goo blog サービス終了のお知らせ 

新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

強くなる上達法

2021-01-07 12:26:07 | 悟りシリーズ
強くなる上達法


https://stat.ameba.jp/user_images/20161211/18/huruhatatamasaburou/b4/73/j/o0480051713818966534.jpg?caw=800

これを見て以下のような事を思った。

人が相手に強い言葉をぶつけるのは、
弱い心の表現だったり、
己の強い意志を持ち続ける為だったり、
相手の勢いに負けない為だったり…
色々なケースがあろう。


ならば自信のある者は、
大声や強い口調、態度で相手を威嚇・威圧する事はないだろうか?

もしも強い者が、大声・強い口調や態度で相手を威嚇する時があるなら、
それは、敢えて、そのような態度で無謀な相手の勢いを抑える為、
そのままでは、相手から手を出しかねない状況なのだろう…


勢い余っている若者は、恐いもの知らず、
相手の力量も読み取ろうとしない無謀ものであろう。


そんな者達なら、敢えて大声・勢いで圧倒できる場合もありえる、
しかし、かえって、それが相手に手を出させきっかけになってしまう場合も…



弱い者の大声・強い口調、威嚇するような態度、
強い者の大声・強い口調、威嚇するような態度、
同じ相手へのモノであっても、結果は同じとは限らない。



認識の強さと言動の強さは、
必ずしも一致しないモノである。

認識が機能なら、言動は?
言=言語は?
動=動作・行動は?


認識・機能の強さ=実体・脳の強さ、なのだろう。




強さには、動物的な強さと人間的な強さ、
人間的な強さには、頭脳的な強さと身体的な強さ、
身体的な強さには、道具を使っての強さ、五体だけでの強さ…


弱い者でも、強くなれるのが人間である。
ならば、弱い者が強くなる為の上達法は如何に?


人間は認識的実在である。
それでも実体があるから認識できるのが人間。

真に強い人間は、認識が強い。
真に弱い人間は、認識が弱い。


弱い人間が強くなるには、認識を強くする必要がある。
でも、認識は実体の機能だから直接認識を強くするのは不可能。
しかし、弱い己の認識では、己の実体・身体を強くするのは無理。

ならば、どうするか?
だから、「形」なのだ!




弱い者は、強い者の認識の直接的な表現を形として、
その行動・行為・言動・態度を真似し創像する事から始める。
それが、威嚇・大声・強い言葉…
無理に、相手を威嚇・大声・強い言葉…等で、
その強い心の形を学び、


その強い心・認識の形で、
自己の求める強さに合致した、
武術、格闘技、スポーツ…等の実体的な動作習得を目指す。





全ての事物は区別と連関の中で~

2020-03-20 11:17:25 | 悟りシリーズ

学校の成績評価が、相対評価から絶対評価に変わって、何年経っただろう…
果たして…本当に絶対評価に変えてよかったのだろうか?


以下は「https://bizhint.jp/keyword/65044」からの転写である。


相対評価とは?

相対評価とは、個人の能力を、その個人が属する組織や集団内においてどのような位置にあるのか、相対的な位置を手掛かりとして評価する方法です。「A評価は○%、B評価は○%」というように評価の分布をあらかじめ決めておき、その枠にはめ込む形で集団を構成する個人の能力を評価します。

評価の対象者同士を相対比較して序列を行うことが最大の特徴と言えます。



教育現場での相対評価

相対評価が採用されている代表的な例といえば、やはり学校教育における学力評価でしょう。「5・4・3・2・1」の割合(一般的に5から順に10%、20%、40%、20%、10%)を決めておき、学校単位で実施する試験などの平均点や得点分布に基づいて個人の学力をそれぞれに当てはめる「五段階評価」や、その評価基準を全国で共通の指標(試験など)とする「偏差値」などが挙げられます。



絶対評価とは?

絶対評価とは、個人の能力を、その個人が属する集団内の他者の能力に関わらず、あらかじめ決めておいた評価基準に則って評価する方法です。事前に数値化された目標に対してどの程度到達できたかを判断する到達度評価以外にも、数値化が難しいことに関しては評価者が持つ基準によって成果を評価する認定評価と呼ばれる手法もあります。


教育現場での絶対評価


ゆとり教育が導入された2000年前後から、学校教育の現場でも絶対評価が取り入れられるようになりました。従来の学力一辺倒の評価基準から、学力そのものではなく個々に設定した目標への到達度や、学校や教員独自の基準に照らし合わせた評価方法によって、個に応じた指導を重視するようになったのが、その背景です。




他人との競争と自分との闘い…

現在のライバルを抜こうとする現在の自分…
過去の自分を追い越そうとする現在の自分…

自分との闘いは、ライバルとの闘いの中にも存在する。
相手が過去の自分なら普通に現在の自分なら追い越せるだろう…

そこに日々の学びがあれば…
その時が成長期であれば…


育ち盛り、成長期の児童・生徒・学生…ならば、
己の更なる成長・上達を求めるならば、
競争相手は、過去の自分より、
現在のライバルである方がいのだろう…

ここにも「二つの真理」が…?



絶対評価で得られる満足。
相対評価で得られる不満。

相対評価の不満を乗り越える為に、
絶対評価の自己努力を糧にすれば…


過去の評価では、
個々のテストは100点満点からの減点・絶対評価、
成績表は、五段階の相対評価であった。


さてさて……


これでは、「全ての事物…」となり得ない。


全ての現実の始まりは、自分の生誕からである。
全ての事物の始まりは、宇宙の誕生からである。

ここにも「二つの真理」が…



母の生誕と父の生誕があるから私の誕生が…
ここにも「二つの真理」が…


「真理は一つ」も真理なら、
「真理は二つ」も真理である。
ここにも「二つの真理」が…


観念論哲学の真理、
唯物論哲学の真理、

この「二つの真理」の統一から哲学の真理が…



観念論哲学の真理とは、人間の立場・精神・認識からみた真理、
唯物論哲学の真理とは、宇宙の立場・モノ自体…からみた真理、


「人間…」と「宇宙…」の真理の統一から「一つの真理」が…


全ては区別と連関の中から…




自由についての気付き~

2019-11-07 12:59:43 | 悟りシリーズ

先ほど、ネットで「禅問答」サーフィンをしたら…

そこには、禅において、
仏性を悟る為の道として二通りある、書かれていた。

一つは、公案に書かれた禅問答を通しての自由自在獲得への道。
一つは、座禅を組み通す事での無我の境地獲得への道。

そんな事を読みつつ私はフッと気付いた。


今の私が自由に生きるとは?

それは、特別支援学級補助員として、自由に振舞える事。
それは、高3男子の息子の父親として、自由に振舞える事。
それは、一人男性社会人として、自由に振舞える事。


今の私が、時々勤務している学校で『不自由』を感じるのは…
補助員の私が、私自身に教員としての言動・行為を求めた時~
その瞬間に、私が教師ではなく、補助員だと痛感した時である。

犬は、犬の本能で犬として自由に生きられる。
しかし、
人が犬に猫を求めたら、その飼い犬には自由はなくなる、のだろう。
飼い主から、犬を求められた猫は、きっと不自由なのだろう。
もっとも、本能のままに振舞っている犬・猫が、不自由を感じる事はないが…


翻った我々人間にとっての自由とは?
人間とっての自由に生きるとは?


それは、時々の環境・状況・状態…に即して、
己の実体・身体と機能・認識の最大限のベスト状態の
創出・維持可能な言動・行為の選択なのだろう。


それは、社会的自由と個人的自由の統一、なのだろう。


授業中、
普通のクラスでは、殆どの児童は教師の言葉を聞き、
その行為を見詰め従っている。
しかし、
学級崩壊しているクラスの多くの児童は、自分勝手な事をしていて、
教師の言葉も行為も全く気にしていない。

その児童達の自分勝手とは、
その時々の自分の思った事・したい事をする、であり、
そこには、「自分勝手」という一貫性はあっても、
社会的・全体的な一貫性はない。


学校で求められるべきも、根本的か「勉強」とは~
それは、
個人的な自分の勝手な言動を、
社会的な自分の考えに即して、
自分で制御する事。


今の私が、不自由を痛感する事無く、自由に振舞えるには、
私の中の、教師的私を滅して、補助員的私を貫く事であろう。

言い換えるなら、
それは、私の児童達への想いの体現方法の変換である。

そう…既にあるモノを「滅する」の無理だろう。
だから、「滅する」ではなく「無視する」と言える。


教師的心を、教員的に体現する、のではなく、
教師的心を、補助員的に体現する。

それも、これも…

教師も補助員も社会的な職業だから、
なのだろう。

主観的には教師であっても、
社会的には補助員である…
今の私…

そこに、
非常なる不自由さを日々痛感している私でもある。











「問題」とは何か?

2019-10-19 14:49:37 | 悟りシリーズ


問題は、実体・事実としてあるのではなく。
問題は、その人の観念内で生じている認識。


問題とは、その人の観念内での矛盾とも言える。
それは、外界・現実と内界・理想との葛藤・矛盾とも言える。

この事から問題の解決法は、二通りと言える。

それは、
一つ、内界である自らの観念・認識を変える。
二つ、外界である現実を変える。
であろう。

また、内界を変える方法も二通り。
一つ、自ら理想像を変える。
二つ、問題持続状態を感じつつも平気にする。


ある事を、問題と認識するのは、
その心理・感情・状態に不安・落ち着けないからであろう。

その不安・落ち着けないのは矛盾を感じるから…でもあろう。
もっとも~これを矛盾と捉えなくても、特に差し支えない。

そもそも…その状態で、
先へ進むことなく、解決なくても、
不安もなく落ち着いていられるなら、
何の問題もない事になろう。


国語・算数の問題は、他人が作った、他人の問題であり、
そんな他人の問題は、自分にとって何ら問題とはならない。
それでも、問題を作成した他人の認識に二重化できたなら、
その時から、その他人の問題は、自分の問題化するだろう。


矛盾状態に耐えられる認識。
不安を不安のままに、安心していられる認識。
超難問題を諦める事なく、解答を究明を続けられる認識。
不安を不安のままに、普通にしていられる認識。


私の勤務している学級の情緒障害児達は、
カッとなったら、
即~壁を蹴る、
教師を叩く、髪の毛を引っ張る
近くのモノを壊そうとする…

小学生で、腕力・体力も力もそれ程でないから良いが…
このまま。中学生になったら…大変であろう。

彼らに必要なのは、「カッ」となった自分状態に耐える心。
その気持ちを言葉で表現する事。

…そのような事なのだろう…

書く事・言う事が簡単であっても
その体得・修得は至難であろうが…






発達障害・情緒障害について…

2019-06-26 19:10:11 | 悟りシリーズ


情緒障害は、直接見る事は出来ない。
私は、
特別支援学級の中で情緒障害児とされている児童の中に、
それを視て取ろうとしてきた。

実体的事実として情緒障害はない。
機能的事実としてはある。

実体があっての機能であるなら、
実体の変化・運動を通して情緒障害を視て取る事は可能だろう。
では、それはどんな発達障害なのだろう?

私には、自己の感情コントロールの発達障害と思えた。
正確には、感情表現の社会的化・社会的制御と言える。
感情は個人的モノでも、その表現は社会的モノ。
もっとも…周囲に誰もいない状態ならば別であるが…


赤ちゃんが、何かあると大泣きして保護者に訴える。
一年生が、それと同様に、大泣きで訴えたら…
二年生が、やったら?
三年生が…四年生が…

それでも、
周囲の人々が、その子の大泣きの理由を理解でき、
そうなんだ…と共感可能なら、それは障害とは言い難い。
何故なら、それは誰もが起こり得るモノだから…




情緒障害児達は、五感・感覚が過敏で、
そんな・こんな事でそこまで怒る?泣く?笑う?

そして
そこまで狂暴になる?
そこまで荒れる?
そんな事をそこまでする?

普通の児童なら、
越えられないラインを軽々と越えてしまう子供達と言える。
それは、良い事も、悪い事も…色々とである。


例えば、
怒って、担任・先生の髪の毛を思いっ切り引っ張る。
悔しくて、給食をひっくり返す。
喧嘩中に転んだ友達の顔面を蹴る。
普通に話していて、突然に友達の顔面をパンチする…
嬉しくて、担任・先生に抱き着いてくる。
嬉しくて、担任・先生の後ろから思いっ切り飛びつく。


感情の豊かさ・大きさ・敏感さ…は個性であろう。
しかし、その感情の表現は社会的モノとなり得る。

その表現が、他人の許容範囲を越えたなら、
それは個人的ではなく、社会的な問題となり得る。


社会的な感情表現の習得には、その手本・見本が不可欠である。
社会的な感情表現の修得なら、同年代の子供との共生が必要だろう。


ならば…自閉症とはどのような障害なのだろう。
端的には、感情表現が苦手で、感情の変化・運動を避ける事を求めたモノ?


情緒障害が、積極的な感情表現の制御障害・出し過ぎなら、
自閉症は、障害による積極的感情表出の放棄…かな?


それらは、
情緒障害が、感情の変化・運動の過剰な表現状態なら、
自閉症は、それを避けて安定した世界の中にいる状態。


一方が、過激な感情表現で周囲と上手くいかない状態なら、
他方は、感情表現ないが故の周囲からの無理解状態だろう。