6月15日(金)に記者会見があり「笹本恒子写真賞」の発表が行われた。
この賞はJPSが平成28年に創設し、昨年はアイヌの人々を25年間撮り続け、今も人々に寄り添って活動を続ける「宇井眞紀子」さんが受賞された。
今回の私の受賞理由は、「18年余りにわたって、カンボジアの農村地帯を訪ね、戦乱で荒廃した村で目を輝かしながら働く子どもたちの、未来に希望を託す姿に感動してまとめた一連の写真集、写真展での優れた表現に対して」の受賞となっている。
改めて、お世話になった皆様に感謝しなければならない。
2000年にカンボジアに入り、とうとう18年間通ったことになる。
帰国すると待っていたのは大量のモノクロのフィルムの現像作業、べた焼き、プリント・・・。だった。
最初は「何をすべきか、何ができるか。」
「写真とは何か、テーマは何か、写真の力を信じてみよう」と堂々巡りを繰り返した。
当たり前のように働いていたカンボジアの子どもたち、お母さんたちやお婆ちゃんたちのことが思い返された。
子どもたちは、厳しい条件の中で、ひょうひょうとして、なぜか人を引き付ける明るさがあった。
女性たちは飾り気がなく、野菜作りや予防接種、HIV、デング熱の話があると、いつも集まるのは女性たちでした。
子どもたちを通じて内戦後の様々な家庭事情を取材することが出来た。
知り合いになった子が、人身売買の犠牲になったり、捨てられていた子や、亡くなった子ども、タイ国境沿いへ移転した子も居た。
15歳で遠くの遺跡へ働きにいった子もいて、親は「もう大人だから帰ってこない」と言った。
行くたびに沢山の出来事に会ったことが、カンボジアへ行く原動力になった気がする。
多くのNGOやNPO法人などの団体の援助が必要な国であったが、唯一 1997年に、NPO法人フレンズ・ウイズアウト・ア・ボーダーによって設立した「アンコール小児病院」は、2013年にカンボジアの医師や看護師によって運営されるようになった。
2001年頃、出来たばかりの孤児院に訪れ、また病院の待合室での母子との出会いが村へ行くきっかけになった。
義肢センターの親子。 障害を持った子どもたちやポリオの子どもたちを連れて、集まってくる。
シェムリアップの街は2009年頃、初めて信号が設置されたが誰も守る人はいなく、2012年になってもまだ認識されていない状態だった。
最近では、信号に秒数が表示され、整然と通行ができるようになったが、車やバイクも増えたため事故も多くなった。
シェムリアップの街は観光客であふれているが、村はまだまだこれからだ。
あの大虐殺の首謀者であったポルポト政権が終焉をむかえ、約40年近く経った。
人口が1600万人になり内戦後生まれた20歳から40歳代が活躍する時代になったが、充分な教育がなされていないことが、今後の課題になっていくと思う。
私はモノクロを勉強をするため、2001年に現代写真研究所の26期を終了した。
その後も所長である英伸三先生に、写真集など何かとお世話になりました。
この賞はJPSが平成28年に創設し、昨年はアイヌの人々を25年間撮り続け、今も人々に寄り添って活動を続ける「宇井眞紀子」さんが受賞された。
今回の私の受賞理由は、「18年余りにわたって、カンボジアの農村地帯を訪ね、戦乱で荒廃した村で目を輝かしながら働く子どもたちの、未来に希望を託す姿に感動してまとめた一連の写真集、写真展での優れた表現に対して」の受賞となっている。
改めて、お世話になった皆様に感謝しなければならない。
2000年にカンボジアに入り、とうとう18年間通ったことになる。
帰国すると待っていたのは大量のモノクロのフィルムの現像作業、べた焼き、プリント・・・。だった。
最初は「何をすべきか、何ができるか。」
「写真とは何か、テーマは何か、写真の力を信じてみよう」と堂々巡りを繰り返した。
当たり前のように働いていたカンボジアの子どもたち、お母さんたちやお婆ちゃんたちのことが思い返された。
子どもたちは、厳しい条件の中で、ひょうひょうとして、なぜか人を引き付ける明るさがあった。
女性たちは飾り気がなく、野菜作りや予防接種、HIV、デング熱の話があると、いつも集まるのは女性たちでした。
子どもたちを通じて内戦後の様々な家庭事情を取材することが出来た。
知り合いになった子が、人身売買の犠牲になったり、捨てられていた子や、亡くなった子ども、タイ国境沿いへ移転した子も居た。
15歳で遠くの遺跡へ働きにいった子もいて、親は「もう大人だから帰ってこない」と言った。
行くたびに沢山の出来事に会ったことが、カンボジアへ行く原動力になった気がする。
多くのNGOやNPO法人などの団体の援助が必要な国であったが、唯一 1997年に、NPO法人フレンズ・ウイズアウト・ア・ボーダーによって設立した「アンコール小児病院」は、2013年にカンボジアの医師や看護師によって運営されるようになった。
2001年頃、出来たばかりの孤児院に訪れ、また病院の待合室での母子との出会いが村へ行くきっかけになった。
義肢センターの親子。 障害を持った子どもたちやポリオの子どもたちを連れて、集まってくる。
シェムリアップの街は2009年頃、初めて信号が設置されたが誰も守る人はいなく、2012年になってもまだ認識されていない状態だった。
最近では、信号に秒数が表示され、整然と通行ができるようになったが、車やバイクも増えたため事故も多くなった。
シェムリアップの街は観光客であふれているが、村はまだまだこれからだ。
あの大虐殺の首謀者であったポルポト政権が終焉をむかえ、約40年近く経った。
人口が1600万人になり内戦後生まれた20歳から40歳代が活躍する時代になったが、充分な教育がなされていないことが、今後の課題になっていくと思う。
私はモノクロを勉強をするため、2001年に現代写真研究所の26期を終了した。
その後も所長である英伸三先生に、写真集など何かとお世話になりました。