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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 464歌と漢詩で綴る 西行物語-16

2025-04-14 09:35:37 | 漢詩を読む

    出家する心を固め、間もなく出家しようとする頃に詠われた歌でしょう。先に、鳥羽院への暇乞いに際し、惜しむほどもないこの憂世からは、身を捨てたほうが却って身を助けるのだ と詠っていました(閑休460)。次の<和歌-1>は、同じ趣旨のことを詠っていると思われる。ここでは、身を捨てない人こそ身を捨てているのである と強調しています。

 鳥羽院の離宮・仙洞御所(藐姑射ハコヤ)の中庭一杯に植えられた菊花満開の折に催された歌会に、声を掛けられて歌一首を献上したことがありました(閑休450)。<和歌-2>では、その花に毎年馴染んできたが、その機会も間もなく無くなるのだ と感傷を詠っている。 

 

<和歌-1> 

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 

      捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集 巻十・雑下 (371)

 

<和歌-2> 

いざさらば 盛り思ふも ほどもあらじ 

  藐姑射(ハコヤ)が峯の 花に睦(ムツ)れし     [山家集1503]

 

和歌と漢詩 

oooooooooo  

 <和歌-1>

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 

  捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集巻十・雑下(371)

 [註]〇『詞花集』中、“題知らず”、“読人知らず” として載る。

 (大意) 出家して身を捨てる人は、本当に捨てているのでしょうか。そうで はなく本当は活かし、救っているのです。捨てない人こそ捨てているのです。

<漢詩> 

 出家救済身      出家は身を救済(スク)う          [下平声六麻韻]

出家人舍身,    出家して人は身を捨てる,  

真舍自身呀。 真(マコト)に自身(ワガミ)を舍てている呀(カ)。

不舍身人也, 身を不捨(ステザル)人也(ヤ),

才失自身嗟。 才(ソレコソ) 自身(ワガミ)を失っているのだよ。

 [註] 〇舍:捨てる; 〇元歌の“身を捨てる”の繰り返しのリズムを活かすように心がけた。

<現代語訳> 

  出家は身を救う 

人は出家して身を捨てるが、

真に我が身を捨てているのか。

身を捨てない人、

それこそ身を失っているのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

 出家救济身      Chūjiā jiùjì shēn 

出家人舍身, Chūjiā rén shě shēn,  

真舍自身呀。 zhēn shě zìshēn ya.    

不舍身人也, Bù shě shēn rén yě, 

才失自身嗟。 cái shī zìshēn jiē.  

 

<和歌-2>

いざさらば 盛り思ふも 程もあらじ 

  藐姑射が峯の 花に睦(ムツ)れし [山1503] 

 [註]〇盛り:花の盛り; 〇程もあらじ:時間もあるまい; 〇藐姑射が峯:仙洞御所をいう; 〇花に睦れし:花に馴れ親しむ。

 (大意)今まで仙洞の花に馴染んできたが、その花の盛りを思うのも もう暫くのことである、自分は間もなく出家するのだから。

<漢詩> 

 対花留恋   花への留恋(ナゴリ)     [上平声四支韻] 

歴来仙洞院, 歴来 仙洞(センドウ)の院, 

親睦美花披。 美花の披(ヒラ)くに親睦(シタシ)む。 

騁懷於花盛, 花の盛りなるに 懷(オモイ)を騁(イタス)に, 

所剩無幾時。 所剩(ノコサレ)しは幾時も無し。 

 [註] 〇留恋:名残を惜しむ; 〇歴来:これまでずっと; 〇仙洞院:仙洞御所; 〇騁懷:思いを致す; 〇所剩無幾:(成)余すところいくばくもない。 

<現代語訳> 

 花への名残り 

これまで仙洞御所で、

美しく咲いた花に親しんできた。

この花の盛りに思いを致すのも、

もう暫くの間であることだ。

<簡体字およびピンイン> 

 对花留恋         Duì huā liúliàn 

厉来仙洞院, Lì lái xiāndòng yuàn, 

亲睦美花披。 qīnmù měi huā .   

骋怀于花盛, Chěng huái yú huā shèng, 

所剩无几时。 suǒ shèng wújǐ shí.  

oooooooooo   

 今や迷いが無くなったように思えるが、尚あれこれと過ぎ越し事が思い出されて来るこの頃である。

 

呉竹の節々-8≫ ―世情―

 佐藤義清(ノリキヨ、西行)を取り巻く世の状況について見てみます。佐藤家は、現和歌山県、紀の川の北部、下流近く、葛城山の南、高野山の西北の辺りの肥沃な土地に、広大にして、古くからの荘園・田仲庄を所有していた。

    一方、紀ノ川を挟んで対岸の地に、行尊僧正が新しく開いた荒川庄があった。行尊僧正は、後に天台座主になる。鳥羽天皇即位(1107)に伴い、その護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。

   当時、院政期にあっては、荘園の安寧経営を図るために、土地を所有する“在地領主”は、高度な権力者、主に摂関家に寄進して、“名義上の領主”にすることにより、土地を守る状況にあった。“在地領主”および“名義上の領主”は、それぞれ、“預所(アズカリショ)”または“領家(リョウケ)”および“本所(ホンジョ)”と称された。

   佐藤家の田仲庄にあっては、徳大寺家に寄進され、更に摂関家・藤原頼長に と重層して寄進されていた。一方、荒川庄にあっては、高野山、更に鳥羽上皇へと、やはり重層して寄進されていた。ここで問題なのは、古い田仲庄の領域は、紀ノ川を挟んで対岸に及んでいて、新しく開かれた荒川庄と境を接していたことである。そのため、境界争いが絶えなかったようである。

   このような状況にあって、義清は、14歳で元服、佐藤家の棟梁となる。早く官職につけて朝廷に送り込むことは、佐藤一族の悲願となった。15歳に内舎人(ウドネリ)を志願するが失敗、18歳に絹一万匹という巨額の成功(ジョウゴウ、買官)により、佐兵衛尉に任じられ、以後、徳大寺実能(サネヨシ)の随身となり、鳥羽院の下北面の護衛武者となる。北面武士としての活躍ぶりは、先に、伏見-関の屋-日野……と、恐らくは訓練のためであろう、馬を駆って遠乗りしている状況を読んできました(閑休451)。

 

【井中蛙の雑録】

〇藤原頼長は、日記『台記』を残して、義清の出家時期を後世に報せてくれた人である(閑休449)。太政大臣・摂政関白 藤原忠実の次男で、その公室は、徳大寺実能の娘・幸子である。保元の乱にあっては、真っ先に馳せ参じ、崇徳天皇側の指揮を執った。

〇行尊僧正について:百人一首歌人である。

      66番  もろともに あはれと思へ 山ざくら

            花よりほかに 知る人もなし  前大僧正行尊 

[参考] その漢詩訳は、拙著『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む 百人一首』(文芸社) をご参照。  

 

 


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