この西行シリーズ最初に、義清(ノリキヨ、西行)が、“出家”の志を初めて仲間たちに吐露した歌を読みました(閑話休題449)。以後、心の迷い、葛藤の日々を過ごしてきましたが、道心深まり、ここで決心がついたようです。
鳥羽離宮を訪ね、出家の暇乞いを奏上します。しかし鳥羽院は、心外のご様子で、お許しを得ることはできなかった。その折の心境を詠った一首が次の歌である。
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
身をすててこそ 身をも助けめ
≪主君の御訓戒を恐れて、今度出家をやめ、また愛着深いわが家に帰ったら、何時をその時期と決められようか。そもそも恩愛の道を捨てて世俗への執着を断ち切れとは釈迦如来の教えであり、髪を剃り墨染の衣を身につけるのは、現世の苦悩を脱する出発点である≫と道理を思い浮かべ、これまでのような生活を送るのは≪今が最後だ≫と心を決した [≪≫内は、桑原博文著 全訳注『西行物語』から借りた]。
和歌と漢詩
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<和歌>
鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
身をすててこそ 身をも助けめ 『西行法師歌集』638;『玉葉集』雑五・2467
[註] 〇惜しまれぬべき:身を託すほどに惜しい。
(大意) いくら惜しむからといって、身を託すほどに惜しいこの世であろうか。身を捨て、出家してこそ、はじめてわが身を助けることになるでしょう。
<漢詩>
救身之路 身を救う路 [下平声八庚韻]
雖然此世澆愛惜, 此世 愛惜を澆(ソソ)ぐと雖然(イエド)も,
令我委身那么程。 我を令(シ)て 身を委(ウダネ)るに 那么(ドレ)程のことか。
就是捨身而得度, 身を捨て 而して得度して就是(コソ),
才能救濟身尚明。 才(ヤット) 身を救濟することが能(デキ)るのは 尚(ナオ)明らかなのだ。
[註] 〇澆:注ぐ; 〇愛惜:惜しむ、重んじる; 〇委身:身を委ねる; 〇那么:どれほど、どんな具合に; 〇就是:~こそ、~するなり; 〇得度(トクド):出家する; 〇才:やっと。
<現代語訳>
身を救う路
この世に愛着を持つからと言って、
身を託するほどのものであろうか。
身を捨て、出家してこそ、
やっと身を助けることできるのだ。
<簡体字およびピンイン>
救身之路 · Jiù shēn zhī lù
虽然此世浇爱惜, Suīrán cǐ shì jiāo àixī,
令我委身那么程。 lìng wǒ wěi shēn nàme chéng.
就是舍身而得度, Jiùshì shě shēn ér dédù,
才能救济身尚明。 cái néng jiùjì shēn shàng míng.
ooooooooooooo
義清が、仲間に出家の意思を吐露したのは2月であった。ほぼ半年ほど経って、その年の秋にいよいよ出家の心を固めて、鳥羽院に暇乞いの挨拶を済ませたところである。
なお『西行物語』では、今回の話題と相前後して、親しい友人・佐藤左衛門尉憲康の急死の記事がある。西行出家の一因として、厭世説が挙げられている根拠となる話題である。また出家を決心した後、四歳になる娘を縁から蹴落とすという話が語られる。
≪呉竹の節々-6≫ ―世情―
保元(ホウゲン)元 (1156) 年7月2日に鳥羽院が崩御された後、数日間に崇徳院方と後白河天皇方との対立が激しくなっていきます。
崇徳院方は7月9日には、鳥羽の田中御所をぬけだし、白河北殿(現京都大学熊野寮辺)に移り、藤原頼長(『台記』」の著者)を総司令官として、源為朝、源為義、平忠正らが白河北殿に終結します。
一方、後白河天皇方は、少納言入道信西を総司令官として、平清盛、源義朝、源義康らが、高松殿(現京都市中京区 高松神明神社 辺)に集結します。
7月11日未明、後白河天皇方が崇徳院方を襲撃し合戦に至るが、4時間ほどで決着、崇徳院方は、白河北殿が炎上、敗戦。崇徳院は、仁和寺に逃げるが、捕えられ、7月23日、讃岐に流されます。以上、いわゆる“保元の乱”である。
西行は、7月12日、月明かりの夜、仁和寺に崇徳院を見舞っている。さらに崇徳院が讃岐で崩ずるまで、歌の往来があり、後年、四国・讃岐を訪れて、崇徳院の白峰陵に参拝している。
【井中蛙の雑録】
〇桑原博文著 全訳注『西行物語』: 底本の『西行物語』は、鎌倉時代に成立しているが、作者等詳細は不明である。創作物語で、伝承と虚構を交えた内容ということであるが、西行の生涯を捉えるには有用である。
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