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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 465 歌と漢詩で綴る 西行物語-17

2025-04-21 10:09:28 | 漢詩を読む

 義清(ノリキヨ、西行)は、出家前の若く駆け出しの頃、鳥羽院に随分と可愛がられたことを、折に触れ述べてきました。後になって、その状況を懐古する歌があり、ここに取り上げます。

 鳥羽院が保元元(1156)年(54歳)崩御し、その葬儀に参列した際、院を偲びつゝ、昔を思い出し、詠ったものである。西行(39歳)は、高野山に庵を結び、修行中であったが、直ちに上京し、葬儀に参列、夜通しご供養の読経を続けた。

 「浅からぬ契り」を思い出させた事柄というのは、在俗時、1139年に落慶を見た安楽寿院の建造途中、鳥羽院は、お忍びで三重塔の検分に出かけた。その折、権大納言徳大寺実能と義清のお二方にお声が掛かってきて、同道されたのであった。この度、崩御された院の遺骨は、この安楽寿院に納められたのであった。

 崩御された院のお側近くで、ご供養の読経を挙げるという奇遇は、出家した身だからこそ巡り合わせたことで、在俗の身であったなら、只々他所で嘆息するだけであったのだ と自らに言い聞かせ、慰めている。

 

<和歌-1>

今宵こそ 思い知らるれ 浅からぬ 

  君に契りの ある身なりける [山家集782] 

 

<和歌-2>

訪はばやと 思いよらでぞ 歎かまし 

  昔ながらの 我が身なりせば [山家集784] 

 

和歌と漢詩 

ooooooooooooo

<和歌-1> 

今宵こそ 思い知らるれ 浅からぬ 

  君に契りの ある身なりける [山782]、新拾遺集十 

 (大意)今宵の御葬送にめぐり合わせて思い知らされた、鳥羽院には浅からぬ契りのある身であったことを。

<漢詩> 

    和法皇因縁             法皇との因縁             [上平声四支韻]

淒淒離別法皇逝, 淒淒(セイセイ)たり 離別 法皇(ホウオウ) 逝(ユ)く, 

慘慘今宵肅殯儀。 慘慘(サンサン)たり 今宵 肅(シュク)なる殯儀(ソウギ)あり。 

乃知奇縁皇與我, 乃(スナワチ)知る 皇(コウ)與(ト)我に奇緣あるを, 

憶起検查建塔時。 塔を建(タ)てし時の検查を憶起(オモイオコ)しつつ。 

 [註]〇法皇:鳥羽法皇; 〇淒淒:悲しいさま; 〇慘慘:いたみ悲しむさま; 〇殯儀:葬儀; 〇:憶起:思い起こす; 〇検查:安楽寿院の建立時、法皇、徳大寺実能と自分と3人、密かに三重塔の実況検分に行ったこと; 〇塔:安楽寿院・三重塔。

<現代語訳>  

 法皇との奇縁を想う 

悲しいことに 鳥羽法皇が亡くなり、お別れすることとなった、

憂いに堪えず、今宵は厳かなる葬儀に参列した。

今宵こそ、改めて法皇と自分とに浅からぬ御縁のあったことを思い知った、

密かに安楽寿院・三重塔建設の実況検分に行ったことを思い起こしつつ。

<簡体字およびピンイン> 

    和法皇因缘             Hé fǎhuáng yīnyuán   

凄凄离别法皇逝, Qī qī líbié fǎhuáng shì,    

惨惨今宵肃殡仪。 cǎn cǎn jīnxiāo sù bìn.  

乃知奇遇皇与我, Nǎi zhī qí yù huáng yǔ wǒ,  

忆起检查建塔时。 yì qǐ jiǎnchá jiàn tǎ shí.    

 

<和歌-2> 

訪はばやと 思いよらでぞ 歎かまし 

  昔ながらの 我が身なりせば [山784] 

 (大意) ご供養のためにお訪ねしようなどとは思いもよることなく、ただ歎くだけであったろう、昔の在俗のままの身であったなら。

<漢詩> 

  感谢巧遇     巧遇に感谢   [上平声四支韻] 

不料可能訪殯儀, 不料(ハカラズ)も殯儀(ソウギ)に訪ねることが可能(デキ)て,

通宵更做念経滋。  通宵(ヨドオシ) 更に滋(シゲ)く念経(ドキョウ)を做(オクナッ)た。

只有嗟諮無巧遇,   只 (タダ)に嗟諮(ナゲ)くのみで有(アッ)たろう、巧遇(コウグウ)も                                    無く,

如逢在俗樣当時。 如逢(モ)し当時のように在俗のままであったなら。

 [註]〇不料:思いがけず、はからずも; 〇殯儀:葬儀; 〇通宵:夜通し; 〇念経:読経する; 〇滋:しげく、ますます; 〇嗟諮:「ああ」と嘆く; 〇巧遇:葬儀に参列し、読経を行う機会があったという奇遇。

<現代語訳>  

  奇遇に感謝 

図らずも、葬儀に参列することができ、

更に夜通し意を込めて読経し、院への供養ができた。

このような機会はなく、只に嘆息するのみであったろう、

もしも曽てのように 俗世に身を置いていたなら。

<簡体字およびピンイン> 

  感谢巧遇                Gǎnxiè qiǎoyù 

不料可能访殡仪, Bùliào kěnéng fǎng bìn ,  

通宵更做念经滋。 tōngxiāo gèng zuò niànjīng

只有嗟咨无巧遇, Zhǐyǒu jiēzī wú qiǎoyù,    

如逢在俗样当时。 rú féng zài sú yàng dāngshí.   

ooooooooooooo   

 両歌ともに長い詞書が添えられてあるが、本稿では省いた。その主旨は、前置きに要約したとおりである。

 

≪呉竹の節々-9≫ ―世情― 

 院政期、国政の頂に居られる鳥羽院が、その御幸に、お忍びとは言え、22歳の若い義清の同道を許されたということは、義清が如何に鳥羽院のお気に入りであったかが、伺い知れます。これは、1139年、鳥羽院の安楽寿院三重塔落慶検分の御幸に、主の実能と義清の二人だけが供奉することがあったという出来事である。

 後の話になるが、鳥羽院の崩御後、遺骨は件の安楽寿院三重塔に納められることとなり、またその供養の儀に参列でき、読経を挙げるという機会を得たという事実に対する西行の想いの深さが、今回読んだ歌に表れているようである。

 義清は、歌や漢詩文、蹴鞠、弓、等々、文武両道に優れた才を示していたことが、諸書に記載が見え、鳥羽院の日常の諸種催しごとに対応できていたようで、特に鳥羽院が愛していた所以でもあろう。

 一方で、佐藤家の棟梁たる義清は、荘園を守る立場から鳥羽院に対抗せざるを得ない立場に立ち至ったのである。前回見たように、佐藤家の荘園・田仲庄の南隣に、新たに荒川庄が開かれて、境界争いが絶えなかった。荒川庄の“領家(リョウケ)“および“本所(ホンジョ)”は、高野山および鳥羽院であり、それぞれ、義清にとっては、帰依している真言密教の聖地および国政の頂の御方である。特に、鳥羽院との関係から、荘園の紛争を表ざたに出来ない事情にあった。

 荘園制という仕組みの中で、荘園経営は佐藤氏族の存亡に関わる課題であり、義清は並々ならぬ苦悩を覚える立場におかれていたことになる。義清は、出家を模索していたことは十分に考えられる。一方、弟・仲清は荘園経営に積極的に関わる素質が備わっていたようであり、その点、義清は、出家を後押しされる環境にあったと言える。

 

井中蛙の雑録】― 休み ー

  

 

 

 

 

 


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