禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

11月の坐禅会のおしらせ

2014年10月25日 | 坐禅会
11月の坐禅会は、
11月1日(土) 午前6時半から7時半までです。

坐禅のしやすい服装でお越しください。
はじめての方は、ご連絡ください。初心者大歓迎です。

毎月1日に坐禅会を開いていますが、時間のご都合がつかない場合は、ご相談いただければ検討いたします。詳細はお問い合わせまで。


禍福

2014年10月24日 | 小さな法話
 
ある富豪の家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、見るからに気品のある女性でした。その女性は、「私は吉祥天と申します。 福徳を授けにきました。」といいます。福の神の出現に、この家の主人は大変に喜んで招き入れました。
すると、そのあとからもう一人の女性が入ってこようとしています。こちらは、見るからにみすぼらしい格好をした醜い女性でした。
「おまえは誰だ。」と主人が尋ねると、「私は黒闇天と申します。私の行くところ、必ず災厄がおきる貧乏神です。」と後からきた女性が答えました。主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはかないませんので、「おまえなんか、とっとと消え失せろ。」と怒鳴りました。
すると、黒闇天は大声をあげて笑いました。
「さっき入って行った吉祥天は、わたしの姉なのです。わたしたち姉妹はいつも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、姉の吉祥天だってこの家から出て行くのです。」
そして、吉祥天と黒闇天は、並んでその家を去って行きました。

このお話は、「大般涅槃経」に載っているお話です。
「禍福は糾える縄の如し」という格言があります。
人生には、良いときも悪いときもありますが、財産を得た人が、後々借金に苦しんだという話や、一病息災という言葉があるように、病人の方がかえって長生きするということも、しばしば聞く話です。
私たちは、幸せを手に入れても、その次の幸せを探し始めます。キリの無い幸せ探し、それは、欲となり、いつのまにか幸せ探しは不幸せへとすり替わります。

真夜の蕾がすこしづつ開いてきました。もうすぐ開花です。


2014年10月23日 | 小さな法話
酔っぱらいのたわごと

お釈迦様が祇園精舎におられたときのお話です。
ひとりの酔っぱらい男がお釈迦様のもとに来て、「俺を出家させろ」と言い出しました。
「酔っぱらいのたわごと」とその場にいた人は誰もが相手にしませんでした。

しかしお釈迦様は、「それでは出家させてあげよう」とその願いを聞き入れ、弟子の阿難に命じてその男の頭を剃らせ、衣を着けさせました。
その後、酔いから覚めた男は、自分の姿が僧侶となっていることにたいへんびっくりし、祇園精舎から走って逃げていきました。

弟子たちは、お釈迦様に尋ねました。
「どうしてあの男を出家させたのですか?あの男には出家する気などさらさら無かったことはわかりきっていたのに」
お釈迦様は、
「長い昔の間、この男は出家をしようなどとは思ったことが無かっただろう。しかしながら酔った勢いではあるが、本気では無かったかも知れないが、出家をしたいと言い出したものである。ここで出家させてやると、これが縁になっていつか本当の出家ができるであろう。」

この話は、大智度論という仏典の中にあり、道元禅師の「正法眼蔵 出家功徳」にも出てあります。

私たちが、お寺参りをしてみようと思う、仏教の本でも読んでみようと思う、坐禅を組んでみようと思う、写経をしてみようと思う、そのこと。
これを、思うだけでなく、実行してみる。
そこに縁が繋がっていくのです。

そして、このブログを今ご覧の皆さんにも「ご縁」がありました。

庭では、「ディスタントドラムス」が一輪の花を咲かせています。

2014年10月22日 | 小さな法話
古い経典の中に、このような話があります。

あるとき、お釈迦様は弟子たちにお尋ねになりました。
「ここに手のひらいっぱいの塩がある。茶碗の水にこの塩を入れたらな、どうなる」
「水は、塩水となります。とても塩辛くて飲めなくなります。」ひとりの弟子が答えた。
「その通り。では、この塩を大河に入れたなら、その川の水は塩辛くなるだろうか」
もうひとりの弟子が「いいえ、大河ではほとんど変わりません。」と答えました。

水の量は、私たちの善行の量と言えます。
たくさんの善行を積んだ人は、大河のごとく、少しぐらいの塩では変わりませんが、善行が少ない人は、わずかな塩で変わってしまいます。
お釈迦様の教えは、善行を積み重ねよという、教えです。

アイスバーグの花の白さがきれいな、今朝です。

2014年10月21日 | 小さな法話
仏教ではすべての事は、因縁によって成り立っていると説いています。
独立して存在しているものは何もなく、すべてが何らかの因縁をもって成り立っているということ、これが仏教の根本思想です。

「因縁」の「因」とは、直接的原因のことであり、「縁」とは関節的条件といえます。

たとえば、薔薇の種が発芽するためには、種子が必要です。これが「因」です。種子がないともちろん発芽はありえません。しかしながら、種子があるだけでは発芽に到りません。

その種子が土にまかれていたり、その土に適当な水分があったり、日が当たり、一定の温度があったりするなどの諸条件が整ってこそ、発芽に到るのです。この諸条件のことを「縁」といいます。
ただ、「縁」には様々なものがあり、水分がなさすぎたり、逆にありすぎたり、温度が低すぎたり、高すぎたりということもあり得ます。あるいは種子が鳥などによって食べられたり、傷つけられたりというのも、また「縁」です。
私たちのはからいをはるかに超えた、あらゆる事柄が相互に関係して成り立っているのです。

庭の鉢植えの「真夜」に蕾がついています。
縁があっての蕾。
もうすぐ咲きそうだなと思いつつ、「縁」があったら花が咲くでしょう。「縁」がなかったら咲かないかもしれません。

今できる善い「縁」を、ひとつでも多く重ねたいものです。