goo blog サービス終了のお知らせ 

新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

量質転化の目的論

2020-10-04 12:49:06 | 弁証法

量質転化の目的論


量質転化とは、量の増加の結果、質が変わる、という事。

練習・訓練の結果、上達する、という事。


前前回の「量質転化化の二重性」で
「歯磨き」についての量質転化化を取り上げたが…

そこでは、
量質転化化の目的の問題が
考えられていなかった。


歯磨きの量質転化化の目的には、
大きく以下の三通りが考えられる。


歯磨きの「習慣化」の量質転化か、
歯磨きの「磨き方」の量質転化か、
口腔内の「状態変化」の量質転化か、



「習慣化」なら、朝だけ、朝と夜、朝昼晩、または食べたら歯磨きの選択。
「磨き方」なら、色々な磨き技から基本的・効果的な技の選択。
「状態変化」なら、磨き技の効果的な使用法の選択。


別の視点からは、
歯磨きを、何時、どの様なやり方で、何処に対してどのように使うか、という事。

歯磨きの目的が「虫歯予防」であるなら、
究極的には、虫歯になり難い口腔内の状態の維持であろう。

それは、口腔内での虫歯の原因除去である。
その為には、何かを食べたら必ず歯磨き。
それも歯・歯茎を傷めず、口腔内の全ての食べカスの除去。
それには、歯の表面、舌の表面、歯の間…の食べカス除去であろう。



量質転化化での最重要課題は、
正しく適切な目的設定であろう。

例え、歯磨きの習慣化が量質転化化できても、
その、磨く時、磨き方、磨く場所、が正しくないなら、
結果的に口腔内の状態変化は得られず、
頑張っても、虫歯になってしまう…


なんて、骨折り損の虫歯儲け…であろう。



量質転化化の二重性

2020-09-21 10:15:23 | 弁証法
量質転化化の二重性


弁証法の三法則の一つに「量質転化」がある。

これは、「ある事」の繰り返・量の増加で、
「その事」の質が変化する、事を言う。


その量質転化・変化が起こっている状態を
動的表現として「量質転化化」と書く事にする。


例えば、
毎日朝と就寝前に歯磨きをする。
この繰り返しでの量質転化化は?

一、毎日の朝と就寝前歯磨きの習慣化。
二、その歯磨きの結果・口腔内の状態変化。

この歯磨きの習慣とは、人間の行動・機能の変化であり、
口腔内の状態とは、口腔内という人間の身体・実体の変化。


ここに「量質転化化」の二重性が見て取れる。
この二重性は、全ての量質転化化に言える事。


更に、この場合の「量質転化化」の量と質について書くなら、

たった数日の繰り返しで習慣化する者もいれば、
何ヶ月も繰り返しても習慣化でき難い者もいる。

また、容易に口腔内が変化する者もいれば、
なかなか口腔内の変化が起きない者もいる。


この違いは?
一つ、当人の意識の相違。
二つ、当人の歯磨きの仕方の相違。


意識とは、
虫歯になりたくない!という思い・感情。
朝も夜も歯磨きすれば虫歯にならない(なり難い)!という信念。
これらが強い程に、少ない回数での量質転化化が起こり易い。



歯磨きの仕方とは、
歯の汚れを落とす為の正しいと言われている
歯磨きの仕方を実践しているか?

この仕方が、自分の歯に適切であればある程に
量質転化化は容易である。


更には、一回の歯磨きの時間の問題もある。
一般的に言って、一回の時間が長い程に、
量質転化化は起こり易いが…


それでも、一回の時間が長すぎると、
意識の継続が困難になり、
結果的に時間の割に効果がない事もあり得る。








三つの弁証法

2020-04-14 16:03:39 | 弁証法


何でも、安倍総理が自宅でくつろいでいる動画をアップしている、そうだ。

それについて、三つの弁証法で考えるなら以下のようになろう。

安倍総理の意図は、
新型コロナ感染拡大防止の為に、
国民に自宅でゆっくり過ごして下さいの想いを込めて、
総理自身が手本を示したのであろう。

先ず、コロナウイルスに関する個人的な「自然の弁証法」、
次に、社会的な拡散防止の為の「社会の弁証法」、
そして、自宅待機でストレスを軽減すべく「精神の弁証法」…

安倍総理でなく、安倍さんであれば、その動画も特に問題はない。
それは、国民にストレス軽減を求めてのモノだから、である。

しかし、安倍さんではなく、安倍総理という社会的立場なら…
その動画は少々問題化する。
ここに「社会の弁証法」が顔を出す。


その理由は何か?
それは、国民が自宅待機をゆっくりくつろげない社会的な理由にある。
その理由とは、社会において「働かざる者、食うぼからず」である。

自宅待機とは、収入減少につながり、生活困難へと向かう。
国家の指導的立場として国民にくつろげる自宅待機を欲するなら、
国民が、働かずに、自宅待機でも、食うに困らないようになり得る、
総理としての頑張っている姿を見せてこそ、
国民が自宅が自宅で安心して待機可能になる、というモノであろう。


総理大臣が頑張って、全国民の生活を保障しようとしている、
そんな姿こそが、的確な動画のアップとなろう。
もっとも…そこに結果が見えない場合は別であろうが…


弁証法の駆使とは、
自己の身体的な条件・状況、
社会的な立場・状況、
精神レベル・状況、

に即して用いてられてこそ、有効である。


すみません総理…
一国民が、こんな事を書いて…

頑張っている姿を、見せないよう、が和風、、
頑張っている姿を、分かってもらおう、が洋風、
周囲を無視して、自己中で頑張る、が中華風、


ここにも、三つの弁証法が…








続・「頑張る」について…

2020-04-10 13:07:58 | 弁証法


「頑張る」とは、辞書には以下のように書かれています。

頑張るー
① 最後まで一生懸命努力する。
② 自分の考えを譲ろうとしないで主張し続ける。

人は、
どのような時・状態なら一生懸命に努力できるか?
どのような時・状態だと一生懸命も、努力もできないか?

また、
どのような時・状態に「自分の考えを譲らず主張する」か?
どのような時・状態なら「自分の考えを譲り主張しない」か?


ある人が、「頑張っている」時、
その人は、「何かを努力してやっている」。

その「努力してやっている何か」が正しいなら、
それは、当然に求める結果につながる。
求める結果が得られたなら、
普通それは更なる努力の糧となり得る。

ある人が、「頑張り続けていられる」なら、
そこには、納得できる結果が生じ続けている、だろう。

納得できる結果が得られない状態・時には、
人は、頑張りを諦めたくなる、だろう。

それでも、時・人によっては、結果が出なくても、
その努力を一生懸命に続ける場合もあり得る。

この場合は、
「結果の出ない一生懸命な事・努力」を
「引き続き一生懸命に努力」し続ける事になる。

言い換えるなら、
「初めの頑張り」を頑張り続けてやっている、
と言い得る。


「頑張って!」と言われて、嫌な感じを受ける場合、
それは、その頑張った結果に納得できていない、のだろう。

そんな時、頑張っている・その努力は評価しつつも、
その「一生懸命」の中身、その「努力」の中身の再考が必要である。

人は、日々生活している。
生活とは、食べ・動き・休むモノである。

食事・運動・労働・休息のバランスを無視しての、
「一生懸命」・「努力」が「頑張りすぎる」、
というモノなのだろう。




「真理は二つ」とは?

2020-03-08 13:00:19 | 弁証法
「真理は二つ」とは?


昨日から、
「南郷師範の武道哲学 著作・講義全集 第三巻」
を読み始めた。

そんな中で、
初めの「読者への挨拶」から度肝を抜かれた。
正しくは、今までの自分の先入観に矢を射られた、とでも書こうか…

私は、「真理は一つ」だと信じ、思い込んでいた。
でも、南郷師範は
「真理は一つではなく、必ず二つ(二面性・二重性)なのです。」
と書かれている。

その理由・訳は以下である。

~~~~引用開始~~~~

……前略……

 弁証法的に考えるとは(弁証法を学ぶとは)、全ての「モノ・コト」に関わる変化を知り、識ることですので、変わる面(変わらない面)、変わる性(変わらない性)を、必ず二面性(二重性)が分かることがとても大事なのです。

 しかし論理学としては、対象の変わる「面」・「性」を、変わらない「面」・「性」を、必ず二面性(二重性)で捉えること!が大事なのです。真理はは一つではなく、真理は必ず二つ(二面性・二重性)なのです。ですから、初学者は自然の性質も、社会の性質も、精神の性質も必ず二面性・二重性だと分かることから学習を始めるべきです。

……以下省略……


ここから、同じ「二面性・二重性」でも、「弁証法」と「論理学」では違っている事が分かった。

「弁証法」では、対象と関わる過程で、その「二面性・二重性」を見つける・発見する。
「論理学」では、対象と関わる前から、対象を「二面性・二重性」で捉えようと試みる。

その違いは、
弁証法は、対象・事実から「二面性・二重性」・論理へであり、
論理学は、論理・「二面性・二重性」から事実・対象へである。


だから、師範は、
論理学の以前に
弁証法学の学び・習得・修得の
必然性を強く主張している、のだろう。


例えば、今勤務している小学校で、
中学年のクラスが、ほぼ学級崩壊状態化して、
担任が長期病欠となり、急遽、他の教員が担任となった。


その力量の凄い事と言ったら、驚異的である。
新たな担任の授業では、全く立ち歩き・離席もなく、静かに学んでいる。
しかし、他の教員の授業では、離席・立ち歩き、無駄な私語…授業崩壊的…である。


この場合の「二重の面・二重性」とは?

過去の担任と現在の担任の授業での子供達。
新たな担任と他の教員の授業での子供達。

過去も今も、同様に静かに真面目に授業を受けている児童。
今は、過去と違って静かに真面目に授業を受けている児童。

担任の授業も他の教員の授業も静かに真面目…
担任には真面目、他の教員には不真面目…

新たな担任の授業を見ていて、痛感・実感するのは、
その時々の不真面目でない児童の反応・言動を的確に捉えつつ…
その時々の授業の方向性・意図・目的から大きくが外れないよう、
個別的に対応している。

この不真面目でない児童達も、
教師の指示・教えに不真面目であっても、
自分の思い・快感…に真面目に従っている。


それは、
「面倒くさいからやらない」、
「分からないからやらない」、
「出来ないからやらない」、
「嫌いだから聞かない」、である。


新たな担任の指導の一つに、
児童・子供は、
「面倒・面倒くさい」とは、言ってはいけない、
とい指導がある。


自分の面倒くさいは、他の人の面倒くさい、とは限らない。
自分のできないは、他の人の出来ない、とは限らない。
自分の分からないは、他の人の分からない、とは限らない。
自分の嫌いは、他の人の嫌いとは、限らない。


面倒な事に慣れれば、面倒でなくなる。
出来ないから、出来るようにしょう。
分からないから、分かるようにしよう。
嫌い・嫌いも好きなうち。


児童・子供は、好きな先生・人の言葉には素直になれるモノ。
子供・児童によっては、好きな先生・人の言葉にも素直になれない時もある。
嫌いな先生・人の言葉でも従える児童・子供もいる。


その違いは、その子供・児童の中の、
価値観・思い…の相違だったり、
その量質転化化のレベル・質だったり…であろう.