禅と薔薇

高島市 曹洞宗 保寿院 禅の話と寺族の薔薇のブログ

口中に生じた斧

2015年03月31日 | 小さな法話
ある男が、お釈迦さまに馬事雑言を浴びせました。
お釈迦さまは、これを黙っておられました。

男が言いくたびれて、一息ついたときに、お釈迦さまは尋ねました。
「あなたのお家にお客さんは来られますか?」

男が「ええ、来られますよ」と答えると
「そのお客さんに御馳走を出されたことはありますか?」
「ええ、ありますよ」
「もし、そのお客さんがその御馳走を頂かれなかったら、その御馳走は誰もものになるのでしょう」
「もちろん、誰のものでもない、私のものになりますよ」男は答えました。
そこでお釈迦さまは、
「あなたは私にいろいろおっしゃったが、私はその言葉を頂きません。
だから、その言葉は他の誰のものでもない、あなたのものです。」とおっしゃいました。


お釈迦様の言葉に「人は実に生まれながらに、口中に生じた斧をもっている。
人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬る。」という言葉があります。

他の誰でもなく、自分自身を斬るのです。

薔薇が一斉に春を満喫しているようです。

老倒疎慵無日

2015年03月30日 | 小さな法話
「老倒疎慵無日 閑眠高臥対青山」(ろうとうそようぶじのひ かんみんこうがしてせいざんにたいす)という言葉があります。
漢字ばかりが続くと、難しいように勝手に思い込んでしまします。
年老いてすっかり丸くなった人が、高枕で青山を眺めながら寝ているということです。
こだわりのない禅僧の境地をあらわしているということです。


うらやましい環境かも知れませんが、その環境は、自分の外の環境ではなく、
自分のうちの環境にあります。

心の持ち方が大切なのです。


薔薇「禅」は、春がうちに満ち満ちているようです。

彼岸

2015年03月19日 | 小さな法話
春のお彼岸です。

自分の足元を見つめ直す、よい期間です。

彼岸は、此岸から彼岸へ至るといわれますが、
言葉を変えれば、此岸はそのまま彼岸になるのです。

「今」を生きている私が、彼岸になるのです。

そこに何の区別も境も無くなるのが彼岸です。

薔薇「禅」は、誰かに言われることもなく、花を咲かせる準備をしています。


八風吹けども動ぜず

2015年03月11日 | 小さな法話
昨日はひどい風が吹きました。比良八荒の時期を迎えます。

『寒山詩』に「八風吹けども動ぜず」という句があります。
八風とは八方から吹く風のことで、
八方とは、利・誉・称・楽の四順と衰・毀・譏・苦の四違を言います。

利は自分の意に叶うこと、誉は影で褒められること、称は直接褒められること、楽は人を喜ばせることで、この四順は人が求めることです。
衰は意に叶わないこと、毀は陰口を言われること、譏は直接そしられること、苦は苦しみのことで、この四違は人が避けることです。
いずれも私たちの迷いのもととなります。

比良八荒の時期は卒業の時期です。
新しい道にも八風は吹き付けますが、この風に心が揺さぶられることなく、
真理にそって一生懸命生きることが仏さまの教えです。


薔薇「禅」は、降雪により屋内待機中です。