体への打撃だけではなく、ドスの効いた太く大きい声、児童が怖いと感じる目つき顔つきも練習したものであった。

 また、大声で児童を睨み怒鳴りつけ叱っている時でも、横から無関係な他児童が話し掛けてきた時は、瞬時に普段の顔、声に戻しての対応を心掛けたものであった。


現代の小学校高学年から中学、高校では、怖い物知らず我儘な自己中心的児童・生徒もかなり
いるようで、口頭での注意を聞けない児童・生徒のせいで、公立中学では授業が思い通り進まず、真面目な教師ほど精神的にまいってしまい、休みがちになってしまうそうである。

 このような状態で「体罰禁止」を「体罰解禁」にしたら、どうなるか…

 学生時代にまともにスポーツや武道で身体感覚、身体コントロールを習得していない教師が、教育的指導の名の元に遠慮なく「体罰」を児童・生徒に加えたら、ひ弱な現代の子供達は如何に相成る事でしょう…

 教師は「体罰」的教育手段に頼る前に、ひと睨み、ひと怒鳴りで児童・生徒を黙らせる迫力と自己の指導への理論的裏付け、その自信からの気迫、そして、その効果・結果を冷静かつ客観的に判断して日々の反省を実践するべきであろう~。

  従って、岡目八目殿の以下の言葉は、教師の立場からは、決して思ってはいけないものである、と今の私は考えている。

 ……引用開始……
そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません。大事なことは個の感情が何よりも優先されるべきではなく、日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として成長することであるからです。それが教育の目的であるからであり、その教育の目的から判断されなければならないからです。ところが、現状は個の命・人生・感情が何よりも優先され、そこから判断されてしまって、結果として教育が損なわれてしまっています。

 ……引用終了……
 

 そもそも…現代の教師のどれだけが「日本國民全体が日本國を見事に発展させるためにふさわしい日本國民として」児童・生徒を「成長」させるの視点で彼らと関われているのだろうか?

 「君が代」静聴で起立しない教師に「日本國を見事に発展させる為」等という視点での教育が可能なのだろうか?

 「個の感情が何よりも優先されるべきでなく…」という一般論として正しい事も、教師自身が「日本國」的視点でなく個人的視点でしかない以上、「禁止の体罰」を用いた、その体罰的指導そのものも個人的感情を優先したものに過ぎないのだろう…

 以上の視点からも現代の多くの教師による体罰は、個人的感情を優先した私的罰になり得る可能性大である、と私には思えているのだが…


「そこで今問題になっている、体罰についてですが、一般的に言って体罰は、教育指導の一手段として容認されるべきであり、禁止されるべきではありません」(by岡目八目)と書かれているが、教師側に「体罰」を教育的手段として使える実力があるとは思えない現時点では、一般的に正しくとも、その実施の為の条件不足で実際には否認されるべきものであろう~以上は私の私的見解で個人的意見である…

 そもそも体罰的教育手段は、劇薬的で副作用的ものも強いのである。この指導を実施した場合、教師たるものは、その後の効果・結果を冷静に客観的に観察・分析して、くれぐれもその指導を児童・生徒に体罰と思わせない指導、関わりが不可欠であろう~

 児童・生徒に「体罰」と思われ、言われた時点で、その教師の指導は失敗である、と私は思っている…

 一般論とは、あらゆる立場を離れて一般的観点による論理である。しかし、現実の生きている人間には、その人のそれぞれの立場というものがある。

 この場合、教師の立場からは「体罰的指導」を容認してはいけないと思う。教師たるもの安易に「体罰的指導」に頼るべきではない、と私は考えている。それでも、あらゆる考え得る教育的手段を尽くした末に、それでも熱意のあまり「体罰的指導」をしてしまった時は、当人は反省すべきであろう。しかし、児童・生徒や保護者は、その「体罰的指導」の正当性=他に手段が考えられず熱意のあまり、を容認し了解して従うべきであろう~

 そのように児童・生徒や保護者に了解され容認されようが、教師たるもの「体罰的指導」に二度と頼るべきで無い、と反省するべきであろう~それでも…

 一般論は一般論であり、一般論をそのまま用いて、個別の問題解決は難しいのだろう…
 


↑~

凄い!十年前の私へ拍手~
~パチ!パチ!パチ!~