青年・義清(ノリキヨ、西行)の癒やされぬ恋病の歌である。義清は、いろいろな角度から、思いが果たされないことへの恨みを歌にしています。次の歌もその一首:
身を知れば 人の咎とは 思はぬに
恨みがほにも 濡るる袖かな
“身の程を知る”とは、“自分と恋相手とは身分に違いがあることを悟る“ということでしょうか。その為に“冷淡な仕打ちを受けるのも仕方がない”とは思う。ただ“相手を恨まずにいられない”ほどであるということは、身分の差はさほど大きくはない、場合によっては克服できる程度の差であろうことを想像させます。
恨んではならないと自ら言い聞かせつゝ、実際は、涙が流れるほどに相手を恨んでいるのである。
和歌と漢詩
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<和歌>
身を知れば 人の咎とは 思はぬに
恨みがほにも 濡るる袖かな [山680] (寺p31) 宮河三十四番左 千載14
新古今和歌集1231
[註]〇身を知れば:身のほどを知っているから; 〇咎(トガ):欠点、罪。
(大意) 身の程を知っているので、あの人のつれなさを責めようとは思わない が、いかにも恨んでいる風で、涙に濡れる袖だ。
<漢詩>
掩飾無効 掩飾(ゴマカシ)は無効(キカ)ず [去声五未韻]
旧来余自量, 旧来(モトヨリ) 余(ワレ)自(ミノホド)を量(オシハカ)る,
故不能怪貴。 故(ユエ)に貴(キジン)を怪(トガメル)こと能(アタワ)ず。
何事淚濡袪, 何事か 淚が袪(ソデ)を濡(ヌ)らす,
恰如胸怨氣。 恰(アタカ)も 胸に怨氣(エンキ)あるが如くに。
[註]〇掩飾:ごまかし; 〇自量:おのれを知る; 〇怪:…のせいにする、
咎める; 〇貴:貴人、ここでは恋人; 〇袪:袖口; 〇怨氣:恨みや不
満の気持ち。
<現代語訳>
誤魔化しは効かない
固より、私は身の程を弁えているので、
あの人の所為だと責めようとは思わない が。
どうしてか、袖が涙で濡れてくる、
恰も胸中恨みを持しているかのように。
<簡体字およびピンイン>
掩饰无效 Yǎnshì wúxiào
旧来余自量, Jiù lái yú zì liáng,
故不能怪贵。 gù bùnéng guài guì.
何事泪濡袪, Héshì lèi rú qū,
恰如胸怨气。 qiàrú xiōng yuànqì.
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義清は、年少時、『古今集』を読み、和歌の勉強を進めたであろうことは想像に難くない。初期の頃の作品には『古今集』の雑歌的な傾向が見えるという。さらに第五勅撰集『金葉集』(1127成立)及びその撰者源俊頼(1055~1129)の影響を大きく受けているとされる。
『金葉集』は、白河法皇の命で、源俊頼が撰した第五勅撰和歌集である。白河法皇は、“院政”を創始したように、革新的な考えの持ち主であり、また源俊頼も当時の歌壇にあって革新的な騎手の一人であった。
源俊頼は、1124年に法皇の院宣を受け、同年中に撰を終えた(初度本)が、却下された。翌年に改撰した“二度本”も、なお却下。翌々年、“三度本”がやっと奏覧本・『金葉集』として成立したということである。白河法皇の意を受けて、当代の革新的な歌を多く撰入されたようであるが、結果的に勅撰集のわくは踏み出すことなく、革新的な歌が多く撰集された集となったということである。
『金葉集』撰の過程は、義清の9から12歳という少年期のできごとで、まだ歌に関心を持つ時期ではなかったと思われる。
≪呉竹の節々-4≫ ―世情―
近衛天皇が17歳で早世します。この機会こそ崇徳院が待ち望んでいたことで、我が子・重仁親王が即位すれば、天皇の父として院政を敷くことができる と読んでいました。しかし鳥羽上皇は徹底的な崇徳嫌いで、何としてもそれを阻止すべく働きます。
この時点で鳥羽院の子息は雅仁(マサヒト)親王のみであった。しかし雅仁親王は、今様で明け・暮れる空(ウツ)ケ者との評判で、誰しもが帝の器量とは評価していない。一方、雅仁親王の子・守仁(モリヒト)親王が美福門院の養子となっていた。守仁親王は、人柄もよく、学問もできることから、美福門院は強く推奨した。
ただ、親が天皇でない者が即位した前例がない。そこで雅仁親王を一時的なつなぎの天皇として即位(後白河天皇)させ、すぐに守仁親王に譲位させる との思惑で、守仁親王が即位(二条天皇)、後白河法皇が院政を敷くことになった。又しても、崇徳天皇は苦い水を飲まされ、失意の日々を送ることになる。
誰しもが、雅仁に何ができるものかと軽く見ていたが、後年、鎌倉幕府を開いた源頼朝をして、「天下一の大天狗」と言わしめた“後白河法皇”の誕生である。
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