前回に続き、“心”と“身”に関わる歌である。先に、“心”は既に“身”を離れて憂き世にはなく、山奥を彷徨している状態とする歌を読みました。その“心”が、“身”に世を離れるよう促すなど、あれやこれやと思いを巡らせつつ、 “身”を苦しめている。出家を決行すべきか否か、迷い葛藤状態にあるようです。
心から 心に物を 思はせて
身を苦しむる わが身なりけり
いざ出家となれば、そう決断し、決行するまでには、自ら“心”の整理が必要であろうし、更に職務の整理、身の回りの事、友人・知人・家族のことども等々、想像を絶する諸々のことがらに‘けじめ’をつける必要があろう。
和歌と漢詩
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<和歌>
心から 心に物を 思はせて
身を苦しむる わが身なりけり [山家集1327] 、玉葉集十八。
[註]〇こころから 心に:心ゆえ心に、自分で自分の心に物思いさせて。
注):試みに、“心”と“身”は、それぞれ、“心意=意図、思考、判断する過 程 、精神活動” および “身体=心が宿る構造体(物体)”と 別次元の事象であり、両者合わさったのが “全体像=人間一個人、我、私”と捉えて、解釈しています。なお歌の中で “全体像”は、“身”または“我が身”と表現されることがある。(参照:閑話休題458)
(大意) “心”は悩みを抱えており、“心”はなお一層自らにあれやこれやと考慮することを求める。“身”は“心”への対応に苦しんでおり、“我が身”は、葛藤している状況にあるよ。
<漢詩>
意身糾葛 意(ココロ)と身(ミ)の糾葛(キュウカツ)
我心意有多所思, 我が心意(ココロ)は所思(オモウコト) 多く有り,
対自要求考慮滋。 自(ミズカ)らに対して考慮 滋(シゲ)からんことを要求す。
身体為此吃苦悩, 身体(カラダ)は此れが為に 苦悩を吃(キツ)す,
方知我身在憂危。 方(マサ)に知るべし 我が身 憂危(ユウキ)に在るを。
[註] 〇意および心意:歌の “心”に対応; 〇糾葛:葛藤; 〇身体:歌の“身”に対応; 〇我身:歌の“我が身”(“全体像”の私個人)に対応; 〇憂危:葛藤の状態。
<現代語訳>
心と身 の葛藤
わが心には悩み事が多く、
心自らに対して 一層思いを巡らすよう求めている。
それがために 身体は苦悩しており、
我が身は 将に葛藤しているよ。
<簡体字およびピンイン>
意身纠葛 Yì shēn jiūgé
我心意有多所思, Wǒ xīnyì yǒu duō suǒ sī,
对自要求考虑滋。 duì zì yāoqiú kǎolǜ zī.
身体为此吃苦恼, Shēntǐ wèi cǐ chī kǔnǎo,
方知我身在憂危。 fāng zhī wǒ shēn zài yōu wēi.
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義清(ノリキヨ、西行)の和歌は、一見単純そうに見えて、実際には理解に苦しむ場合が多い。現在取り上げている歌がそうである。歌の訴えたい主旨を理解する前に、まず歌の構成・輪郭を理解する必要があるように思われる。
掲歌について、その構成と輪郭、特に、“心”と“身”の関係性について、その理解を先に提案した考え方(参照 閑話休題458)で、解釈を試みています。さらにその他の和歌に対しても、対応可能であるか、五里霧中の状態であるが、なお検討を進める必要がある。
≪呉竹の節々-5≫ ―世情―
後白河天皇の即位により、崇徳の院政への望みは完全に断たれます。自ら上皇の尊号を得て、子息の重仁を天皇にと目論んでいたが、今様に狂い、しかも29歳と高齢の雅仁に位を越えられたことへの憤りは並みではなかった。
保元(ホウゲン)元(1156)年7月2日、鳥羽法皇が鳥羽殿・安楽寿院において危篤に陥ります。知らせを受けた崇徳院は、直ちに安楽寿院を訪れます。心無い仕打ちを受けていたとはいえ、やはり父親であり、内心 許すところはあった。
しかし鳥羽院の近臣・藤原惟方(コレカタ)らに阻まれ、目通りは赦されなかった。「通る」「通さぬ」と押し問答しているうちに、「ご崩御」が伝わる。崇徳院は、一旦引き上げるが、再び安楽寿院を訪ねる。やはり「崇徳に我が死に顔を見せるな」との鳥羽法皇の遺言を楯に、藤原惟方らに追い返されます。
崇徳院にあっては、「これほどまでに……」と、憎しみの思いが沸き起こり、翌3日の葬儀、また初7日の法要まで、すべての儀式への参列を欠席しました。以後、数日の間、後白河天皇方、崇徳上皇方、激しく対立を深めていきます。即ち、「保元の乱」の先駆け・幕開けである。
西行(39歳)は、鳥羽院崩御を聞き、遺骸を安楽寿院本御塔に移す夜、高野から下り、葬送にしたがい、終夜読経する。
【井中蛙の雑録】
〇 義清(ノリキヨ、西行)の出家の動機・理由のヒントを得るべく、≪呉竹の節々≫項で、当時の「世情」を概観しています。
鳥羽・崇徳両院の葛藤・決裂は、現在手に入る資料を見る限り、義清(西行)の出家十数年後である。しかしそれ以前にあっては、ちょうど活火山において、地下マグマが地表に現れることなく、地下で活発な活動を進めていたのに似て、相当な状況にあったのではないか。
義清にあっては、徳大寺家に身を置いていることで、日常、身近に接しているであろう宮廷内の事情 ―地下マグマの活動―は、それとなく肌で感じており、自ら身の置きどころ に苦慮していたように想像される。出家の一遠因 ではないかと愚考するが如何であろう。
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