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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

感情と表現

2019-06-08 12:30:22 | 悟りシリーズ

ふと思った…
日々の生活の中で、感情を抑えられない事は、悪or善?

勝利して大勢の前での大泣きは?
怒りで相手を殴る事は?
笑いまくって周囲に唾をまき散らす事は?
楽しくて一人で喋り捲る事は?
愛の告白を断られてその場で大泣き?

誰かが「苦しい時は笑え」と言ったが…
本当にそうなのか?

苦しい時に笑えるはずがない…
という人もいるが…

恋は「する」モノではなく、
「落ちる」モノという人もいる。
「する」と「おちる」の違いは?


「人間は感情の動物」だそうである。
ならば、感情の制御は可能なのか?
そもそも、感情制御は必要か?


ある人は言っている。
泣きたい時に泣き、
怒りたい時に怒り、
喜びたい時に喜んで、
悲しみたい時に悲しんで
何が悪い!


それでも、ある人が言う
「感情に溺れるな!」と…

教育での「アメとムチ」とは何の事?
善い事をしたら、誉める・アメ。
悪い事をしたら、叱る・ムチ。


これは、
善い事をする=快感。
悪い事をする=不快。
それらの感情レベルでの教育である。


こう考えると体罰も同様である。
これは罰ではなく、教育的刺激となろう。

人は怒りの感情で、相手を殴ってはダメであろう。
殴られた人は、相手を怒らせた後悔・反省ではなく、
相手から殴られた痛み・怒り・悲しみの感情を抱いてしまうから…


怒りの感情を相手に知らしめたいなら
怒りを言葉に込めて、相手に叩きつけるのが善いのだろう。


それは、
人によってまちまちで、
鋭い言葉、きつい口調、
悲しい言葉、
理路整然とした言葉、
ユーモアたっぷりの皮肉、
無言・沈黙だったり…


結論的に言って、
強烈な感情は、その人的な態度・言葉・行動と直結し得る。
自閉症的なら、感情は表面化せず、自己の中で溜まり続け、
ある瞬間に大爆発する、ようだ。

情緒障害児の場合は、感情は即態度・言葉・行動となり、
その態度・言葉・行動が学校・集団生活を乱すモノ的である。



そうそう~昔に師範が言っていた。
空手の達人は、
『このやろう!』と思った瞬間には、相手を殺している。
だろう…と、


何事も技化しえた時、それは感情と直結している。
だから、相手の事を「『このやろう!』とは思わない達人。

相手に二重化して、相手の気持ちになり得て、
『この野郎!』⇒『そういう奴なのか!』⇒殺人の回避となる。
「怒りの感情」ではなく、「納得の感情」への変換なのだろう。


だから、
現代社会での、合社会的な武道空手の達人の養成はし難いなのだろう。


いやはやなんとも…
思っている事を言葉にするのは難しい…





禅の道⇔禅問答

2018-10-29 18:18:19 | 悟りシリーズ



自由びとの信条は、「有言実行」でありたい!
なので、以下に転写した「無門慧開」コメントを再読した。

~~~~転写開始~~~~

最後の最後に、
真面目に書くなら、以下の部分の記述は興味深いモノがあります。
禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。


自由びとさんが言う「事実は小説よりも奇なり」というのは私も同意しますけれど、そこから連想するのはこの「禅問答の続編」本記事の「まるを描かずに、まるを描かく」の実際の観念なんですよ。人間は、この言語表現されたことがらを如何に実際に考えているのか?という事実的な経験上話なんです。

そこを、自由びとさんのように「まるを描かずに、まるを描く」というのだから「まるというのは描かずに描けるものだ」なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論と違って、「プディングの味は食べてみないと分からない」とする私の解法だと「まるを描かずに、まるを描く」という文は「まるを描かない」+「まるを描く」であって、もっと詳しく述べると「まるを描く像の否定」+「まるを描く像」であり、最初の「まるを描く」像と次の「まるを描く」像とは違ってると理解できるわけです。

ですから、この認識は「最初の像」→「次の像」という像の変転として理解でき、「まる」という言語で表現された指示対象だけ比較するならば「まる」≠「まる」なわけで、時系列で思い浮かべた違う像を同じ「まる」という言語で表現したということになります。

ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。

ですので「同じ言語で表現された指示対象は同じはず」だという自由びとさんの前提が違っているのであり、頭の中での像の変転というダイナミズムを等閑視した形式論理的な自由びとさんの解法は無意味だと考えますね。

まあ、現代の分析哲学は言語分析から発展したといいますから、こうした禅の言葉をどう扱っているのか興味深いですけどね
(笑)





>禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。

いえね、既述した見解は私の見解なわけですよ。禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、それは盛られた器というか言語の文法をハミ出して内容の関連性として理解していく能力を人間の理解力(脳)は持っているなと私は気づいたわけです。

それは同一の著者の同一の書物の中であっても同じ語彙が違った意味で用いられており、また読み手も前後の脈絡から正しく違った意味として読み取ることが出来ているわけですが、この禅の公案では「まるを描かずに、まるを描く」という短いセンテンスの中で使われた同じ語彙「まる」で違ったモノを見ていること、人間はそうした思考や言語表現が出来るということを自分の問題・関心として披露したわけです。

このことは代数学のy=ax+bの文字式の扱いとは違うわけで、それはこうした人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起なんですね。

この私の課題は哲学教授なり仏教学教授なりの指導教官のもとで論文として仕上げるべきものですから、自由びとさんとしては私の仕事の完成を楽しみに待っていていただきたい。

いつの日か風の噂で私の仕事の成就を耳にすることもあるでしょう。

自由びとさんの見解は既にこの公案を禅問答としては扱わないとして「まる」を「わからないもの」として「描かずに描けるもの」なんて方針を立てているわけですから、この方向性で首尾一貫して思考されて下さい。

ただ、私としてはエジソンの「99%の汗と1%の閃き」を想起いたしました。自由びとさんって、本当に「閃き」の無い人ですよね(笑)


~~~~転写終了~~~~

初見した時は、分かり難かったので、後回したが…
熟読してみると…ビックリだった。

奴(無門慧開)は、自由びとの見解を相変わらず誤解している。

それは以下である。
>自由びとさんのように
>「まるを描かずに、まるを描く」というのだから
>「まるというのは描かずに描けるものだ」
>なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論…

これは違う!
私の初めの見解は、
<「まる」とは、「そのものを描かずに描けるもの」モノである。
<そんなモノは知らない!だから、それは正体不明のモノである。


初めから「まる」は「まる」なら、この問題は解けない。
解けないモノを解くなら「正体不明」が取り敢えず回答となろう。

それでも、先へ進めるならば、
その先は、「まる」の正体の解明となろう。

禅の回答として、
一つ「正体不明」を、そのコトとして体現する。
二つ「正体不明」を、あるモノとして体現する。

考え方としては、
それが実際の「まる」とするなら、
その「まる」とは何か?

例えば、我々が、「まる」を描けば、本当にそれが「まる」なのだろうか?
それが本当のまるなら、まるを描かずにまるは描けない。

ならば、まるをまるとして描けないまるはあるのか?
……
そんなこんな、
思考・思惟・思弁…等の繰り返しこそが、「禅」の求めている「悟れへの道」である。
簡単に答えて納得するのは、禅ではない。
しかも、回答・解答の正誤判定は、禅師がするものであり、
その答えへの自分勝手に自己満足は、あってはならないモノ…禅としては。


それを奴のように、
>矛盾律は正しく成立していることになります。
とか、
>禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、…
とか、
>人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起
とか…

奴のような自己満の塊のような態度では…
禅の道…悟りへ道を大きく外れてしまって…

「禅問答」が「禅」になり得ない、解答で自己満足している姿は、
他人の言説・見解を、奴的な解釈で理解・納得している姿と完全一致である。





禅問答の続編

2018-10-18 17:05:46 | 悟りシリーズ



前回の問い~
「まるを描かずに、まるを描きなさい。」
についての続編である。


「まる」とは、「そのものを描かずに描けるもの」モノである。
そんなモノは知らない!だから、それは正体不明のモノである。

ならば、正体不明なモノを描き続けて、
たまたま偶然に「まる」だった時、それが正解となろう。

すなわち、「まる」を描くのではなく、正体不明なモノを描いた結果「まる」だった。
それが、「まるを描かずに、まるを描く」事である。

ここで一つ問題がある。
それは、この問題の出題者が「まる」を知り得ているか?である。

もし仮に知らないのであれば、解答者が描いた正体不明物が、
たまたま偶然に「まる」だったとしても…それを正解とはできない!


認識論的に解題するなら…

「まる」とは、丸やマル、円ではなく、世の中に実在するモノ事であり、
その実在するものを「まる」という言葉で表現したのである。

なので、実在する「まる」を、絵画・言葉…で描いても、
それは実在する「まる」足り得ない。

それでも、その絵画・言葉を手掛かりに、
人は現実の「まる」をまると認識する、のだろう。

ここで、例え実在する「まる」をまると認識できたとしても、
それは、ほんの一瞬の事であり、次の瞬間その「まる」は別の[まる]へと変化している。
何故なら、万物流転と言われるように、全ては変化・運動している、からであり、
内界たる頭脳・認識に観念として「まる」を描けても、
次の瞬間、外界の「まる」は新たな[まる]になっているから…
ほんの一瞬の内界=外界に過ぎない…という事である。


これは、言うなれば、
我々は実在する「まる」を描けずに、
観念としてのまるを描いている、というものであろう。

なので、観念としてのまるの内実は、
外界の「まる」の変化に即して、
随時、更新し続ける必要がある。

その更新の為に必要なのが、
変化・運動性に富んでいる弁証法となろうか…





捨てるものは何もないというもの

2018-10-07 08:21:59 | 悟りシリーズ

結果と過程について…
結果に至る過程に必要なモノでも…
結果に至ったから不要なモノになる。

もっとも…
人は結果を出したら、
次の結果を求めるモノだから…

一度は、不要なモノになっても、
直ぐに、また必要なモノになり得る。


以下は公案に書かれている禅問答である。

「一切を捨てる」

 趙州和尚に厳陽善信(げんようぜんしん)が尋ねた。
 「私は、一切を捨てて何ももっていません。私は、どうするべきでしょうか」
 「捨ててしまえ!」
 「捨ててしまえといわれても、もう何ももっていないのです」
 「その、捨てるものは何もないというものを、捨てるのだ!」

 -趙州録-

ここに書かれている
「捨てるものは何もないというものを、捨てる」について…


「捨てる行為」と「捨てるモノ」

禅では、仏になる・仏の心を持つ事が悟り…なのだろう。
その心とは、何事にも囚われない心、なのだろう。

でも…人間が生きていく為には、モノが不可欠である。
人間以外の生物なら自然さえあれば生活可能である。
しかし、裸で生きられない、自然のモノを自然のままに食べられない人間。
衣食住全てが、人工的でなくては、生きられない人間にはモノが絶対必要である。

だから、必要なモノを求める心は人間にとって必然である。
必要だから取り入れ、不要だから捨て去る。


人間が、「全てを捨てよう」と思った時でも、
そこに、「捨てようとする心」はある、のである。


「全てを捨てよう」でも「全てを捨てられない」という矛盾。
これは、対立物の統一であり、弁証法的な運動もである。


ここでの「厳陽善信」の問題は、
「私は、一切を捨てて何ももっていません。」
という思いに対して、
「私は、どうするべきでしょうか」
と問うている事である。



仮に、「一切を捨てて何も持っていない」のなら、
その状態維持に努め、その状態の平常化こそ
「禅の悟りへの道」なのに…

もっとも…人間なので、
この「全てを捨てた」とは、「不要物は全て捨てた」であり、
それは、悟得へ必要なモノを保持し、不要物は全て捨てた、である。

ここで、一つの問いが…
その人が判断した「悟得へ必要なモノ」が真に必要なのだろうか?

この「厳陽善信」の場合、
まだまだ不要な余計な心が残っていた、という事であろう。

それは何か?
それは、今の己心を自覚できない心、であろう。
だから、このような質問が出たのであろう。


全てを捨てる~
コップの中の水を捨てるから、思いっきり、コップを振る。

それでも、数滴の水は残る。
なので、コップをそのまま放置する。
結果的に水滴は蒸発する。

全てを捨てたいなら、コップごと投げ捨てる、となる。


今「悟りを求めて…」いる私に必要とは、
私の求めている「悟りとは何?」という自覚である。

私は仏になりたい訳でも、仏の心を持ちたい訳でもない。

私は眼前の問題を私の納得可能な形で解決したい、のであり、
解決不能な問題に対しては、その解決不能な私の心を解決したいのである。

ここで「私の納得可能」とは、
それは、唯物論的な結果であり、
決して、観念論的な結果ではない。

結果は、唯物論的を求め、その過程は観念論的を求める。
この結果とは、周囲が納得・評価したモノ。
その過程とは、私自身が納得しているモノ。

従って、
結果が、周囲は納得・評価もないモノでも、
過程は、私自身納得・評価している場合があり得る。

この時、周囲の不服・不評を私自身が心の底から受け入れた時、
そこに矛盾・運動が発生する。

私は、納得・評価でも、周囲は不服・不評…
ならば、周囲を納得・評価させる為に、私は何をすべきか?














死に様は生き様・生き様は死に様

2018-09-29 11:38:55 | 悟りシリーズ



人生での選択~


昨日、NHKドラマ「半分青い」は~
すずめ(主人公)の大親友で看護師のゆうこが、
東北の大震災時、病院で動けない患者に最後まで付き添いつつ
スマフォに(万一の為の)遺言を録音して死んでいった、
そんな内容であった。

これを視て、今日の朝に以下のような事を思った~

初めは、これこそが、ゆうこ彼女の生き様であり死に様、
後から、それは看護師ゆうことしての生き様・死に様であり、
決して、母親・妻ゆうことしての生き様・死に様ではない。


看護師なら患者の事を、母なら子供の事を、
妻なら夫の事を、友なら友達の事を、
思い・考えるのが当然であろう。

平常時なら、
眼前に患者がいれば看護師的彼女、
子供がいれば母親的、旦那がいれば家内的、
そんな立場の自分であるのが普通・正常であろう。


人間は、色々な立場で生活している。
自分にとって、どの立場が重要か?で、
その人の生き様、死に様が決まってくる。

平常時なら、
特にそれを意識する必要はなかろう。

しかし、「死」を目前にした時、
そんな時こそ、自分に己に問うべきモノ、
それが、
自分にとって一番大切な事・したい事は何か?
であろう。

「大震災」という非常時、
目の前に、続きゆく「生」ではなく、終わりの「死」が迫っている時、
目の前に、患者が、子供が、旦那が、誰が…いようが、
自分の行動・行為の選択は、自分の心底の真の感情で決定すべきモノ。
その場の感情・気持ちに流されては………

眼前に患者がいるから付き添って死んでいく、のではなく。
心の底から、子供・旦那・親友…等の事を思い出し、
浮かび上がるそれぞの感情を対比させ、
自分の心底したい行動・行為を選択すべきだろう。

そんな事を家内に言ったら…
「看護師なら当然でしょう」と言われた。

仕事としての責任を問うなら、
看護師は病院の責任者でない。

仮にその患者の担当が彼女であっても、
その責任は看護師長にある。

仮に彼女が、そこ・その場の最高責任者であったとしても…
「死」を目の前にした時、眼前の他人の事ではなく、
死にゆく己の事を思い・考える、べきだろう。


己・自分が、何事を・誰の事を、一番に想っているか?
眼前の事物・人物と共に死んでいく事を心底望んでいるのだろうか?
この世の物事・人物に、深い想いを残していないだろうか?

生きられるなら、生への可能性があるなら、
全力で、生きる努力、生への執着は、捨てるべきでなかろう…

もっとも…
これらは、私にとっての「…べき」であり、
他の人にとっては、「…ない」なのかも知れないが…

どんな時でも、一度っきりの人生~
悔いの残る死だけは、避けたいモノである。
「死に様は生き様・生き様は死に様」
↑これナイス!



表題は、「人生の選択~」にするつもりだったが…
やっぱり、「死に様は生き様・生き様は死に様」にしよう。