史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

天下統一(韓の滅亡)

2019-03-26 | 始皇帝
もともと韓候は晋の公族出身で、従って姓は周王室と同じく姫であり、氏の韓は地名に因るものです。
戦国も半ばを過ぎると、魏秦楚の三国に囲まれた韓は、七雄の中でも最弱というのが定位置となり、その国土は諸国の侵食によって縮小の一途を辿っていました。
しかし独立間もない頃の韓は、隣接する魏と並んで晋を二分する勢力であり、その国土も周王室の直轄領(洛陽とその周辺)を中心に、それを韓魏の二国が半周ずつ囲うような形で分けられており、むしろ天下の中心に位置する有力国でした。
その後は戦国の常で国境は絶え間なく変化し、特に魏との間では各地で複雑に領土が入れ替り続けましたが、やがて戦国も末期の頃になると、中原を西から東へと流れる黄河を天然の国境として、その北岸を魏領、南岸を韓領(但し遷都後の魏の国府大梁は黄河の南側)とする形でほぼ定着していました。

なまじ天下の中心部に位置していた韓は、四方の全てを他国に囲まれていたため、外へ向けて領域を拡大することが甚だ困難でした。
しかも韓の外縁を覆っていたのは、魏・秦・楚といった自国よりも強大な国ばかりであり、要は常に八方から内側へ向けて強い圧力を受ける立場だった訳です。
確かに後の曹操や織田信長もまた、中央の小勢力から身を興していますが、両者の成功に共通しているのは、彼等自身が稀代の偉人だったというのは無論のこと、自領の全方位で強大な勢力に囲まれるという、殆ど絶望的とも言えるような状況にはなかったことです。
言わば周囲のどこかに自領を巨大化させるための突破口が残っていました。
韓と同じことは魏についても言えて、もし魏が最盛期を迎えていた武候の頃に、せめて北隣の趙だけても併合していれば、まだ存続の可能性もあったと思われますが、それができなかったことで魏もまた、韓と同じく中原に封じ込められてしまったのでした。

ただ最も早く滅亡したからと言って、当時の韓に人無しという訳ではなく、むしろ優れた人材も多くいました。
中でもこの時代の韓の出身者で、後世にも多大な影響を与えた人物が三人います。
鄭国、韓非、そして張良です。
年代から言うと張良だけが少し若く、故国が秦によって滅ぼされた時にはまだ無官の青年でした。
他の二人はまさに嬴政が秦王に君臨していた時代の人物で、どちらも詳しい生没年は不明ですが、世代としては始皇よりも少し上になります。
そして三人はその出自も違えば、置かれた立場や活躍した分野も全く異なりますが、各々が祖国の韓よりはむしろ秦との間に浅からぬ縁がありました。

鄭国は一般に水利専門の土木技術者と伝えられ、日頃から秦の脅威に晒されていた韓が、大規模な水利事業に着手させることで秦を疲弊させようと考え、そのための間者として送り込んだのが鄭国だといいます。
そして鄭国が秦王に提案したのは、共に渭水の支流である瓠水と涇水を溝渠で結び、両水の間に灌漑用水網を築くという構想で、その全長は三百里(約百二十㎞)にも及ぶものでした。
しかし着工から数年後に鄭国は、韓の間者であることが発覚してしまい、危うく処刑されそうになりますが、彼は秦王に対して自らが間者であったことを認めた上で、この事業が秦の国益になることを説いて工事を継続させます。
やがて鄭国が完成させた溝渠(後に彼の名を取って鄭国渠と呼ばれます)は、渭水の北面一帯を広大な沃野に変え、これによって秦には凶年がなくなったと言われるほどの成果を齎しました。
要するに秦を疲弊させようとした韓の思惑は見事に外れ、只でさえ富強だった秦に更なる余力を与えるだけの結果に終った訳です。

戦国末期になると黄河の南岸を国土としていた韓も、かつては黄河へ無数の支水が合流する河川の密集地を領土としていたことや、外へ領土を広げられない分、国内の生産性を高めることで国費を補ってきたことから、もともと治水や灌漑といった水利技術は諸国の中でも最高水準にありました。
なればこそ鄭国を用いての謀略だったのですが、一時的には秦を疲労させることができても、いずれ事業が終れば秦はより一層豊かになる上に、韓の先進技術が秦へ流出してしまう訳ですから、その辺りを韓王がどう考えていたのかは定かでありません。
仮にこの計画そのものが全くの虚構で、始めから韓側には事業を成功させる気などなく、架空の工事で秦に散財させることだけが目的だったとすれば、いかに間者とは言え鄭国は単なる決死隊に過ぎなくなりますから、事が露見した際に彼が秦へ寝返ったのも無理のない話ではあります。

今はどんな人名辞典を見ても、鄭国は水利の技術者だったと記されていますが、無論これは有り得ません。
例えば後に徳川家康の統治を補佐して、土木の分野で多大な功績を挙げた人物に、伊奈忠次と大久保長安の二名がいます。
伊奈忠次は利根川の河口を東に変えて江戸を水害から守り、各地の河川に堤防を敷設することで幕府の歳入を安定させるなど、主に治水の分野で業績を残しており、大久保長安は全国の鉱山を開発することで幕府の財政基盤を強固なものにしています。
しかし両者は(技術の分野でも深い造詣はあったにせよ)技術者などではなく、あくまで本職は代官(実務担当の官僚)であり、伊奈忠次は兵糧やインフラ整備、大久保長安も作事や内政の手腕を認められての抜擢です。
実際に治水や鉱山開発といった大事業の責任者に必要とされるのは、現場での技術的な能力などではなく、物資の補給や人員の配置といった監督としての資質であって、元より一介の技師に務まるような職務ではありません。

その鄭国が秦王に謁見して、溝渠の建設を申言したのは、嬴政の即位の翌年だったと伝えられています。
しかし十四歳の少年にこれほど大規模な事案の決裁などできる筈もなく、恐らく実際にこの計画の許可を下したのは丞相の呂不韋でしょう。
もともと呂不韋の封地である河南(洛陽周辺)は韓に隣接しており、呂不韋が政から仲父と呼ばれて秦の実権を握るや否や、韓から鄭国がやって来て水利を説いたというのも余りに時期が合致しています。
加えて鄭国が間者であることが発覚したのは、嫪毐の事件の前後だったというのですから猶更です。
従ってこの鄭国の一件に関しては、果して彼の持ち込んだ企画に呂不韋が飛び付いたのか、或いは呂不韋の方が韓から彼を引き抜いたのかはともかくとして、秦に然したる功もなかった呂不韋が、関中を開発することで実績を築こうとしたという側面はあったでしょう。

『韓非子』の著者として知られる韓非は、その出生が韓の公子と伝えられ、若い頃は荀子に師事し、後に秦の丞相になる李斯とは同門だったといいます。
彼の著書である『韓非子』は、国家に於ける君主と法治の在り方について論じた書という点では、諸子百家の集大成とも言うべきもので、次代の在るべき国家統治の形として、公族と有力貴族によって運営される旧態依然とした組織から、君主の下での一元的な法治国家への移行を説きます。
韓非がこうした思考へ至った背景に、諸国内での下克上や倫理の退廃があったのは間違いないと思われますが、一方で彼の宗主である韓王室にしてからが、主君の晋候に背いて独立した家系だったことも影響してか、孔子のように周王室を絶対視する姿勢が韓非には見られません。

韓非が学を了えた頃の韓は、君号は他国に倣って王を称していたものの、殆ど独立国の体を成しておらず、秦からは属邦のような扱いを受けていました。
むしろ秦に朝貢してその盟下に入ることで、秦からの脅威そのものを軽減すると共に、魏や楚による侵攻から自国を守っていた訳ですが、秦の方針如何ではいつ滅亡してもおかしくない立場です。
韓非は祖国の置かれている危険な状況を懸念し、あくまで自律自衛の独立を保つことで長久の道を拓くべく、韓王にも国家再生について度々建言をしましたが、終ぞ彼の意見が韓内で顧みられることはありませんでした。
これは現代でも破綻寸前の企業や自治体に見られる通り、既に(執行部が)独立して自活するだけの意識や能力を失いながら、上位の組織や他力に頼って生き永らえているような集団では、韓非のように自助努力による再建を主張する人物は、その思考や言動に共感を得られなかったのです。

亡国に向けて突き進みながら、何ら抜本的な解決法を模索しようともしなければ、再建のための有能な人材を抜擢しようともせず、小手先の対応で辛うじて延命している祖国を憂いながら、決して用いられることのない境遇に悶々としていた韓非が、韓再生の望みを託して著したのが『韓非子』だと言われます。
また韓非が執筆という手法を取ったのは、彼が生来の吃音で、弁舌が甚だ苦手だったという事情もあったようですが、同じく彼が用いられなかった理由として、幼い頃から吃音を馬鹿にされていたことも影響したとのことです。
しかし韓非の願いも空しく、彼自身のみならず彼の思想もまた祖国で重んじられることはなく、むしろ最大の脅威であった秦が韓非の書を高く評価し、その思想を具現化することで更に強国となり、遂には韓を滅ぼしてしまうのですから、何とも皮肉というほかはありません。

韓では大して関心も持たれなかった韓非の書が隣国の秦へ伝わり、若い秦王政の目に留まったのは、嫪毐の乱によって呂不韋が失脚し、嬴政が親政を始めた頃でした。
韓非の書に触れた嬴政はその崇高な思想に感嘆し、この人物に出逢えるなら死んでも悔いはないと漏らすほど心酔したといいます。
始め嬴政は韓非を故人だと思っていたようで、実は存命中の人物で李斯の同門だと知ると大いに喜び、しかも韓王にはこれほどの賢者を用いるだけの器がなく、韓では不遇を囲っていると聞いて、すぐさま李斯に韓非を招くよう命じました。
上意を受けた李斯は、韓非は韓の公子なので秦に仕えることはないと秦王に諭しましたが、そんな話を聞き入れる政ではありません。
こうして韓非は、旧友の李斯を通して秦王の招待を受けたこともあり、国使として秦へ赴くことになったのです。

咸陽で秦王に謁見して、学を講じる栄に浴した韓非でしたが、その後に彼を待っていたのは、李斯の讒言による投獄と、その李斯に渡された毒を仰いでの自決でした。
この間の経緯について史書では、韓非の才を疎んじた李斯が、保身のために彼を陥れたとしていますが、同じ逸話が龐涓と孫臏の間にも伝わっており、恐らくはそれが重複されたものと思われます。
ただ当時の秦朝内での韓に対する動向としては、秦に臣従しておきながら反覆を繰り返す韓室を廃し、韓領を秦の郡県に組み入れるべきだと主張する声が大きくなっており、後に郡県制の施行を主導する李斯などはその急先鋒でした。
そして已に秦には韓を存続させる意思がなく、折を見て併合する方針がほぼ決定していたならば、今は重用されていないとは言え、これから滅ぼそうとする国へ韓非ほどの逸材を戻す馬鹿はいません。

従って現実には、李斯の私情云々を言うまでもなく、秦へ入国した時点で已に韓非には、祖国を捨てて秦に仕えるか、そのまま秦で抑留される以外の道は残されていなかった訳です。
これが張儀のように雄弁の士であれば、言葉巧みに難を逃れて出国することもできたかも知れませんが、吃音の韓非ではまともな反論さえ儘ならなかったでしょう。
更に言えば、韓非が秦に招かれたこと自体、嬴政が彼の説話を聞きたかったという事実もあるにせよ、韓非が韓で登用されることを案じた秦が、彼を祖国から引き離したと言えなくもありません。
そして韓非にその程度のことが察せられない筈もなく、獄中で李斯に差し出された毒薬を彼が受け取ったということは、恐らく使者となった時点で既に死を覚悟していたのでしょう。
李斯が韓非を陥れたとされる一件にしても、案外それは李斯の策略などではなく、秦に無縁の人傑を野に放つべきではないという、秦王自身の判断だったのかも知れません。

漢の高祖の智臣張良については改めて言うまでもないでしょう。
もともと張良の家は代々韓の丞相を輩出した家柄で、少年期に祖国の滅亡を経験した張良が、若き日の自分の無力さを嘆き、いずれ秦を倒して韓を再興しようと誓ったものの、自身は生来病弱で非力だったため、秦末の混乱期に合流した劉邦に仕えることで、その志を遂げたというのは余りに有名な話です。
また高祖の傍に侍ってからは常に冷静沈着のようにも見える張良ですが、若い頃は全財産を投げ売って復讐の資金を集めると、剛力の士を雇って始皇帝暗殺を謀ったり、陳勝呉広の乱が起こるや自身も募兵して反乱に加わろうとするなど、どちらかと言えば直情径行な面が目立っていました。
或いは多くの大器や知恵者がそうであるように、案外張良の三児魂は短気で激情家だったのかも知れません。

始皇帝暗殺に失敗した後、秦による首謀者の捜索を逃れながら、改めて秦打倒と韓再興に動き始めた張良は、まず項羽の叔父の項梁の協力を得て、主筋である旧王族の成を韓王として擁立することに成功します。
しかしその韓王成は項羽の不興を買って廃されたため、成の甥に当たる信を劉邦に推薦し、やがて信が再び韓王に立てられました。
楚王となった韓信と区別するため韓王信と呼ばれます。
その韓王信は封国(旧韓領ではなく匈奴に近い旧趙領の太原郡が新たに韓となっていました)が匈奴の侵攻を受けた際、単独で単于と休戦の交渉に入ろうとしたところ、その行為に対して長安から背信を疑われたため、窮した信は匈奴へ降伏してしまい、太原郡一帯が匈奴の支配下に入る事態となりました。
そしてこれが白登山の戦いを招く訳ですが、匈奴側の将となった信は漢軍との戦いで敗死し、韓の王室は信一代で断絶しています。

丞相の家系に生まれた者の責務として、漢帝国内に韓を復興させた張良でしたが、彼自身は高祖幕下で最大の功労者でありながら、僅かな食封以外の褒賞は全て辞退していました。
これは重臣である彼が率先して謙虚になることで、激化する恩賞争いを鎮める狙いもあったと思われますが、むしろ本来は彼に与えられるべき領地を辞退することで、韓王の分国を認めてもらったという側面もあったでしょう。
漢が天下を平定した後は、高祖が死の直前まで甲冑を脱げなかったのに対して、張良は早くから健康を理由に第一線を退いており、その潔さもまた張良に対する高祖の信頼が生涯揺るがなかった所以でもあります。
或いはその前半生を侠客や亭長といった気楽な身分で過ごした分、天命を終えるまで帝業に追われた劉邦に対して、青春の全てを乱世に捧げた張良は、独り余生を許されたということでしょうか。

『老子』の中に「大器は晩成」「功成り名遂げて身退くは天の道」という、誰もが一度は聞いたことのある有名な格言があります。
劉邦と張良の二人をこれほど絶妙に表現した言葉はありません。
もう一方の雄である項羽は、若くして未曽有の大功を成し遂げ、天下にその名を轟かせながら、退く間もなく身を滅ぼしました。
また彼の軍師であった范増は、老年期に入ってからようやく活躍の場を得ましたが、事を完成させる前に寿命が尽きています。
張良と劉邦は実に不思議な縁故で、智将と思われている張良も劉邦と出逢うまでは失敗の連続であり、劉邦もまた張良に出逢わなければ名もない田舎の大将のまま戦死していたでしょう。
そしてこの二人の出逢いが、今や民族名ともなっている漢帝国を出現させる訳ですが、それには先ず秦による天下統一が必要でした。

コメントを投稿