次に北方からの民族移動について見てみると、そこには大きく分けて二つの政治的な要因と、それ等が引き起こした二つの民族の流れが考えられ、且つその二つはほぼ同時期に起きています。まず一つは、河北から朝鮮半島(もしくは山東半島)を経由して日本列島に至る流れで、それを招いた最大の動力源は秦による支那大陸の統一でした。東夷に於けるその顕著な例として、秦が燕を平定したことにより、秦の支配を逃れた燕人の一派が衛氏 . . . 本文を読む
では実際に大陸からこの列島へ次々に移住した人々は、どのような集団がいつ頃どうやって渡来したのでしょうか。無論今となっては史実など知る由もないのは当然として、家族単位のような至って小規模の移住を別にすれば、主要言語がアイヌや北米と同系の縄文語から、大陸発祥の膠着語に代っていることを考えても、やはりこの列島の主要民族を一変させるような、かなりの規模での民族大移動があったと見るのが妥当でしょう。そして日 . . . 本文を読む
ではこれ等の書物に「倭」とか「倭人」などと記された人種が、我々日本人の祖先に当たる人々だったのかと言うと、やはり広義には後の日本民族とも共通の祖先を持つ集団だったのではないかと考えられるものの、果して直接の祖先だったどうかとなると、これは何とも言えなくなります。前出の越を例に挙げてみると、かつて江南は「百越」と呼ばれた非漢人系の人々の住む土地でした。これも広義には越という一つの人種として括られてい . . . 本文を読む
次に、現存する書物の中で「倭人」という言葉が初めて使われたのは『漢書』になります。『漢書』とは、漢の高祖から王莽までを紀伝体によって記した(但し本紀は第十二代平帝まで。王莽は王莽伝に記す)漢朝の国史で、本紀十二巻、列伝七十巻、表八巻、志十巻の計百巻から成ります。その原型となったのは、後漢の世祖光武帝に仕えた史家の班彪が、司馬遷の『史記』の後を継ぐ形で編纂した『後伝』六十五編と伝えられます。
しか . . . 本文を読む
かつて大陸の人々から倭と呼ばれた存在が、ようやく漢籍上に記載されたのは、やはり『山海経』の記録が初見でしょうか。『山海経』とは、漢代より伝わる古代支那の地理書で、春秋戦国期の内外の地勢と、各地の山川やその土地の神々、動植物や鉱物資源、諸民族やその風俗等を解説します。書名の「山」は国内の山々を、「海」は海外を差し、東周の首都洛陽から四方へ連なる山岳について記した「五蔵山経」、周文化圏の外へと続く四海 . . . 本文を読む