愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題275 陶淵明(3) 園田の居に帰る 五首 其二

2022-08-15 09:27:20 | 漢詩を読む

いよいよ田舎に帰って農耕を始めます。家に閉じ籠ることが多く、時に外に出て、村人に逢うことがあるが、お互い余計な話をすることはない。作物の生長具合を語るぐらいだ。耕地も広がり、作物の成長もよし。ただ心配なのは寒い季節を迎え、作物が霜枯れを来すことだと 自然を相手の農耕生活の厳しさを思うのである。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其二 

 1野外罕人事、 野外 人事(ジンジ)罕(マレ)にして、

 2窮巷寡輪鞅。 窮巷(キュウコウ) 輪鞅(リンオウ)寡(スク)なし。

 3白日掩荊扉、 白日(ハクジツ)にも荊扉(ケイヒ)を掩(トザ)し、

 4虚室絶塵想。 虚室(キョシツ)にて塵想(ジンソウ)を絶つ。

 5時復墟曲中、 時に復た墟曲(キョキョク)の中(ウチ)、

 6披草共来往。 草を披(ヒラ)いて共に来往(ライオウ)す。

 7相見無雑言、 相見(アイミ)て(ザツゲン)無く、

 8但道桑麻長。 但(タ)だ道(イ)う 桑麻(ソウマ)長(ノ)びたりと。

 9桑麻日已長、 桑麻は日(ヒビ)に已(スデ)に長び、

10我土日已広。 我が土(ド)は日に已に広(ヒロ)し。

11常恐霜霰至、 常に恐(オソ)る 霜霰(ソウサン)の至って、

12零落同草莽。 零落(レイラク)して草莽(ソウモウ)に同(オナ)じからんことを。 

 註] 〇野外:町から離れた地、田舎; 〇輪鞅:“輪”は車輪、“鞅”はむながい、官吏の

  馬車を指す; 〇塵想:世俗的な考え; 〇墟曲中:村の片隅; 〇零落:草の

  枯れるのを“零”、木の枯れるのを“落”という。 

<現代語訳> 

 1(田舎に住んでいると) 世間とのつきあいが少なく、

 2我が家は路地の奥にあり、(騒々しく音を立てて)訪ねてくる馬車もない。

 3昼日中にも柴の戸を閉ざしていて、

 4人気のない部屋にいると つまらぬ雑念などまったく起こらない。

 5時には村里の中を、

 6草おしわけて行き来することがある。

 7(その場合でも)お互いに余計なことは言わず、

 8ただ桑や麻の生長ぶりを語り合うだけだ。

 9桑と麻は日ごとにすくすくと生長し、

10わたしの畑も日一日と広がっていく。

11いつも心配なのは、霜や霰(アラレ)にやられて、

12(作物が)枯れて雑草同様になってしまわぬかということだ。

        [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

   帰园田居 其二   Guī yuántián jū  qí èr [上声二十二養韻]

 1野外罕人事、 yěwài hǎn rén shì,  

 2穷巷寡轮鞅。 qióng xiàng guǎ lún yǎng.    

 3白日掩荆扉、 Bái rì yǎn jīng fēi,

 4虚室绝尘想。 xū shì jué chén xiǎng

 5时复墟曲中、 Shí fù xū qū zhōng, 

 6披草共来往。 pī cǎo gòng lái wǎng.

 7相见无雑言、 Xiāng jiàn wú zá yán, 

 8但道桑麻长。 dàn dào sāng má zhǎng.   

 9桑麻日已长、 Sāng má rì yǐ zhǎng,

10我土日已広。 wǒ tǔ rì yǐ guǎng.

11常恐霜霰至、 Cháng kǒng shuāng xiàn zhì,  

12零落同草莽。 líng luò tóng cǎo mǎng.  

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陶淵明は365年に誕生、父は、8歳時(372)に亡くなりますが、記録がなく、姓名はじめ詳細は不明である。続いて庶母(妹の生母)が亡くなっています(376)。一方、従弟敬遠が誕生している(381)。20歳(384)の頃、妻を娶っているが、その姓氏は不明。

 

当時、如何ほどかの耕地面積はあったであろうが、妻、老いた母、16歳下の敬遠と自分の家族構成ではやはり貧しかったというべきでしょう。畑仕事では生活を維持できず、29歳時(393)、縁故を頼って江州祭酒(学校行政を司る長官)として出仕する。

 

しかし下吏の職務に辛抱できず、幾日も経たぬうちに辞職を申し出て家に帰った。江州から手簿(記録や文書を司る官)として就任するよう招かれたが、応じなかった。翌年(394)、妻がなくなる。なお、その後まもなく翟(テキ)氏と再婚、二人の妻との間に五人の子供を設けている。

 

399年(35歳)、江州刺史・恒玄に仕え、江陵に赴任する。2年後に休暇を取り、一時帰郷した後、7月に江陵へ帰任する。しかしその冬、生母・孟氏が亡くなって喪に服するため辞任して、郷里で従弟敬遠とともに農耕生活を送る。

 

404年(40歳)、京口(現鎮江市)に赴き、鎮軍将軍・劉裕(リュウユウ)の参軍(軍事参議官、幕僚)となる。翌年、建威将軍・劉敬宣(ケイセン)の参軍となる。いずれも生活故の任官である。その後、親戚や友人に向かって、「こんな軍職よりも、しばらく地方の行政官にでもなって、ゆくゆく隠棲の用意をしたいと思うのだが、どんなものだろう」と言っていた。

 

当局者がそれを聞いて、405年(41歳)秋に、彼は彭沢(ホウタク)県の県令に任命された。妻子は手足まといだとして単身赴任し、下僕を一人家族のもとに送り届けて、子供あてに手紙を書いて持たせた:「お前たちの仕事を手伝わせるが、これも人の子であるから、くれぐれもむごく扱わぬように」と。

 

その年の終わりに、偶々郡から督郵(監察官)が県に派遣されて来ることになった。そこで県の下吏が、「衣冠束帯でお迎えするように」と言われた。淵明は慨嘆して、「このわしがわずか五斗ばかりの扶持米のために、いなかの青二才ずれに腰を曲げることが出来るとでもいうのか!」(蕭統:陶淵明伝、以下蕭統伝)と言って、即日辞職、帰郷した。

 

「帰去来の辞 序」では、この前後の状況を次のように記している。家が貧しく農耕だけでは自給自足できず、幼子が部屋に満ち溢れ、甕に穀物の蓄えはなし。親戚や友人に勧められて、叔父の推挙で県令になった。彭沢は、家からわずか百里(約50km)と遠くなく、俸田から上がる糧食で酒を醸(ツク)るには十分と考え就職した。

 

ところが間もなく、辞職し家に帰りたくなった。自分の本性は自然率直で、如何に飢寒に迫られていたとて、自分の本性に背くことは苦痛である。すぐにも夜逃げするつもりでいた。そんな折、この年十一月、程家に嫁いでいた異母妹の訃報に接し、喪に服するため、即刻一方的に辞職した。在任80日程で、外部の事情をきっかけに本懐を遂げた次第である。 

 

それ以後、淵明は隠遁の田園生活を続け、二度と出仕することはなかった。この帰郷の折に、《帰去来兮》(405)および目下の話題の《帰園田居》(406)が作られている。《帰園田居》では、帰田後の生活のさま、想いなどが具に語られており、羽を広げている様が伺えます。 

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