禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

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1 コメント

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綺麗に咲きましたね (赤い薔薇)
2015-10-20 12:46:06
とてもセンスが良く咲いていらっしゃいますね。花を愛する方に悪人はいません。あなた様はきっと優しい優雅な方なのでしょう。禅の宗派は 「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」と三つあり、これらを総称して「禅 宗」と言いますね。禅宗では仏の悟りを「月」として経を「月を差す指」と言い、仏の悟り(月)を得た後は経典(月を指す指)は必要ないとしてその教義は達磨の「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」に代表されますね。「教外別伝・不立文字」とは、お釈迦様の教えの真意は文字などで表現する事ではなくて以心伝心の経典とは別に心より心へと伝えられると言うものですね。直指人心・見性成仏とは教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ自己の本性が仏そのものであると知る事を言いますよね。禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張しているにもかかわらず本尊と所依の経典を定めていますね。本尊は釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として宗派によってそれぞれ異なったものを立て一定していませんよ。また所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』で宗派によって様々であります 禅宗ではお釈迦様の一代聖教には真 実を顕さず真実の法はお釈迦様が迦葉 一人に一代の教えの他に別に伝えたと言いますね。しかしお釈迦様の涅槃の時には迦葉はその場にいな かったのであります。なのでお釈迦様が華を拈んで迦葉尊者が笑みを浮かべたという事はありません。禅宗でよく言う「拈華微笑」とは全く根拠のない作り話であります。「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わると言うが「教外別伝・ 不立文字」と仏が説いた事 自体が 教えであり言葉であり文字とし て残っているではないでしょうか? 不立文字とは文字を立てない事でありますから当然、経典などは用いない事になるのにその根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違ですよ。しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその存在はなく古来より偽経として扱われているのであります。 また達磨は『楞伽経』を註釈した書物を作り第二祖慧可に禅の法を伝えたとしていますがこれもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違しています。一代聖教を誹謗し経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は『涅槃経』の「若し仏の所説に随わざる者あらば是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業と言わざるをえません。 更に「直指人心・見性成仏」と言い教経を用いず坐禅によって見る自己の本性が仏性であり仏そのものとします。確かに衆生は全て仏とも言えますがそれは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛の凡夫の心は迷いの心であってその心をいかに見つめても仏心を観ずることは出来ません。だからこそお釈迦様は 『涅槃経』に「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」と説かれて人の心は迷いの心であってその心を師匠とすべきでないと誡められているのであります。完全無欠の仏を蔑ろにして「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心を持って「我が心を観じる事によって仏となる」という禅宗の教えは随分と増上慢な教えですよ。勧誘するわけではありませんが禅宗を捨て、近くの日蓮正宗 法華講の寺へ訪ねて改宗して真の平和を祈る方になって頂けたらと思います。
南無妙法蓮華経
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