出家する心を固め、間もなく出家しようとする頃に詠われた歌でしょう。先に、鳥羽院への暇乞いに際し、惜しむほどもないこの憂世からは、身を捨てたほうが却って身を助けるのだ と詠っていました(閑休460)。次の<和歌-1>は、同じ趣旨のことを詠っていると思われる。ここでは、身を捨てない人こそ身を捨てているのである と強調しています。
鳥羽院の離宮・仙洞御所(藐姑射ハコヤ)の中庭一杯に植えられた菊花満開の折に催された歌会に、声を掛けられて歌一首を献上したことがありました(閑休450)。<和歌-2>では、その花に毎年馴染んできたが、その機会も間もなく無くなるのだ と感傷を詠っている。
<和歌-1>
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは
捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集 巻十・雑下 (371)
<和歌-2>
いざさらば 盛り思ふも ほどもあらじ
藐姑射(ハコヤ)が峯の 花に睦(ムツ)れし [山家集1503]
和歌と漢詩
oooooooooo
<和歌-1>
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは
捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集巻十・雑下(371)
[註]〇『詞花集』中、“題知らず”、“読人知らず” として載る。
(大意) 出家して身を捨てる人は、本当に捨てているのでしょうか。そうで はなく本当は活かし、救っているのです。捨てない人こそ捨てているのです。
<漢詩>
出家救済身 出家は身を救済(スク)う [下平声六麻韻]
出家人舍身, 出家して人は身を捨てる,
真舍自身呀。 真(マコト)に自身(ワガミ)を舍てている呀(カ)。
不舍身人也, 身を不捨(ステザル)人也(ヤ),
才失自身嗟。 才(ソレコソ) 自身(ワガミ)を失っているのだよ。
[註] 〇舍:捨てる; 〇元歌の“身を捨てる”の繰り返しのリズムを活かすように心がけた。
<現代語訳>
出家は身を救う
人は出家して身を捨てるが、
真に我が身を捨てているのか。
身を捨てない人、
それこそ身を失っているのだよ。
<簡体字およびピンイン>
出家救济身 Chūjiā jiùjì shēn
出家人舍身, Chūjiā rén shě shēn,
真舍自身呀。 zhēn shě zìshēn ya.
不舍身人也, Bù shě shēn rén yě,
才失自身嗟。 cái shī zìshēn jiē.
<和歌-2>
いざさらば 盛り思ふも 程もあらじ
藐姑射が峯の 花に睦(ムツ)れし [山1503]
[註]〇盛り:花の盛り; 〇程もあらじ:時間もあるまい; 〇藐姑射が峯:仙洞御所をいう; 〇花に睦れし:花に馴れ親しむ。
(大意)今まで仙洞の花に馴染んできたが、その花の盛りを思うのも もう暫くのことである、自分は間もなく出家するのだから。
<漢詩>
対花留恋 花への留恋(ナゴリ) [上平声四支韻]
歴来仙洞院, 歴来 仙洞(センドウ)の院,
親睦美花披。 美花の披(ヒラ)くに親睦(シタシ)む。
騁懷於花盛, 花の盛りなるに 懷(オモイ)を騁(イタス)に,
所剩無幾時。 所剩(ノコサレ)しは幾時も無し。
[註] 〇留恋:名残を惜しむ; 〇歴来:これまでずっと; 〇仙洞院:仙洞御所; 〇騁懷:思いを致す; 〇所剩無幾:(成)余すところいくばくもない。
<現代語訳>
花への名残り
これまで仙洞御所で、
美しく咲いた花に親しんできた。
この花の盛りに思いを致すのも、
もう暫くの間であることだ。
<簡体字およびピンイン>
对花留恋 Duì huā liúliàn
厉来仙洞院, Lì lái xiāndòng yuàn,
亲睦美花披。 qīnmù měi huā pī.
骋怀于花盛, Chěng huái yú huā shèng,
所剩无几时。 suǒ shèng wújǐ shí.
oooooooooo
今や迷いが無くなったように思えるが、尚あれこれと過ぎ越し事が思い出されて来るこの頃である。
≪呉竹の節々-8≫ ―世情―
佐藤義清(ノリキヨ、西行)を取り巻く世の状況について見てみます。佐藤家は、現和歌山県、紀の川の北部、下流近く、葛城山の南、高野山の西北の辺りの肥沃な土地に、広大にして、古くからの荘園・田仲庄を所有していた。
一方、紀ノ川を挟んで対岸の地に、行尊僧正が新しく開いた荒川庄があった。行尊僧正は、後に天台座主になる。鳥羽天皇即位(1107)に伴い、その護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。
当時、院政期にあっては、荘園の安寧経営を図るために、土地を所有する“在地領主”は、高度な権力者、主に摂関家に寄進して、“名義上の領主”にすることにより、土地を守る状況にあった。“在地領主”および“名義上の領主”は、それぞれ、“預所(アズカリショ)”または“領家(リョウケ)”および“本所(ホンジョ)”と称された。
佐藤家の田仲庄にあっては、徳大寺家に寄進され、更に摂関家・藤原頼長に と重層して寄進されていた。一方、荒川庄にあっては、高野山、更に鳥羽上皇へと、やはり重層して寄進されていた。ここで問題なのは、古い田仲庄の領域は、紀ノ川を挟んで対岸に及んでいて、新しく開かれた荒川庄と境を接していたことである。そのため、境界争いが絶えなかったようである。
このような状況にあって、義清は、14歳で元服、佐藤家の棟梁となる。早く官職につけて朝廷に送り込むことは、佐藤一族の悲願となった。15歳に内舎人(ウドネリ)を志願するが失敗、18歳に絹一万匹という巨額の成功(ジョウゴウ、買官)により、佐兵衛尉に任じられ、以後、徳大寺実能(サネヨシ)の随身となり、鳥羽院の下北面の護衛武者となる。北面武士としての活躍ぶりは、先に、伏見-関の屋-日野……と、恐らくは訓練のためであろう、馬を駆って遠乗りしている状況を読んできました(閑休451)。
【井中蛙の雑録】
〇藤原頼長は、日記『台記』を残して、義清の出家時期を後世に報せてくれた人である(閑休449)。太政大臣・摂政関白 藤原忠実の次男で、その公室は、徳大寺実能の娘・幸子である。保元の乱にあっては、真っ先に馳せ参じ、崇徳天皇側の指揮を執った。
〇行尊僧正について:百人一首歌人である。
66番 もろともに あはれと思へ 山ざくら
花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊
[参考] その漢詩訳は、拙著『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む 百人一首』(文芸社) をご参照。
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